屋上にて
明日菜と樹が屋上に辿り着くのは、難しいことではなかった。
向かう先には『新生者』がいなかったからというのもあるだろうし、アキラが用意しておいてくれた仕掛けのおかげもあるだろう。
いずれにせよ、追いすがる『新生者』の群れを引き連れながら校舎の中を走り抜け、大きなトラブルはなく二人は屋上に出るための扉の前に立つことになった。
蝶番を軋ませながら鉄製の重い扉を押し開け外の気配をサッと探った樹が、先に出るように明日菜を促す。
数歩進んで真っ青に晴れ渡る空を見上げてホッと息をついた明日菜に、軽い声がかけられる。
「無事、着いたな」
声の主を探して首を巡らせると、給水塔の陰からアキラが姿を現した。
「上から見てたけど、いい感じで奴らを連れてきてくれてたぜ。もう、ほとんど全員、校舎の中に入っちまった。面白いくらいゾロゾロ、な。あ、ドアは鍵かけて、そこに置いてあるので塞いでおいてよ」
後半は、明日菜ではなく樹に向けられた台詞だ。
振り返ると、ドアの脇には重そうなベンチが置いてある。一人で持ち込むのは無理だろうから、きっと、元々この屋上に置いてあったものなのだろう。
樹は言われたとおりにそれを引きずり、ドアの前に置く。そうして、その向こうを警戒するようにその場に留まった。
それを横目に見ながらアキラはフェンスへと近づき、そこから校庭を見下ろした。
「まだ何人か外をウロウロしてんな。ま、あのくらいならいいか。じゃあ、三十分経ったら脱出だ」
「待たないといけないの?」
できることならサッサと逃げてしまいたいところだけれども。
眉をひそめた明日菜に、アキラが肩を竦める。
「奴らが逃げ出せないように、一階には発火装置を仕掛けてあるんだ。それがあと十分くらいで作動する」
「はっかそうち?」
「ああ。火の海にしたら、逃げ出せないだろ? その火で二階にある爆弾が爆発する。そのタイミングで、ここのをセットして、脱出するんだ」
そう言って、彼はフェンスの方に置いてある物を指さした。見れば、その間近に避難用の救助袋も口を開いている。
「あれは、セットしてから五分くらいで爆発する。ドアが破られて奴らがなだれ込んできたくらいのタイミングがベストなんだけどな」
明日菜に説明するアキラは終始淡々としていて、それが爆発したらたくさんのヒトが死ぬのだということは、全く気にしていないように見える。
(ホントに、どうでもいいことなのかな)
明日菜には、理解できない。
「あの、さ」
おずおずと声を掛ける彼女に、アキラが目を向ける。
「何?」
「えっと、その……なんで、爆弾とかネットで調べてたの?」
本当に訊きたいことは、人を大量に殺すことにためらいはないのかということだ。けれども、流石にそれはズバリとは訊きにくい。
アキラは束の間明日菜を見つめ、そしてニヤリと笑った。
「前から、学校を吹っ飛ばしてやろうと思ってたんだ」
「は?」
ポカンと目と口を丸くした明日菜に、アキラはまたヒョイと肩を竦めて、同じ台詞を繰り返す――今度は、少し暗い声で。
「オレは、前から、学校を吹っ飛ばしてやりたかったんだよ」
「なん、で……」
戸惑いながら呟いた明日菜から離れ、アキラは爆弾に歩み寄った。
「学校なんか、クソ溜めみたいなもんだからさ」
どぎつい言葉を、アキラは冷ややかな声で放った。それが激高したものでないから、より、深く澱んだ感情をうかがわせる。
「くそ――って」
明日菜に背を向け爆弾をいじっていているアキラを、彼女はその場に佇んだままで見つめた。その視線を感じているのかいないのか、彼はまたいつもの軽い口調に戻って、続ける。
「ヒトミ、学校行ってないって言っただろ? でも、一年生の最初のうちはちょこっと通えてたんだ」
「そう、なんだ」
先の物騒な台詞と今の言葉とはどうつながるのだろうと思いながら返した明日菜の頭に、教室の片隅で黙々と絵を描く少女の姿がぼんやりと浮かぶ。
「一応な。だいぶ渋いけど、外の世界につながるドアは、まだあったんだ」
少しの間。
そして、アキラが立ち上がる。
振り返った彼の眼差しは、暗かった。
「あいつ、いじめられたんだよ。それから、ただでさえ開けるのが難しかったあいつのドアは、コンクリートで塗り固められちまった」
