一息
鹿角が明日菜たちを連れて行ったのは、町、とはとうてい呼べない、数戸の家が建ち並ぶだけの集落だった。
「ここって、人いるんですか?」
どの家もしんと静まり返っているし、真っ暗だ。時間はまだ夜の八時か九時くらいのはずだから、住民たちが一人残らずもう寝てしまっているわけではないだろう。
きっと、誰も住んでいないに違いない。
けれど、鹿角は明日菜を見下ろして頷く。
「いるよ。全部で十三人」
「十三人? それだけ?」
「そ。まあ、いわゆる『限界集落』ってやつだな。皆七十越えのジジババばっか。一番若くて七十四だったかな。最長老は九十八だぜ?」
「きゅうじゅうはち」
思わず、明日菜は口の中で「すごい」と呟いた。
「年寄りは夜も朝も早いからな。皆八時には寝て四時には起きるぞ――ああ、ここだ」
その台詞と共に、鹿角の足が止まる。
それは、他の家屋と同じくらい古びた――『家』と呼ぶのがためらわれるような、家だった。
「鍵は開いてるから、戸を開けてよ」
言われて、明日菜は板でできたような引き戸に手をかける。動かそうとして――
「あれ?」
引っかかって動かない。スルスルッと横に動くのかと思ったけれど、実は違うのだろうか。でも、ノブはないし。
困惑して鹿角を見上げると、彼はニヤリと笑った。
「力技で開けるんだよ。ちょっと持ち上げる感じでやってみ」
言われたように、明日菜は引手に手を引っかけて心持ち持ち上げるようにして横に動かしてみた。滑るように、とは全然いかないけれど、五センチ刻みくらいでガタガタと移動する。
先に入った鹿角は先に上がり框に樹を降ろし、次いでその横に腰を下ろして靴を脱ぐ。と、外に立ったままの明日菜に気付いて手招きした。
「何やってんだよ、さっさと入って戸を閉めろって」
「あ、うん……」
足を踏み入れた土間は、ホントに土の間だった。剥き出しの地面を、明日菜はまじまじと見つめる。
そんな彼女をよそにさっさと靴を脱いだ鹿角は、放り出していた樹の襟を掴んで短い廊下を引きずっていく。一番手前の部屋に入っていく彼らを、明日菜は慌てて靴を脱いで追いかけた。
廊下から二人が入っていった部屋へと足を踏み入れかけて、明日菜はポカンと目を丸くする。
(えっと、あれって、なんだっけ……そう、囲炉裏?)
擦り切れた畳の部屋の真ん中に、鍋が置かれた砂場。
同じような情景を、前にアニメで見た記憶がある。現実で目にする機会にあずかろうとは、思ってもみなかった。
鹿角は奥の壁際まで行くと、掴んでいた樹を放した。そうして、明日菜に向き直る。
「ここ、オレが寝起きしてるとこだけど、余分な部屋はないんだよ。ここで我慢して。ああ、どうせこいつと野宿とかしてるんだろ? 部屋は一緒でいいよな? まあ、オレと一緒がいいってんなら、それでも構わないけど?」
異世界にでも紛れ込んだような気持ちで呆気に取られていた明日菜は、鹿角の最後の台詞で我に返る。力いっぱいかぶりを振って、答えた。
「樹さんと一緒がいいです」
「あ、そう?」
残念、とかなんとか言いながら、鹿角は囲炉裏の傍に腰を下ろしてポケットから取り出したライターでそこに火をつける。
「布団も余分にはないんだよなぁ。まあ、畳だし、いいか。これ点けといたら少しは暖かいだろ。目が覚めたらなんか薬飲ませられるけど、今は仕方ないから寝かせとくしかないよな。ちなみに、この鍋の中は汁物だけど、食う?」
立て板に水のようにまくしたてられてから唐突に訊かれて、彼女はフルフルと首を振った。そうして少しためらってから、樹の傍――鹿角の向かい側に座る。
火が点いて、パチパチと爆ぜ始めた薪を見つめていると、ようやく明日菜は人心地が付いてきた。
「あの」
鍋の蓋を開けて中を掻き混ぜ始めた鹿角に呼びかけると、彼は目顔で問いかけてくる。
