救い手、――あるいは凶手
ガラスが割れる甲高い音。
視界の隅をかすめた黒い影。
頭を締め付けていた力が緩む。
顔面に飛んだ生暖かい飛沫。
鼻を突いた胸が悪くなる鉄臭さ。
そして――父が、かつて父であったモノが、身を仰け反らせて叫ぶ。
「ぐ、ごがぁあぁ!」
唾と共にまき散らされるのは記憶にあるものとは全く違う声。
振り回される右腕は、肘から先がない。真っ赤な断面からビュ、ビュ、ビュ、と規則正しく鮮血が噴き出している。
少し遅れて、明日菜の頭から重みが無くなり、ドサリと重たい音を立てて床に何かが落ちた。
(腕。腕だ)
彼女は麻痺した頭で床に転がるそれを見つめる。
(……誰の?)
もちろん、今目の前で苦痛にもがいているモノの、だ。
ぼんやりと見上げると、父はもう彼女を見ていなかった。食欲よりも、復讐心の方が上回ったのか。
それの血走った眼が、己の腕を奪った者を求めてぐるりと振り返る。父の背中が邪魔をして、その向こうで何が起きているのかは、よく見えなかった。
「があぁあ!」
獣のように吠えながら両腕を突き出した父が前に数歩踏み出した。
刹那、明日菜の視界に、ほんの一瞬、閃光が走る。それは父の首を真横に薙いだ。
そして。
「……え?」
明日菜の口から思わず声が漏れた。
ゴトンと硬いものが床に落ちる音に続いて、父が、父であったモノが、ゆっくりと頽れる。無意識のうちに、彼女の目は、その動きを追った。
力なく横たわった身体と、ボールか何かのように転がっている、頭。
フローリングの床には、見る見るうちに紅い液体が広がっていく。それを目にしても、明日菜はまだ何が起こったのか理解できなかった。
のろのろと、床に伸びた身体と、それよりも近くにある父の顔の間で、視線を行き来させた。
色を失った父の顔は不思議なほどに穏やかで、虚ろに見開かれた眼が明日菜を凝視している。どうしてもそれから目を逸らせずにいた彼女の前に、黒い影が割り込んだ。
男の人、だ。
父よりもだいぶ若い、けれども同級生よりは、ずっと上。
短く刈り込んだ髪も、目も、身に着けているものも、全部黒一色で、さながら死神のよう。
男は明日菜の目を覗き込むようにして、父の顔にこびりついていた彼女の視線を奪った。その眼差しに明日菜を案じる色が浮かんでいるのは見て取れたけれど、彼女の心にまでは届かない。
彼はピクリとも動かない明日菜の前で眉をひそめる。
「……大丈夫か?」
三日ぶりに聞いた日本語を、明日菜の頭はすぐには受け付けてくれなかった。
何も答えられずにいる彼女に、男の眉間に刻まれていた溝が一層深くなる。
彼はしばらく明日菜を見つめていたかと思うと無言のまま立ち上がった。間近にそびえ立つ身体は大柄で、背丈もそうだがどこもかしこもがっしりしている。高校の運動部の中にも大きな男子生徒はいるけれど、桁違いの存在感だった。六畳の明日菜の部屋がやけに狭く感じられる。
男は呆けている明日菜を何か考え込むように束の間見下ろしてから、彼女と父の死体を残して部屋を出ていった――飛び込んできたベランダではなく、廊下の方へ。
ほどなくして戻ってきた男の表情は一層顰め面になっていて、またチラリと明日菜に一瞥をくれてからおもむろに父の身体を抱え上げた。ずいぶん重いだろうにさして苦でもなさそうに、また部屋を出ていく。
明日菜は、無感動にそれを見送った。まるで大嵐の後のように、胸の中が空っぽな感じだ。目の前で父が死んだというのに――殺されたというのに、何も感じない。
部屋はしんと静まり返っていて、この三日間明日菜を脅かしていた現実など存在しなかったかのようだった。
そう、床の血溜まりさえなければ全て夢だったと思えるのに。
ふいに、その赤が白いもので覆われた。
白地に、水色の花柄。
両親が使っていたダブルベッドの掛布団だ――頭の片隅でそんなことを考えた明日菜の身体が、ふわりと浮かび上がる。
あの男に運ばれているのだと気付いた時には、もうベッドの上に下ろされていた。
彼は明日菜のシャツのボタンをいくつか外してから彼女の身体を布団で包み込む。
そうされている間、明日菜はジッと彼を見続けていた。いや、ただ、目線がそこに向いているだけで、見てはいない。視界に入ってくるものを、彼女の頭は、何一つとして処理してはいなかった。
見開いたままの明日菜の目を、男の手がそっと覆う。
額に触れる手のひらは、温かいけれども少しざらついている。片方だけでも彼女の顔をすっぽりと覆いきれてしまうほど大きな手であるにもかかわらず、重さは全然感じさせなかった。
(お父さんを、殺した手)
何のためらいもなく、明日菜の目の前で、この手が父の首を落とした。
――それなのに。
(なんで、こんなに温かいの……?)
ふいに目の奥が熱くなって喉に何かがつかえる。
「お母さん、お父さん……」
震える声が漏れると、置かれている手がピクリと微かに引きつった。
「少し眠れ」
低い声で、淡々と男が言う。
「これから先は、俺がいる。俺が、守るから」
それはヒトをその手で殺した直後とは思えない、穏やかな声だった。