苦い声で吐き出された言葉からは、そうさせた者たちへの憎悪がひしひしと伝わってくる。
「でも、ほら、相手もまだ一年生だったんだし――」
「子どもだったら赦されていいのか? 人一人を潰しても?」
「それは、そうじゃないけど……」
明日菜はもごもごと言葉を濁した。良いことではないけれど、一年生に『配慮』を求めるのは、ちょっと厳しいのではないかとも思ってしまう。そのことで学校を爆破するとか、行き過ぎではないのだろうかと。
彼女の心の中の言葉を読んだように、アキラの口が笑みで歪んだ。
「子どもだけじゃないよ。質が悪いのは、大人だ。オレは、あいつのことはそっとしておいてやってくれるだけでいいって、そう言ったんだ。昼間、母親と二人きりで家に置いておくよりは、マシだから。あいつの方から他の子に何かすることはないんだから、教室の隅っこに座らせておいてやってくれたらいいって。でも、そこからどんどん話が大きくなって、こじれていってさ。いじめてた連中の親が『うちの子はいじめなんかしてない、うちの子は悪くない!』って始めやがってさ。最後にゃ、ヒトミみたいなやつを学校によこすのが間違ってるんだって」
「そんな!」
思わず声を上げた明日菜に、アキラが小さく頭をかしげる。
「あいつは、教室にいるだけで迷惑なんだってさ。『優秀なうちの子』の邪魔になるって。最初のうちは教師連中も味方してくれてたけど、しまいにはめんどくさくなったんだろ。猫撫で声で『ヒトミちゃんは家にいる方が幸せなんじゃないかな』だとさ」
そこで、アキラは明日菜に背を向けて、フェンスに両腕を置く。もともと広くはない背中が、一層小さく見えた。
その背にかける声が見つからず、明日菜はただただ彼に眼差しを注ぐ。
チチ、と小さく啼きながら、小鳥が二羽、空を横切っていく。
沈黙は長くは続かず、不意に、クルリとアキラが振り返った。何かを振り切ろうとするかのように、勢いよく。
「あいつ、ああ見えて、オレのことはちゃんと判ってるんだぜ」
「へえ?」
唐突な話題転換についていけずに戸惑いながらも、明日菜は相槌を打った。そんな彼女に、アキラが笑う――穏やかに。
「前にさ、その絵の中にオレはいるのかって、訊いたことがあるんだ。そしたらさ、教えてくれたんだ。指さして」
「そうなんだ。でも……どれ?」
正直、ヒトミの絵は何が描かれているのかさっぱり解らない。
明日菜が眉間にしわを寄せると、アキラは得意げに笑った。
「ヒトミの絵ってさ、基本、寒色系だろ?」
「え、あ、うん」
「でも、どの絵にも絶対、小っちゃく赤いモヤモヤがあるじゃんか」
言われて明日菜は何枚かの絵を思い出してみた。
確かに、ある。
小指の爪ほどの大きさで、まるで揺らめく炎のような鮮やかな赤が、画用紙のどこかに必ずあった。
「あれがオレなんだってさ」
そう言った彼は、とても得意げで、そしてこの上なく嬉しげだった。
「あいつの中に、ちゃんとオレはいる。オレとは見え方が違うのかもしれないけど、ちゃんと、いる。それを知ったら、なんか、急に他の奴らなんてどうでも良くなった。こいつのことはオレが解ってやってたら、オレが受け止めてやってたらいいんだって。世界中の人間が誰一人理解してくれなくても、別にいいんだ」
アキラが寄り掛かっていたフェンスから身を起こし、真っ直ぐに明日菜を見る。
「あの時、オレは決めたんだ。あいつのことはオレが守ってやるんだ、死ぬまで、オレだけは傍にいてやるんだって。今だってそうだよ。こんなことになって、多分、オレ一人じゃすぐ死んでたな。あいつがいるから、何とかしなくちゃって思ってさ」
その眼差しは自信と確信に満ちていて、ほんのわずかな揺らぎもない。
明日菜は、そっと微笑んだ。この屋上について初めて浮かべることができた、自然な笑みだ。
「そっか。それは……いいね」
アキラの想いの強さに明日菜は羨ましさを覚える。ヒトミがそれを向けられていることにではなく、それほどの想いを抱ける相手を彼が持っているのだということに。
明日菜の短い返事をどう受け取ったのか、アキラはにっかりと笑った。
「そうだろ?」
あんまり自慢げに笑うから、明日菜も釣られて笑顔になる。
その時。
屋上のドアが、けたたましい音を立てた。