異変
鹿角が言った通り、身体を拭いているうち、樹の熱はわずかだが下がったように感じられた。
明日菜はホッと一息つき、かじかんだ手を囲炉裏の火にかざす。と、目の前にお椀が突き出された。
「食う?」
「……いただきます」
受け取って、もそもそと口に運ぶ。
中身はよく判らないけれど、取り敢えず野菜と何かの肉が入っていて、味噌で味付けがしてある。それなりに、美味しい。
身体が温まるものを食べているとなんとなく気分も落ち着いてきて、明日菜はチラリと向かいに座る鹿角に目を向けた。
「何だ?」
鹿角の方は明日菜を見ていなかったというのに、視線を注いだだけで彼は即座にそう言った。何か言われるとは思っていなかった明日菜は若干どぎまぎしながら、返す言葉を探す。
「あ、えっと、この村って、他の人もいるんでしょ? さっき外に行ったときには誰もいなかったんですけど」
「ああ……彼らのことは放っておいてやってくれ。あんたも、オレがいいと言ったとき以外は外には出ないように」
「え?」
「彼らは余生を平和に暮らしたいだけなんだよ。できるだけ、余計なものは入れたくないんだ」
つまり、よそ者の相手はしたくない、ということだろうか。
確かに小説とかでは山奥の小さな村は排他的で、よそ者は大変な目に遭うことが多いのだけれども。
(でも、それって、物語だし)
なんとなく、さっき外に出た時に感じた奇妙な気配が気になったけれど、スルーするべきなのだろう。きっと、明日菜のことを遠目に窺っていたとか、そんなところなのだろうから。
(樹さんが回復するまでのことだしね)
少し寂しく思いながらも、自分を胸の内で呟いた。
「樹さんの熱、いつ下がるかな。ていうか、何の熱なんだろう」
「さぁな、風邪かなんかじゃねぇの?」
いかにもおざなりな鹿角の返事に明日菜はムッとする。
「そんなにか弱くないんじゃないんですか?」
「じゃ、知恵熱」
「真面目に答えてます?」
「いいや。オレは医者じゃないから判らん」
「もう! でも、原因が判らなかったら治せないじゃないですか!」
「そのうち勝手に治るんじゃないの? 丈夫なんだから」
完全に、適当だ。
更に言い募ろうと明日菜が息を吸い込んだ、その時。
明日菜は、ハッと息を呑んだ。
(――気のせい?)
息を殺して耳を澄ませる。
――――ぁあ……あ……あ……
「うそ……」
思わず、彼女は呟いた。
聞こえてきたのは、人の声。
だが、意味を成していない、叫び声。
それには嫌というほど聞き覚えがあった。
明日菜は身をよじって樹を振り返る。
彼がこんな状態なのに、『新生者』が現れるなんて。
呆然とする彼女に、やれやれと言わんばかりのため息が届く。向き直ると、鹿角が立ち上がるところだった。
見上げる明日菜と目が合うと、彼は苦笑を返してきた。
「まあ、こうなるんじゃねぇのかなとは、思ってたんだけどよ」
事態を予測していたという彼の言葉に、明日菜は眉間にしわを寄せる。
「それ、どういう意味ですか?」
彼女の問いには答えず、鹿角はチラリと目を走らせた。そこには奇妙な光がある。
「今は説明してる暇がないから、後でな」
そう言うと、彼は明日菜に背を向け、壁の方にしゃがみ込んだ。何かごそごそといじっていたかと思うとまた立ち上がり、彼女の方に戻ってくる。
「あれ、それって……」
明日菜は鹿角の手の中にあるものに、目を丸くした。
スタンガンだ。
鹿角はそれを彼女に渡しながら、言う。
「夜のうちにあんたらの荷物を取りに行ったんだよ。多分全部あると思うけど」
そう言って鹿角が親指で示したのは、さっき彼がしゃがみ込んでいたところに置かれた二つのバックパックだ。
「取り敢えず、オレは外を片付けてくるけど、あんたはここでジッとしていてくれよ? で、襲ってくる奴がいたら、迷わずそれを使え。――使い方は知ってるんだよな?」
「あ、はい」
以前に、実際に使ったことがある。
相手は『新生者』だったけれども、悶絶してビクビクと身体を跳ねさせる姿は、正直言って怖かった。あれきり使うことはなかったけれど、できればもう二度と使いたくない。
