理由
何を話し合っているのか、樹とアキラがリビングから消えてからもう三十分近くになる。
明日菜は描き溜められたヒトミの絵を眺める手を止めて、ふう、とため息をついた。暇つぶしに、と、アキラが持ってきてくれたその作品集は、多分、一、二ヶ月ごとに綴じているのだろうけれど、全部で数十冊はある。
彼女の絵は、『何か』が描かれたわけではない。
溢れているのは、この少女の静謐な内面を表しているような、青と緑。
限られた色彩で、ただ、ヒトミが思うままに画用紙の上に表現されているものなのに、三冊ほど観終えて、その中に一枚たりとも似通ったものはなかった。きっと、彼女の中には汲めども尽きぬ泉のように、イメージが湧いてくるのだろう。
「こんなことにならなかったら、きっと、すごい画家になってたんだろうなぁ」
明日菜は一心にクレヨンを握っているヒトミを、残念な気持ちと共に見つめた。
彼女は明日菜の存在に気付いているのかいないのか、チラリと目を寄越すこともない。
本当に、彼女自身の世界の中に没頭しているとしか言いようがない風情だ。
「お兄ちゃん、ヒトミちゃんのこと、すっごく大事にしてるんだよ?」
首をかしげるようにしてそう話しかけてみたけれど、ヒトミの手は淀みなく動き続けた。
アキラに対してなら、微笑みかけることがあるのだろうか。
それがあるから、彼はこの子を守るのに一生懸命になれるのだろうか。
たった三十分しか一緒にいないのに、正直、完全無視されているのは、つらい。
これを何年も経てきたのなら、アキラという少年は、よほど辛抱強いに違いない。
明日菜はグルリと首を回しながら部屋の中を見渡した。
この家は窓が少ない造りになっているようで、その窓も、どれも下半分は板や何かで塞がれている。開いている部分から外の光が射し込んでいて、それが部屋の明るさを保っているけれど、そろそろ陽も傾く頃合いだ。そうなったら、室内は真っ暗になってしまうだろう。
(まだ、話終わらないのかな)
ちょっと、様子を見に行ってみようか。
明日菜がそう思った時だった。
足音がして、二人がリビングに入ってくる。
(あれ?)
心持ち、アキラの顔色が悪いように見えるのは気のせいだろうか。
(樹さん、やっぱり拒否ったのかな)
アキラから詳しい話を聞いて、やっぱり無謀な計画だということに落ち着いたのかもしれない。
彼が絶対ダメだと決めたのなら、きっと、一歩も譲ってはもらえないだろう。
心の中でため息をついた明日菜に、不意に声がかけられる。
「明日菜」
「え、あ、はい」
ぴくんと背筋を伸ばして、樹に顔を向ける。その鉄仮面ばりの表情からは、どんな結論が出たのかを読み取るのは不可能だ。
「ちょっと来てくれ」
そう言うと、彼は先に立って歩き出す。
連れていかれたのは二階の部屋で、どうやら、さっきまでアキラと二人で話し込んでいた部屋らしい。
ドアを閉めると、樹が仕草で座るように促した。
明日菜は二枚置かれた座布団のうちの、一枚に腰を下ろす。
しばらく、沈黙。
樹はいつもの二割増しほどの渋面で、両腕を組んでいる。
「……で?」
しびれを切らしたのは明日菜の方で、ためらいがちに話を促してみた。樹の方も、彼らしくなく切れが悪い。
「――君は」
そこで、樹の舌は止まった。少し待ってみたけれど、続かない。
「あたしが、何?」
気持ち前のめりになってあとを継ぐと、樹の眉間のしわがグッと深くなった。ほんの一瞬唇が引き結ばれて、そしてそれが開く。
「君は、どうしても彼らを手伝いたいのか?」
「え、……うん。樹さんを危ない目に遭わせるのは判ってるよ? 悪いって思うけど、でも……」
「俺のことはどうでもいい。危険なのは君だ」
そこで彼は、はぁ、と息をついた。
「アキラの計画はうまくいくだろう。安全策も練られているし、成功率は九割以上だ」
「だったら――」
「それでも、危険があることには変わりがない。君が強く望むなら、俺は彼らに手を貸そう。だが、本音を言えば、晒さなくてもいい危険に君を晒したくはない」
目の前にも、無私の人がいた。
明日菜は彼の気持ちが嬉しく、そして同時に重く、感じる。
(あたし、そんな価値ないよ……)
母も父も友人もみんな死んで、自分だけが生き残った。
それも、何か理由があってではない。
ただたまたま、受け継がれた身体の為に。
明日菜が自分で努力して手に入れたわけではないし、彼女が生き残ったからといって人類の為に何かができるわけでもない。
自分よりもヒトミの方がよほど生かしておくべき存在ではないかとすら思ってしまう。
けれど、あの子を助ける代償は、樹の命だ。
彼を危険に追いやってまで、明日菜の自己満足を叶えるべきでは、ない。
「……やっぱり、いい。樹さんに、従うよ」
明日菜はうつむきがちに、そう答えた。と、彼女の前頭に大きな手が被せられる。
