鬼の霍乱
例のごとく横転した車両に道を塞がれ、乗っていた車から降りることを余儀なくされて、丸七日。明日菜と樹は、車がすれ違えるのか疑問に思うような寂れた県道を徒歩で北上していた。
樹曰く、もう青森に入っているらしい。距離にしたら、もう家から五百キロくらいにはなるのだろうか。車に乗れることもあったけれども、基本的には徒歩になることが多い。ヒトが歩きでこれほど移動できるものだとは、正直思っていなかった。
(意外にいけたのは、やっぱり、樹さんのお陰だよね)
彼は何くれとなく気を遣ってくれて、少しでも明日菜が疲れの色を見せると休みを取ったり、休む時もできるだけ彼女が楽になれるようにしたりしてくれる。
隣を歩く樹を何気なく見遣った明日菜は、ふと違和感を覚えた。
(何だろ)
普段ないものがあるような――と考え、気付く。
(汗、かいてるよ)
しかも、結構、たくさん。
一緒に過ごすようになってもうひと月近くが経とうというところだけれども、その間、色々、本当に色々あって、かなりハードな動きをする彼も何度も目にしてきた。でも、いつも顔色一つ変えず、「お散歩でもしてるんですか?」と嫌みの一つも言いたくなるくらいシレッとしているのだ。
その樹が、額に汗を浮かべている。
これは、すごくおかしいことなのではないかと思う。
「ねえ、樹さん?」
「何だ?」
「えっと……暑い?」
そう訊ねると、何だか呆れたような眼差しが返ってきた。
確かに、秋は深まりつつあり、本州の最北端に辿り着こうとしている今は、これまでになく涼しい。明日菜には寒いくらいだ。でも、現に樹は汗をかいているわけで。
よくよく見ると、なんとなく目付きもボウッとしていないだろうか。
樹の目は明日菜に向いているけれど、目の前の彼女を通り越してその後ろを見ているような、どこか定まらないような印象がある。
「なんかさぁ、休んだ方が良くない?」
そう言ってみると、今度もまた、何を言っているんだと言わんばかりの顔で見返される。
「もうじき日没だ。それまで待て」
(でもなぁ)
やっぱり、気になる。
「あたし疲れた。もう休みたい」
グイと樹の袖を引いてそう言うと、黙々と道を踏み続けていた足がようやく止まった。彼は相変わらず眉間にしわを刻んで、明日菜を見下ろしてくる。その眼差しは彼女の言うことを怪しんでいるように見えたけれども、結局何も言わず、進路を変えた。
多分、野宿できるような場所に行くのだろう。
道から外れて茂みの方へと向かった樹に、明日菜も続く。
奥へ分け入り、しばらく進んだ後、彼は足を止めた。明日菜には良く解らないけれど、彼にはそこが野宿に適しているように見えるらしい。
樹はいつもの手順を淡々と踏んで、警報装置のセットやら食事の準備やら寝床の用意やら、明日菜が手伝う余地もなく、あっという間に済ましてしまう。
本当にいつも通りなのだけれども――やっぱり、何かが違う。
釈然としないままにあとはもう寝るだけ、となったとき、明日菜はもう一度焚火の向こうに座る樹に声を掛けた。
「ねぇ、ホントにだい――樹さん!?」
大丈夫? と言いかけて、明日菜は目を瞠る。突然、大きな身体が横倒しになったから。
裏返った声で彼を呼び、明日菜はガバリと立ち上がる。
慌てて火を回って樹の隣に膝を突き、彼を起こそうとした。けれど、重くて持ち上がらない。
仕方なく、えいやと仰向けにするに留めた。
「ねぇ、樹さんってば」
覗き込んでみればやっぱり彼は汗をぐっしょりかいていて、固く閉ざされた目蓋は明日菜の呼びかけにピクリとも反応しない。恐る恐る額に触ってみると――熱かった。この上なく、熱かった。
(これ、四十度くらいあるんじゃないの?)