けれど、樹がこんな状態である以上、彼と自分を守れるのは明日菜自身しかいないのだ。
明日菜はスタンガンを握り締めて、頷いた。
そんな彼女の頭をクシャリと撫でて、鹿角は笑う。
「なぁに、すぐ戻ってきてやるからさ」
「うん……」
心許ない、けれどもかろうじて笑顔と言える表情を、明日菜は鹿角に返した。
と、また、雄叫びが届く。今度は、さっきよりもだいぶ近い――というよりも、複数、村に入り込んでいるようだ。
でも、こんな山奥の小さな村にまで、迷い込んでくることがあるなんて。
十日ほど前にアキラが住む街を出てからは比較的平和だったから、何だかちょっとショックだ。
そんな気持ちが明日菜の顔には表れていたのだろう。
「大したことじゃないさ。すぐ終わる」
そう言って、鹿角はジッと彼女を見つめてくる。
「いいか? 相手が誰であっても、それを使うのをためらうなよ?」
「――うん」
彼はまたポンと明日菜の頭を叩き、クルリと身をひるがえした。
しばらくして、ガタガタと、鹿角が戸を閉める音が聞こえてくる。それが終わると、部屋の中はしんと静まり返った。
明日菜は壁に寄り掛かって外の物音に意識を向ける。
時折聞こえてくるのは、あの、獣じみた怒号だ。けれどもそれは獲物を目指して猛り狂っているものではなくて、ただ、唸り声をあげている、というように感じられる。
(あたしがここにいることには、気付かれていないんだ)
多分、家の中に隠れている他の住人も、大丈夫なのだろう。誰かが見つかっていれば、きっと物凄い騒ぎになっているだろうから。
なんとなくホッとして、声を数えた。
やっぱり、一人ではなさそうだ。少なくとも五、六人はいるように聞こえる。
(けど、そんなにたくさん、どこから来たの?)
明日菜たちを追いかけてきたのだろうか。
だとすればここの住人に対して申し訳なさでいっぱいになるけれど、一晩で追いつかれるような距離にいたとは、考えにくい。
「ホント、どこから出てきたんだろ……」
首を傾げつつ、どうにも気になってしまって、明日菜は小さな窓からこっそりと外を覗いた。
まず見えたのは、腰が曲がった老人だ。微妙に覚束ない足取りでよたよたと歩いている。そうしてもう一人、これまた明日菜の五倍は齢を重ねていそうな老女が見えた。どちらも、呼びかけ合うように意味を成さない声を上げている。
明日菜は、激しく違和感を覚える。
皆、老人だ。
(なんか、これって――)
まるで、鹿角に聞かされていたこの村の住人のような。
けれど、彼は、この村の住人は、平穏に過ごしたいと言っていたではないか。『新生者』相手にそんなふうに言うはずがない――ない、はずだ。
もっと、今まで目にしてきたような若い姿がないだろうかを見渡してみたけれど、もう一人見つけたのは、先ほどの二人よりも更に年を食っている。
三人目を見てしまえば、もう明日菜も気付かざるを得ない。
(この村の人、『新生者』だったんだ)
けれど、それなら、鹿角はここで何をしていたのだろう。
訳が解からない。
首を捻るばかりの明日菜の耳に、ふと、微かな、本当に微かな、物音が届く。
振り返った彼女は、そこに身体を起こして立ち上がろうとしている樹を見た。
「良かった、樹さん! 目が覚めたんだ? 大丈夫なの? 熱は?」
問いかけながら樹に近寄ろうとした明日菜だったけれども、ゆらりと動いた彼の目を見て、足が止まる。
(何、これ)
これは樹ではない。
目が合った瞬間、頭にそう浮かんだ。
ギラギラと光る、けれど虚ろな眼。
それは明日菜を明日菜だと認識していない。
こんな眼差しをする樹なんて知らない――見たことがない。樹がこんな目をするはずがない。
これは、明日菜が知る樹では、ない。
けれど、樹でないとすれば、今目の前にいるのは、いったい何者なのだろう。
「樹、さん」
確かめるように、明日菜は彼の名を呼んだ。
とても長く感じられた、束の間の静寂。
シュッと、彼の視線が明日菜に集束する。
そして。
「があぁあああ!!」
獣が、雄叫びを、上げた。




