生存者
「ビビらせてゴメン」
明らかにアヤシイ『それ』が言葉を発した。咆哮でも雄叫びでもない、言葉、だ。
その声はヘルメット越しでくぐもっているけれど、ずいぶん若そうな少年のものであることだけは判った。多分、まだ、声変わりもしていない。
手製の剣道の防具とでも言えそうなプロテクターで全体的にずいぶんと嵩増しされていても、その身体は『屈強な』とは程遠く、背丈も明日菜と大して変わらないように見えた。
右手に持っているのは、握りの部分にテーピングをした鉄パイプだ。それを脇に挟んで、空いた両手でヘルメットを脱ごうとしている。
その下から現れたのは、やっぱり少年だ。きっと、せいぜい中学生くらい。
「まともな人間に久しぶりに会ったよ」
まるで旧友にでも再会したかのような調子で、にっかり笑って少年は至極あっさりとそう言った。そうして、明日菜たちの方へと近付いてくる。
樹は明日菜を自分の背中の後ろに回し、少年と向き合った。
「君は?」
相手が、会話が通じる、年端も行かない少年だと判っても樹が警戒を解いていないことは、強固な壁のように目の前にそびえるその背中から伝わってくる。
少年はよほど鈍いのか図太いのか、樹の威圧的な態度を気にするふうもなく近付いてきて、数歩離れたところで立ち止まった。
「オレ、友永アキラ。そっちは?」
「……五島樹と江藤明日菜だ」
アキラと名乗った少年は、しげしげと明日菜たちを見つめてくる。
「兄さんたち、この町の人じゃないよね? 通りすがり? まさかこんな時に旅行でもしてんの?」
アキラは「呑気だねぇ」と笑ったけれど、そんな彼の方こそ緊張感の欠片もない。
「で、あんたたち似てないけど、親子? 兄妹?」
「違う」
気のせいか、少年の言葉をバサッと否定した樹は微妙に不機嫌そうだ。らしくなく、余計な台詞を付け足す。
「俺は護衛だ。彼女を守っている」
「へえ。なんか普通っぽいけどすんごい金持ちだったりするの? ま、こんなになっちゃったら金持ちもくそもないけどな」
肩を竦めたアキラはふと真面目な顔になって樹を見た。
「でも、護衛ってことは、兄さん、強いの? ――そりゃそうか、今まで生きてこられたんだもんな。そう言われると、確かに自衛隊か何かみたいだな」
最後の方は、うつむきがちにブツブツと口の中での呟きだ。
何か考え込んでいたアキラは、眉をひそめて彼を見守っていた明日菜の前でバッとまた顔を上げた。そうして、明日菜と樹――特に樹の方に、熱い眼差しを注いでくる。
「あのさぁ。めっちゃ急いでるんじゃなかったら、ちょっと手伝って欲しいことがあるんだけど」
「いや、俺たちは――」
「頼みって?」
即座に断ろうとした樹の後ろから、明日菜は身を乗り出した。
「おい」
「だって、せっかく……」
――会えた、『普通の人』なのに。まあ、『普通』というにはかなり語弊があるかもしれないけれども、少なくとも、まともな言葉を交わせる相手だ。これを逃したら、次にいつ樹以外の会話可能な人間に巡り会えるか判らない。一日に二十個単語が出れば上出来、という男が目下唯一の旅の道連れで、明日菜は会話に飢えていた。
(それに、さ)
明日菜は独り言つ。
それに、もしかしたら旅の仲間を増やせるかもしれないではないか。
十日間一人で生き延びていたこの少年なら、明日菜と違って守られるだけの足手まといにはならないはず。
ちょっと、いや、だいぶ、変な子かもしれないけれど。
(今度は、樹さんだって一緒に行ってもいいって言うかも……)
声に出さなかった明日菜の心の中の台詞が届いたのか、樹が渋面は崩さずに口をつぐむ。
「話だけでも聞いてみようよ。受けるかどうかは別として」