何? と思った瞬間グイと押されて、顔を上げさせられた。
引っ張られるように動いた視線が、樹の目に向かう。真っ黒で底の見えない、それでいて明日菜の全てを見通しているような、目に。
「明日菜。彼らを助けても、償いにはならない」
「え?」
樹の台詞の意味が解からず、明日菜は眉をひそめた。
彼は手を引き、膝の上に戻す。そうして、ゆっくりと、言葉を選ぶようにまた口を開いた。
「彼らを助けても、君の母親や父親、友人を助けたことにはならない。彼らが死んでしまった――死なせてしまったことの代償には、ならない」
「そんなこと! ……思ってないし」
口の中でもごもごと抗議してみたけれど、樹は取り合わない。
「彼らが死んだこと、助けられなかったことに、君には何の咎も責もない。君にできることは何もない」
「じゃあ、真苅さんは? あの人は、あたしたちを逃がそうとして、自分は……」
死んだ、とは言いたくない――思いたくない。
皆まで言わずに唇を噛んだ明日菜に、樹の声が少し柔らかくなる。
「あれは彼が選んだことだ」
「そんなふうに割り切れない」
ムスッと答えると、その返事は即座に一蹴される。
「割り切れ。君の命は君のもの、彼の命は彼のものだ。君は君の命に対して責任がある。君が唯一責任を持たなければならないのは、君自身の命だけだ。君は、何よりも自分の命を長らえさせることを優先しなければならない。たとえ目の前で人が喰い殺されようとしていても、彼――彼女に足を掴まれ縋られても、その手を踏み付けてでも自分を守らなければならない」
「そんなの、無理」
その状況を想像するだけでも明日菜の胸が悪くなる。
「無理でも、するんだ」
冷たいとすらいえそうな声と眼差しで、樹が言った。そんな彼を、明日菜はギッと睨み付ける。
「じゃあ、樹さんだって同じにしてよ! あたしがあいつらに取り囲まれて、もう助かんない! ってなったら、一人で逃げてよね」
シンと、部屋が静まり返った。
一呼吸分の、間を置いて。
「それは……できない」
初めて、彼の目が逸らされた。
明日菜は大きく息を吸い込んで、反撃に出る。
「そんなの、矛盾してるじゃん。あたしの命があたしのもので、その責任はあたし自身が持たなきゃって言うなら、樹さんだって、樹さんの命は樹さんのもので、樹さんは何が何でも樹さん自身を生かさなきゃいけないんじゃないの?」
「それとこれとは、話が違う」
「どこが? 全然、違わないよ」
鼻息荒く断言しても、樹の視線は戻ってこない。
その様子は、『困惑している』とも取れそうだ。
樹が理路整然と反論してこないのは新鮮で、明日菜の肩から少し力が抜ける。
「じゃあ、いいよ。樹さんが何が何でもあたしを助けるって言うんなら、樹さんが危ないときはあたしが助けるから」
「……?」
彼の視線が戻ってきた。その顔は、唖然としている、と言ってもいいほどで。
真っ直ぐに樹を見て、彼の視線を捉える。
「なんかあったら、樹さんのことを助けるよ。何もできないとは思うけど、見殺しには絶対しない」
そう宣言した瞬間、樹の大きな身体が感電したかのようにブルリと震えた。
「それは、駄目だ!」
切羽詰まった、荒らげた、声。
彼のそんな声は、初めて聞く気がする。
「どうして。これで釣り合いが取れるじゃない」
「釣り合いなんか取れるか! 俺の命は――」
樹は、そこでハッと我に返ったように口を止めた。
一瞬にして、強固なシャッターが下りたように冷静な顔が戻る。ほんの少し強張りは残っているけれど、いつもの彼だ。
(今のは、何だったんだろう)
一瞬だけ、常に泰然としている樹の心の奥が垣間見えたような気がする。
ちらついたのは、『罪悪感』だろうか。
(でも、どうして? お母さんは助けられなかったから?)
多分、違う。明日菜の母親のことなど、多分樹の頭の中には欠片も存在していないに違いない。それとは関係のない、けれど明日菜とは関わりのある『何か』があるから、彼は頑ななまでに彼女のことを守ろうとするのだろうか。
(だけど、それは何?)
当然、明日菜と樹は初対面だ。
明日菜と樹の世界は、こうなるまで、別次元ほどにも離れていた――はずだ。
(樹さんにとって、あたしは何なんだろう)
ジッと彼を見つめる。探る彼女の眼差しから逃れようとするかのように、樹は口を開いた。
「……彼の計画には、手を貸そうと思う」
「え、いいの?」
「ああ」
彼がそう言ったのは、明日菜の追求から逃れたかったからかもしれない。
逃れようがなかったから、不本意ながら、そう決めたのかもしれない。
つまり、それほど、彼はこれ以上追及して欲しくなかったということなのだ。
明日菜は、唇を噛む。
樹を見れば、彼はもういつもの落ち着いた――隙のない態度を取り戻していて。
「……良かった」
明日菜はそう答えて、話を終えた。




