彼の傷
翌朝。
「おはよう」
朗らかな声と共に、鹿角が明日菜たちのいる部屋へと入ってきた。
部屋の中はあまり明るくない。
壁には一つだけ外が覗ける程度の窓があるけれど、曇っているのかよほど朝が早いのか、そこから入ってくる光も「燦々と」とは程遠かった。
「よく眠れたか?」
問われて、明日菜はまだ覚めきっていない目をこする。
いつ眠ったのか、覚えていない。
あれからやっぱり樹の熱がすごく高くて、どうにも耐えられなくなった明日菜は氷でもないものかと家の中をうろついた。けれど、たった三部屋しかないその中に、冷蔵庫はおろか電化製品らしきものが一つも見当たらなかったのだ。せめて水でタオルでも濡らして――と思ったのに、家の中には水道すらない。
かろうじてトイレはあった。もちろん、水洗式ではなくて、前に学校の遠足で山に登ったときにあったものと同じ、深い穴に便器をのせたような代物が。
いくら待っても鹿角は戻らず、うっかり家から出たらまた樹を起こしてしまいそうで離れることもできず、彼の横でまんじりともせずにいたらいつの間にか寝付いてしまったらしい。
「……おはようございます」
もそもそと答えながら、樹の首の辺りに触れてみる。
やっぱり、熱い。
「何か熱下げられるようなものって、ないですか?」
「ああ、外に出たらすぐ井戸があるから、汲んで来いよ。ついでに顔も洗ってくれば?」
そう言って、鹿角はゴワゴワしたタオルを投げてよこした。
「水入れるものが欲しいんですけど」
「ん? ああ」
片方の眉を器用に持ち上げて樹を見た鹿角は、部屋から出ていくとすぐにバケツを持って戻ってきた。
いかにも掃除用のものらしいそれに明日菜は眉をしかめたけれど、背に腹は代えられない。
「出てグルッと左に回ったら井戸があるから。何度かポンプ押したらしばらく水が出っ放しになるよ」
説明されても全然イメージが湧かなかったものの、行ってみればどうとでもなるだろうと明日菜は言われた場所に向かってみる。
外は静まり返っていて、聞こえるのは鳥のさえずりくらいだ。
(ホントに、人いるのかな……)
早朝のせいか全然そんな気配がしなくて、明日菜は胸の中で独りごちた。
いるとしてもこんなに静かなのだし鹿角だって平然としているのだから、『新生者』ではないはず。
(こういうところって、いとこ同士とか近親婚が多いっていうもんね)
きっと、偶々皆『変異者』だったのだろう。
それで、変化を免れているに違いない。
明日菜の中では護衛イコール樹になっていて、何となく、その同業者の鹿角も同じくらい『変異者』を保護することに対する意識が高いのではないかと思っていた。何となく、明日菜を危険な目には遭わせないのではないかという気がする。そのせいか、他に人がいると聞かされていてもあまり不安は湧いてこない。
「このまま、鹿角さんも一緒に来てくれたらいいのになぁ」
そうすれば、樹の負担はグッと減るだろうに。
そんなことを考えながら歩いていると、鹿角が言っていた井戸らしきものが姿を現した。
「ポンプって、これ?」
明日菜はバケツを地面に置いて、試しにそれらしきレバーを押し下げてみた。
いや、下げようとしてみた。
動かない。
「結構、固い?」
今度は両手をレバーに乗せて体重をかける。
動いた。
数度それを繰り返すと、蛇口から水が出てきた。
明日菜はお椀にした手にそれを受けて、顔を洗う。
水はとても冷たく、まるで氷から融けたばかりのようだ。
(これで冷やしたら樹さんの熱下がるかも)
そう思ったら洗顔なんてそこそこに、バケツの中に水を溜め始める。コツを覚えてしまえば、意外にポンプは楽に動かせた。
ややして。
「……こんなものかな」
少々入れ過ぎてしまった感のあるバケツを両手で持ち上げようとして、ふと、明日菜は首筋の辺りにざわつきを覚えた。
(何?)
