反感
(ああ、良かった)
目を開けて視界に入ってきたのが見慣れた天井だった時、明日菜は真っ先にそう思った。
ああ、夢で良かった、と。
何かとても、とても怖いことが起きて、クローゼットの隅で縮こまるようにして夜を過ごしたのは、ただの夢だったのだ、と。
けれど。
「腕に気を付けろ」
温かな布団の縁を握り締めて、ほう、と安堵のため息をつくと同時に届けられた低い声に明日菜は飛び起きる。
「あなた……」
彼女の口はそれだけこぼして言葉を失った。
そして思い知る。
現実だ。
あれは紛れもない現実だったのだ。
喉を引きつらせてクローゼットの方へと目を移すと、不自然に床に広げられた羽毛布団がある。かなり大きなそれでも覆いきれずに、ほんの少しだけ、赤黒いものがはみ出していた。
微かに漂う、鉄錆のような臭い。
こみ上げてきた吐き気に身体を折った明日菜の背に、大きな手がそっと置かれた。
撫でるでもなく叩くでもなく、ただ触れているだけの温もり。
彼女の背の半分を覆ってしまいそうなそれからは、重さも感じさせない触れ方なのに、確かな力強さが伝わってくる。
束の間の安らぎを覚えた明日菜だったけれど、次の瞬間、ハタとあの光景を思い出した。
床に転がった、頭。
横たわり、ピクリともしなかった、身体。
フローリングを染めていった、真っ赤な――血。
(この手が、お父さんを殺したんだ)
鮮明に脳裏によみがえった光景に、明日菜の喉から嗚咽が漏れる。
男の手がゆっくりと動いて、彼女の背中を撫でた。慰めるようなその動きに、カッと頭の中が熱くなる。
「触らないでよ!」
身体をよじってその手を振り払おうとした明日菜の左手は、目にも留まらぬ速さで動いた彼のもう一方の手で捉えられた。
「点滴が抜けるからおとなしくしておいてくれ」
淡々とした声で言われて初めて、明日菜は自分の腕に何かがついていることに気付く。
「てんてき……?」
確かに、腕にテープが貼られてそこから細い管が伸びている。辿ってみると壁に掛けてあるハンガーに下げられた液体入りのビニールパックに行き着いた。
「飲み食いしなくなって二、三日か?」
問いかけられて、物珍しさに気を取られていた明日菜は反射的にこくりと頷いた。そうしてしまってから、男を睨み付ける。
「あんた、誰よ」
彼の手の中から自分の腕を取り返して、できるだけ壁際へと後ずさった。
男は中腰になっていた尻をまた床の上に戻すと、胡坐を組む。ベッドの上にいる明日菜と視線の高さはそれほど変わらない。
厚みのある、広い肩。
――座っていても、ずいぶんと大柄なことが見て取れた。
(こんな奴が襲ってきたら、絶対逃げられない)
今はまともそうでも、いつ父のようになってしまうか判ったものじゃない。
(お父さんだって、一瞬だった)
見知らぬ男がこんな間近にいることも不安だったけれど、普通のヒトが突然怪物へと変わるのを目の当たりにした後では、そんなことは些細なことだった。
ベッドの前に陣取る彼の隙を突くのはまず無理だろうし、見るからに強靭そうなその手にいったん捕まってしまったら振り解くことなどできやしないだろう。
無意識のうちに明日菜が全身に力を込めた時だった。
不意に、男の手が伸びてくる。
思わず身を強張らせて縮こまった明日菜に、その手が止まった。
「点滴の針を抜くだけだ。もう口から何か摂れるだろう?」
彼はそのいかつい外見にそぐわない穏やかな口調でそう言うと、彼女の腕に貼られているテープを剥がし始めた。
ごつごつとした大きな手からは想像もつかない丁寧さで、彼は処置をする。
そうしながら、口を開いた。
「俺は五島樹だ。君を守りに来た」
静かな声で発せられた、漫画にでも出てきそうな非現実的な台詞。
明日菜は小さく嗤った。
「守る? 何から? あんた、わたしのお父さんを殺したのよ?」