もしかしたら、それ以上だ。
前に友人がインフルエンザで三十九度近い高熱を出したことがあったけれど、あれよりも明らかに熱い。
「どうしよう……そう、薬、薬はあるよね」
これだけ色々装備があるのだから、当然、熱冷ましくらいあるはず。
明日菜は樹のバックパックを漁った。そして目ぼしい包みを片っ端から開けてみる。
「あ、なんかこれっぽい――けど、何これ!?」
いかにも薬らしい錠剤が入った小瓶がいくつか出てきたけれど、どれも英語だ。しかも書かれている単語は明日菜が見たことのないものばかりで、どれが何の薬なのか、あるいはそもそも本当に薬なのかすら、判らない。
「うそぉ……」
途方に暮れて、明日菜はぐったりと横たわったまま身じろぎ一つしない樹を見た。
なんて、役に立たないんだろう。
彼女は頭の天辺まで自己嫌悪に浸かる。これまで、何もかも樹に任せっきりだったからだ。そのことに、何の疑問も持たずに来たからだ。
「ちゃんと教わっとけば良かった」
呟いてみても、後の祭りだ。明日菜は自分を叱咤し、何かできること――すべきことを探す。
「とりあえず、冷やそ。水……でも、あんまり使ったら飲み水が無くなっちゃうよね」
それはそれで困る気がする。熱があるときには水分をたくさん摂るように、母から言われたことがあるような気がする。
「近くに川とか、ないのかな」
明日菜は周りを見回してみたけれど、もう真っ暗だ。闇雲にウロウロしたら、絶対に迷う。
どうしよう、と肩を落として、はたと地図の存在を思い出した。
もそもそと樹の服のポケットを探って、スマホのような端末を見つけ出した。そうしている間も彼は全然動かないから、不安が募る。明日菜は唇を噛みながら端末を操作して、現在位置を表示する。拡大縮小を繰り返して、周囲の地形を確認した。
「あ、結構近い」
二百メートルくらい東に、道に沿って川が流れているようだ。それくらいなら、行けない距離じゃないように思える。
樹からは、絶対に離れないように言われているけれど。
「仕方ないよね、緊急事態だし」
返事のできない相手に確認して、明日菜は立ち上がった。そうして自分のバックパックから懐中電灯を取り出し、他の中身は樹の横に積む。残したのは数枚のビニール袋だけだ。その中に水を入れてバックパックで運べば、それなりの量を一度で持って帰ってこられるだろう。
「すぐ戻るからね」
答えがないのは承知の上で、明日菜は樹にそう囁いた。そうして、暗闇の向こうを見据える。コンパスで確認する限りでは、その向こうに川があるはず。
歩き出してからも彼女は時々振り返って、焚火の明かりを確認した。周囲が真っ暗なせいか、ぼんやりとした明るさだけは結構離れてからもなんとなく見て取れる。
(うん、行けそう)
もしも戻る場所が判らなくなっても、腕にはめた追跡装置のスウィッチを押せば、樹が探し出してくれるはずだ。
(まあ、動ければ、だけど……大丈夫。きっと、大丈夫)
自分を励まし、明日菜は先を急いだ。
しばらくすると、さらさらと水が流れる音が耳に届き始めた。
そうなれば、俄然足が進む。
転ばないように注意を払いながらも、ほとんど走る速さで先を急いだ。
そして。
「やった、あった!」
思わず声が上がる。
明日菜は川――というより沢に近いささやかな流れに駆け寄り、さっそくビニール袋を取り出した。
水はとても冷たい。樹を冷やすのにちょうどいいだろう。
一枚の袋に五百ミリリットルのペットボトル程度の重さ分だけ水を入れる。それを十個ほど――それが持っていける限度か。
三つ目を入れ終わったときに何か音がしたような気がした。
明日菜はびくりと肩を跳ねさせ、慌てて懐中電灯で辺りを照らす。耳も澄ましてできるだけ音を拾おうとした。
たっぷり呼吸十回分はそうしていたけれど、何もない。
「気、の、せい……かな?」
ほとんど自分に言い聞かせるように呟いて、辺りを気にしながらも作業に戻ろうとまたしゃがみこむ。
その、瞬間。
グイ、と腕を引っ張られる。
「き――」
悲鳴を上げようとした口は、物凄い力で押さえ込まれた。
(あいつら!?)
そう思った途端に、ぶわりと明日菜の全身を恐怖が支配した。パニックに陥りかけた自分をぎりぎりで押し留め、彼女はとにかくがむしゃらに暴れる。
あたり構わず振り回した足が、後ろにある硬いものに思い切り当たった。
と。
「ッ!」
背後の襲撃者が舌打ちをする。
(え?)
舌打ち。
そんなものを、思考力のなくなった『新生者』がするだろうか。
よぎった疑問を、続く声が裏打ちする。
「いてぇな。おとなしくしろよ」
(しゃ、べった)
拍子抜けした明日菜は、一瞬全ての動きを止めた。と、それを察知したのか、彼女を捕らえていた力が緩む。そうして、さっきの声が、また耳元で囁いた。
「放すから、暴れるなよ?」
やっぱり、話している。
(人間、だ)
口を塞がれたまま、明日菜はこくこくと頷く。
「よし、いい子だ」
そんな台詞とともに力が更に弱まり――次の瞬間、地面に押し倒された。