兄妹
アキラがポケットから取り出した鍵で玄関を開ける。見慣れた仕草に――何の変哲もないその仕草をもうずいぶん目にしていないということに、明日菜の胸がチクリと痛んだ。
彼はドアノブに手をかけたところで振り返る。
「あ、そうそう。言うの忘れてたけど、うちには妹がいるんだ」
「妹さん」
「ああ。でな、あいつ、自閉症ってやつなんで、基本そっとしといてやって」
「自閉症……?」
サクッとアキラが口にした言葉を、明日菜はおぼつかない口調で繰り返した。
『自閉症』という単語は、知っているけれど。
「えっと……」
(自閉症って、なんか、独りでブツブツ言ってたりとか、するんだっけ――?)
頭の中に浮かんだ彼女のイメージは貧困だ。
戸惑っている明日菜をよそに、アキラは続ける。
「あいつ、急に声かけられたり触られたりするとパニクッちゃうからさ。変に気を遣って構われると困るんだ。ほっといたら勝手に独りでなんかやってるんでね」
「そう、なんだ?」
「まあ、居るのか居ないのか判らないような奴だからさ」
そう言って、アキラはさっさと家の中に入っていってしまった。
「えっと……どうする?」
明日菜は樹を仰ぎ見た。彼はいつもの淡々とした表情で佇んでいる。
「どうする、とは? そもそも、俺はここに来るつもりはなかったが」
にべもなく返されて、明日菜はムッと唇を尖らせた。
「だって、久しぶりにヒトにあったし、頼み事されたし、同じくらいの年だし」
そこまで言って、ふと彼女はあることに気が付いた。
「そう言えばさ、子どもを見たのって、初めてだよね。その、こうなってからさ」
樹と一緒に旅立ってから、大人の『新生者』には嫌というほど遭遇したけれど、明日菜と同じくらいかそれ以下の年の子は一人もいなかったような気がする。まじまじ観察する余裕なんてなかったけれど、多分、間違いないと思う。
首を傾げた明日菜に、樹はふいとアキラが入っていったドアへと目を向けた。
「……たまたまだろう。で? 中に入らないのか?」
「入る。入るよ」
明日菜は答えて、もう一度家を見た。そうして、一息ついて、決める。
「よし、行こう」
そっとドアを開けて、中を覗き込んだ。
暗い。
もちろんただの戸建て住宅だから、造り自体は玄関があって廊下があってと見慣れたものだったけれど、その中はやけに暗かった。
今は昼間だから、もう少し外の光が射し込んでもいいはずだ。電気が通っていないから灯りが点かないというだけでなく、多分、窓も塞いであるのだろう。
明日菜は靴を脱ぎ、上がる。背後でドアが、次いで鍵が閉まる音がした。振り向かなくても、気配で樹がついてきているのが判る。
廊下の奥の方、多分リビングだと思われる辺りはぼんやりと明るくなっていた。明日菜はそこに向かう。
「おじゃまします……」
おずおずと声を掛けながら部屋に足を踏み入れる。と、まずしゃがみ込んだアキラの横顔が目に入った。そしてその眼差しが向かう先に、小さな背中。
戸口に立つ明日菜に気付いて、アキラの顔がこちらに向く。
「何してたんだよ、遅かったじゃん。あ、これが妹のヒトミ。オレは十三で、こいつは九歳。ヒトミ、この人たちはオレの友達だよ。今日から三日間、一緒にいるから」
妹に語り掛けるアキラの声は、明日菜たちに向けるものとはガラリと違った穏やかなものだった。けれど、それを向けられたヒトミという少女の背中は、ピクリともしない。
明日菜は彼らに近寄る。
「こんにちは。あの、あたし――」
ヒョイと少女と顔を合わせようとして、テーブルの上、彼女の前に広げられたものに目を留めた。
「うわぁ、すご――!」
明日菜が思わず大声を上げたのと、サッと背後から伸びてきた大きな手が彼女の口を塞ぐのと、ヒトミがビクリと肩を跳ねさせたのは、ほぼ同時のことだった。
「大声を出すな。驚かせるだろう」
耳元で囁かれ、明日菜は口を閉じさせられたままコクコクと頷く。もう大丈夫の合図で樹の手をポンポンと叩くと、一拍置いて彼の手が離れていった。
「ごめん。えっと、ヒトミちゃん、大丈夫?」
「ん? ああ、ちょっとビビらせたな。でも、セーフだ。兄さんありがと。いったんパニクると落ち着くまでに結構かかるから」