怒りに満ちた彼女の声に、樹と名乗った男の目が微かに陰る。
「……彼は、もう君の父親ではなくなった」
「あんたの所為でね」
「俺が殺す前から、もう彼は今までの彼ではなくなっていた」
そう言って、樹は静かな眼差しを明日菜に向けた。
無言で「君も判っている筈だ」と告げているその目に貫かれ、彼女は唇を噛んで俯く。
確かに、判っていた。
あれはもう父ではないものだったのだと。全く別の、ヒトですらない、何かになってしまっていたのだと。
けれど、判ることと解かることとは全く別だ。
押し黙った明日菜に、その眼の光を和らげて男が言う。
「もう、元には戻らない――何もかも」
ゆっくりと、噛んで含めるように。
樹はしばらく明日菜を見つめていたけれど、やがて脇に置いたバックパックを探ると中から小さな包みとペットボトルを取り出した。それを彼女に差し出し、言う。
「食べろ」
促されても、鼻先に突き出された彼の手のひらに載るほどの銀色の物体は、『食べる』ものには見えない。それに、彼から何かを受け取るのは嫌だった。
手を脚の下に押し込んで頑なに上目遣いで彼を睨み続ける明日菜の前に、樹は包みとペットボトルを置いた。
「味は良くないが、栄養価は高い」
無言。
「……点滴で摂取できるカロリーはたかが知れている。出発に備えて食べろ」
最後の台詞で、明日菜はパッと顔を上げた。
「出発?」
そのありふれた単語をまるで初めて耳にしたもののように繰り返した彼女に、樹はいたって平然と答える。
「いつまでもここに留まっているわけにもいかない」
「だけどどこに行ったって同じなんでしょ!? 外は、外は……」
脳裏によみがえるのは母に喰らい付いた父の姿だ。
あんなものがうろついている中へ出ていくなんて、とてもではないけれどできはしない。
青ざめた顔をひきつらせた明日菜に、樹の目の中にほんの一瞬何かが走る。
同情、だろうか。
だが、父を殺した当人から同情されても、慰められるものではない。
「わたし、絶対行かないから」
明日菜はいっそう反感を強めてそう断言したけれど、返ってきたのは泰然とした眼差しだ。
「確かに外は危険だ。だが、隠れているのもあと三日が限度だ。あまり長く動かずにいるといずれ奴らが集まってくる。可及的速やかに移動したほうがいい」
「でも、隠れてればいいじゃない」
「食料はどうするんだ? 今ならまだ探しにも行けるが、数日もすればここいら一帯は奴らで溢れ返るようになる」
なんだか全てを心得ているような樹のしたり顔に明日菜は腹が立ってくる。衝動的に膝の横に置かれた包みを掴んで、彼の胸元めがけて投げつけた。
「あんただって何も判んないくせに知ったようなこと言わないでよ! 大体何なのよ、守りに来たって、自衛隊かなんかなの!? 遅いよ! お母さんは死んじゃうしお父さんは変になっちゃったしあんたが殺したし!」
耳障りな金切り声で叫んだ明日菜の前で、樹は淡々とした姿勢を崩さない。彼は膝に落ちた包みを取ると、静かにベッドの上に戻した。
「俺は自衛隊ではない。軍にいたことはあるが、国外だ。そこから今の雇い主にスカウトされた」
ほとんど八つ当たりにしか過ぎない明日菜の台詞に静かな湖面のような眼差しで答えた樹に、彼女は毒気を抜かれる。たとえ学習机をぶつけてみても、彼の冷静な態度はほんの少しも崩れそうになかった。
それは腹立たしくもあったけれど、同時に、炎上している明日菜の頭を冷まさせるものでもあった。
「『雇い主』……? 自衛隊とか、警察とかじゃ、ないの……?」
眉をひそめた明日菜に、樹が小さくうなずく。
「違う。今回の禍害を予測していた者から、君を守り、彼の元まで連れて行くように言われてきたんだ」
――その台詞に、明日菜は、彼の頭に今度こそベッドを投げつけてやりたくなった。