パッと辺りを見回してみる。
何もない。
変わらず、しんと静まり返っている。
『新生者』であれば、明日菜の姿を見た途端に突進してくるはず。でも、風にそよぐ木の枝の他は動くものは何一つ見当たらないし、あの雄叫びも聞こえてこない。
にも拘らず、その違和感は一向に消える気配がなかった。
この集落の住人だろうか。でも、それなら、出てきて声を掛けてくれたらいいのに。
たとえ九十歳の老人でも、会話ができるのならば大歓迎だ。
そう思って待ってみたけれど、やはり誰かが姿を見せることも、声を掛けてくることもなかった。
「気のせいかな……」
ぼやいて、明日菜はバケツの取っ手を握り直した。そうして、家の中に向かう。
樹のもとへ戻ると、彼は相変わらずぐったりと横になったままだった。
「よう、使えたか」
囲炉裏の上の鍋を掻き回していた鹿角が、明日菜が手にしたバケツを覗き込んだ。
「結構固かったです」
「そうか? まあ、そうかもな。ああ、飯作ったけど食うだろ?」
問われて、明日菜は鍋の中を覗き込んだ。中身は何だか良く判らないけれど、美味しそうな匂いはしている。
「いただきます」
答えると、鹿角は嬉しそうににんまりと笑った。
「何入ってるか聞いたら、食う気無くすかもしれないけどな」
「……そういうこと、言わないでくださいよ」
「はは。大丈夫大丈夫。ちゃんと食えるもんだから」
――詳しくは聞かないことにした。
からかっているのか本気なのか良く解らない鹿角は放っておいて、明日菜はバケツを樹の頭の横に下す。中に入っていたタオルを絞って、彼の額の上に置いた。
と、すかさず鹿角の声が水を注す。
「そんなことしても熱は下がらねぇよ」
彼に向き直った明日菜は、ムッと唇を尖らせた。
「でも、他にできることないじゃないですか」
「いやいや、水で冷やすのはいいんだけど、デコじゃ意味ないってこと。服脱がせて身体拭いてやれよ」
「……え?」
明日菜は強張った顔で問い返した。鹿角は丁寧にもう一度同じことを言ってくれる。
「だからさ、服全部脱がして、濡れタオルで身体拭いてやるんだよ。その方が下がる」
「脱がせるって……」
「おや? できないの? まあ、無理にとは言わないよ」
へらへらと笑いながらそんなことを言う鹿角を、明日菜はジトリと睨み付けた。
本気だろうか。
――本気な気がする。
明日菜はまだ少し迷ってから、樹の服のボタンを外し始めた。
まだろくな恋愛経験もないのに、男の人の服を脱がせることになろうとは。
そんなためらいも、作業に困難を極めるうちに頭の中から消えていく。
樹が重いというのもあるけれど、意識がない人の身体を扱うのがこんなに難しいとは思わなかった。
かなり頑張って、上半身をTシャツ一枚にする。それを完全に脱がせるのは流石に無理な気がして、めくって拭くことにする。
明日菜は裾を握ってえいやと持ち上げ、できるだけ目を逸らしてその中に濡れタオルを握った手を突っ込んだけれど――次の瞬間、シャツが伸びんばかりに引っ張って、現れた樹の身体を凝視する。
「うぅわ、ずいぶん大胆だねぇ」
鹿角の軽口も耳に入らなかった。
耳からの情報に応じないほど、明日菜の頭の中は目から入ってきたものに全て費やされていた。
樹の、筋肉質な上半身。
鍛え上げられているその身体に無数に残る、傷痕。
明日菜は、痕が残るほどの傷なんて、目にしたことがなかった。せいぜい、自分の指に残る、昔工作の時にちょっとナイフで切ってしまって、薄っすら残っている一センチもないほどのものくらい。
けれど、樹の身体に刻まれているものは、そんなものではなかった。
大小様々――けれど、『小』といっても十センチを下ることはない。形も色々だ。
その中でも一番明日菜の目を引いたのは、みぞおちから下にある、傷。
長さも幅も多分二十センチ以上ある。
「こんなの、普通、死んじゃうんじゃないの?」
範囲が広いだけで、深さはそれほどなかったのかもしれない。けれど、こんなにも鮮明に形が残っているものが、かすり傷程度だったとは思えない。
口もきけずにいる明日菜に、鹿角の声が届く。
「そいつも兵隊やってたんだから、傷の一つや二つくらい珍しくないだろ」
「でも、これ、一つ二つのレベルじゃないし!」
見える範囲のものをパッと数えただけでも、十個はある。
「まあ、取り敢えず、今、生きて普通に動いて喋ってんだろ? それでいいだろうが」
「それは、そうだけど……」
最後の方はもごもごと口の中で噛み潰して、明日菜はもう一度樹の身体に目を向ける。
その時樹が小さく呻き声を漏らして、明日菜は彼の熱のことを思い出した。タオルを冷たい水に漬けて、絞る。傷痕だらけの大きな身体を拭いているうち、何だか泣けてきた。
どうしてだろう。
こんなに怪我だらけなのに、まだ、彼は他人を守ろうとする。
もうお金とか、そういうのには、何の価値もない世界になったというのに。
自分の為に、自分を守る為だけに生きたらいいじゃないか。
スンと鼻をすすると、囲炉裏を挟んだ向こう側から小さな吐息がこぼされるのが聞こえてきた。
「泣かなくてもいいだろう」
「好きで泣いてるんじゃないし」
また、ため息。
そして。
「そいつは、きっと、好きでやってるんだよ。自分でやりたいと思ったから、あんたを守ってるんだ」
「でも、なんで……」
明日菜たった一人を助けたところで、この壊れた世界が元通りになるわけではない。
彼女が何か素晴らしい能力を持っていて、この世界の復興に力を貸せるわけでもない。
樹がその身を犠牲にしてまで守る価値なんて、明日菜にはない。
けれど、きっと、何かあれば彼は自分よりも明日菜の命を優先する。
うなだれながら樹の身体を拭く明日菜に、鹿角はもう声をかけることはしなかった。ただ、鍋を掻き回しながらポツリと呟いただけ。
「人がすることには、何かしら理由や目的があるもんだ。そいつなりの、な」
――と。
もしもそうならば、明日菜は、樹の中にあるその『理由』を知りたいと、思った。