「……ごめん」
もう一度、明日菜は心の底からの謝罪を口にした。そうして、改めてヒトミの前にあるものをまじまじと見つめる。
「これ、ヒトミちゃんが描いたの?」
「え? ああ。スゴイだろ?」
「スゴイなんてもんじゃ……」
そう答えながらも、明日菜自身、それについてどう表現したらよいのか判らない。
確かに、アキラが言う通り、それは凄かった。凄いとしか言いようがなかった。
ヒトミの前に広げられているのは画用紙いっぱいに描かれた絵だ。
何が描かれているのかは、正直、解らない。いわゆる、抽象画というものなのだと思う。
でも、描かれているものの正体なんて、どうでもいいような気がした。
とにかく、画面から溢れんばかりの色彩に、圧倒される。
「こいつ、話もできないし普通の生活も一人じゃほとんどできないんだけどさ、絵だけはすげぇの」
「絵だけはって、こんだけ描ければ他ができなくてもいいんじゃないの?」
明日菜が眉根を寄せてそう言うと、アキラは肩を竦めた。
「けど、普通はさ、ちゃんと学校に行ったり他の奴と遊んだり、『みんなと一緒』ができないとダメだろ? こいつ、そういうのは全然できないから」
アキラはヒトミの横でテーブルに腕を置いて、彼女を見つめている。その眼差しはとても温かく、そして少し寂しげだった。
「こいつ、こういう世界になる前も、家から出られなくてさ。一日中、ずっと、絵を描いてたんだ」
アキラはゆっくりと手を伸ばして妹の髪の先に触れた。とたん、彼女がびくりと身を竦めて遠ざかる。
彼はキュッと手を握り込み、浅く笑った。
「こんなに世界は変わっちまったけど、こいつにとったら何も変わってないんだ。今も昔も、ずっと、こいつだけの世界に住んでるから」
当然のことのようにそう言った、行き場がないように握られた彼の拳が、明日菜の目に入ってしまう。
「なんか、それって、ちょっと寂しいね」
自分だったら、好きな人に相手をしてもらえないなんて、嫌だ。
明日菜はそう思ったけれども、アキラはまた肩を竦めて返した。
「んー、まあでも、こいつはある意味幸せなんじゃねぇの? こんなことになっちまったってのも、全然気付いてないんだからさ。絵を描いてさえいればご機嫌なんだし。オレは、こいつが良ければ別にそれでいいよ」
気負ったふうでもなく、アキラはそんなことを言った。
それほど妹というのは大事な存在なのだろうか。
(何も返してもらえないのに、相手の幸せを願えるほど?)
明日菜には兄弟がいないからアキラの気持ちが判らなかった。
ただ、なんとなく羨ましく思う。
それほどまでに、大事に想える相手がいるということを。
(こんなことにならなければ、いつかあたしにもそういう人ができたのかな)
何よりも――自分自身よりも、大事だと思えるような人が。
そんなことを考えて、明日菜はチラリと横に目をやった。と、そこにいた樹と視線が合ってしまう。
思わず、顔ごと背けた。
(ううん、違うし)
樹は、その相手ではない。
ちょっとばかり特別な感じもするけれど、それは単に他に誰もいないからだ。
(あとは、助けてもらったし、守ってもらってるし)
これは、そういう、利害関係のあるものだから、アキラが妹に注いでいるような気持ちとは全然違う。
「で、あのさ、手伝ってもらいたいことって何なの?」
ほとんど無理やり話を引っ張ると、アキラがぱちくりと瞬きをした。
「え? ああ、それな」
「何なの?」
アキラは一度ヒトミを見つめ、そうして明日菜に、次いで樹にその目を向ける。
その眼差しは、彼がまだ十三歳なのだということを忘れてしまうほど真剣な、大人びたものだった。
二人の視線を注がれ、彼は言う。
「オレは、ここを安全な場所にしたいんだ」
「――安全な、場所?」
予想外なアキラの台詞に、ポカンと明日菜の口が開く。
「ああ」
頷いて、アキラがヒトミを見つめた。
「こいつにとって、安全な場所に――あいつらを、この街から一掃したいんだ」
きっぱりとそう告げた彼の目は、揺らぎが微塵もない、わずかな怯みもないものだった。