「ありがとうございました。助かりました。あたし一人じゃ、どうしたらいいのか判らなくて」
鹿角はマジマジと明日菜を見つめてくる。と思ったら、ニカッと笑った。
「護衛がへばってどうすんだって話だよなぁ」
いかにも呆れた、と言わんばかりの口調に、明日菜はムッとする。
「ずっとあたしを守ってくれてたからです。多分、かなり無理してて」
「自己管理も仕事のうち、だろ? てめぇのことができないなら他人の世話なんか焼けねぇじゃん」
鹿角は手厳しい。それに、彼が言っていることは正しいし、明日菜も常々同じようなことを思っているのも事実だ。
(自分のことは、適当過ぎるんだよね、樹さんは)
彼はいつも、明日菜より遅く早く寝て、彼女よりも早く起きる。時々、ちゃんと寝ているのだろうかと思ってしまう。食後とか、明日菜がのんびり休んでいる時間は周囲の警戒に行ったりしているし。
自分も夜の番をすると、何度か樹に言ったことがある。何かあったらすぐ起こすから、ゆっくり寝てくれ、と。けれども彼は、そのたびに「いらん」の一言で彼女の提案を一蹴した。
樹が信頼できるような人が、一人でもいたらいいのかもしれないけれど。
ため息を一つこぼして、明日菜は目の前の男にチラリと目を走らせた。
「鹿角さんって、やっぱり服部っていう博士に雇われたんですか?」
「ああ、あのオッサンね。そう。元々は遠いお国で傭兵やってたんだけど、ある日突然、個人的にオファーがあってな。すんごい金を提示されたから速攻乗り換えた。結局、金なんて何の役にも立たなくなったんだから、ある種の詐欺だよなぁ。あのオッサン、こうなることが判ってたんだし」
軽い口調であまり笑えない事態をそう笑い飛ばした鹿角に、明日菜は束の間逡巡してから、続けて問いかけた。
「あの、変異者の人はどこですか?」
樹にとっての明日菜のような、鹿角が守るべき人もいるはずなのだけれども。
明日菜の問いに鍋を見つめたまま鹿角は一瞬手を止め、そして苦笑混じりの眼差しを彼女に向けた。
「結構色々知ってそうだな。ああ、オレの対象はここに居るはずだったんだよ。でも、オレが着く二日前に出て行ったった言われてな。行き先を探ってるうちに二進も三進もいかなくなって、ここに足止めよ」
そう言って、ハハッと笑う。能天気なようでいて、そこに微かな自嘲が含まれていたような気がするのは、明日菜の気にし過ぎだろうか。
職務を全うできなかったということは、結構プライドが傷付くものなのかもしれない。
明日菜はそれ以上そこには触れずに、話題を変える。
「鹿角さんは樹さんのこと、知ってるんですか?」
実は、それが一番知りたいことだった。
川原で相対した時、樹の方は鹿角のことを全然知らないように見えた。まあ、高熱で頭がぼんやりしているとかだったのかもしれないけれど。
彼女の質問に、鹿角は目をしばたたかせた。
「……まあ、知っているといえば知っているかな」
答えは、歯切れが悪い。
「そいつは特別だから――」
言いかけて、途中で、ふっと鹿角は口をつぐんだ。微かに眉間にしわが寄って、鋭い眼差しが宙を睨んでいる。
「鹿角、さん?」
おずおずと声を掛けると、唐突に彼は立ち上がった。
「悪ぃ。後は勝手に寝てて」
言うなり、部屋を出て行ってしまう。
「え、あの、鹿角さん?」
腰を浮かせて追いかけかけて、明日菜はまたストンと座り込んだ。
(あたし、何か悪いこと言った?)
眉根を寄せて考えてみたけれど、鹿角の突然の行動の理由はさっぱり思い浮かばない。直前までの彼の様子も、こんなふうに飛び出していくようには全然見えなかった。
しばらく、待ってみた。
が、鹿角が戻る気配は、微塵もない。
明日菜はむぅと唇を尖らせて、樹の隣に丸まった。