目で「お願い」と訴えかけると、樹は諦め混じりのため息をついた。彼はチラリとアキラを見遣る。
一瞬、何か物言いたげにしたような気がするけれど、明日菜の気のせいだろうか。
「どうかした?」
何がそんなに気がかりなのだろうと樹をジッと見つめていると、彼はふいと目を逸らした。
「長居はしないぞ」
「あ、うん。ありがとう」
絶対ダメだと言われるのも覚悟していた明日菜は、婉曲な許諾の言葉に若干拍子抜けしながら礼を言った。
と、意外に空気を読むたちなのか、すかさずアキラが声をかけてくる。
「話決まった? じゃ、行こうか」
そう言いながらヘルメットを被り直しているアキラのつま先は、もう出入り口の方へ向いている。
普通に買い物を済ませて普通に帰ろうとでもしているように、彼の足取りは軽い。
「生き残った人って、こんなもんなのかな」
思わず呟いた明日菜に、樹の目が向けられる。
「こんな、とは?」
「なんか、深刻さがないっていうか。そりゃ、逞しくないと生き残れないんだろうけど」
「絶望して無気力になるよりはいいだろう」
「そうだけど」
色々悩んでいる自分が、とてつもない軟弱者に感じられる。おまけに樹におんぶに抱っこで彼がいなかったら一日たりとも生きていられないだろうし。
はあ、と我が身の不甲斐なさに思わず明日菜が深々ため息をつくと、樹の大きな手が頭に置かれ、グシャグシャと彼女の髪を掻き混ぜた。
「君も頑張っている」
「これで?」
「上出来だ」
至極まじめな顔で――と言っても、いつもその顔だけれども――彼が頷いた。
慰め半分だとは判っているけれど、それでも、嬉しい。
弱気な笑みを樹に返すと、棚の陰からヒョコリと顔を出したアキラがせっかちな声をかけてきた。
「ちょっと、何してんの?」
「今行く」
樹が答え、彼は明日菜の頭から手を放した。先に立って歩き出した樹の後に、明日菜も続く。
出入り口の前では、アキラが気忙しそうに足を踏みながら待っていた。
「何もたもたしてんの?」
「すまない」
「もう。じゃあ、行くよ。オレんち、こっから十分くらいなんだ」
そう言って、アキラは外を警戒する素振りを全く見せずにさっさと店を出てしまう。
「あ、ちょっと待って、危ないよ!」
慌てて後を追いかけ注意を促したけれども、彼はどこ吹く風といった様子だ。
「大丈夫、大丈夫」
「大丈夫じゃないよ。あいつらがいるかもしれないでしょ?」
「ああ、ここらのはだいぶ片付けたから、そうそう出くわさないって」
アキラは、通りのゴミ拾いでも済ませたかのような口調で言って、ヘルメットの奥で笑った。
「片付けた……って……」
「あいつら、頭悪いからなぁ。あんまり一気に集めさえしなけりゃ、楽勝だよ」
明日菜は戸惑いを浮かべた目で樹を振り返る。自分よりもいくつか年下のこの少年が言っていることが、良く解らなかった。
視線を交わした明日菜たちに気付いて、アキラが肩を竦める。
「あ、もしかしてドン引きした? でも、やらなかったらこっちがやられるだろ? 実際、オレもヤバかったし。寝てたらおふくろに噛み付かれそうになってさぁ」
母親、というところに、明日菜は一瞬何か引っかかりを覚える。けれど、それ以上に気になることがあって、その微かな違和感はすぐに色褪せた。
彼女は、おずおずとアキラに問いかける。
「えっと、お母さんは、どうしたの?」
「そりゃ、もちろん。オレが今こうやって生きてるんだから、あっちは――だろ?」
ケロリとした口調。
アキラが暗に告げているのは、彼がその手でケリを着けたということなのだろうか――きっと、そうなのだろう。
全然、罪悪感の欠片も感じられないけれども。
(この子に付いて行って大丈夫なのかな)
今さら、不安が込み上げてきた。
明日菜はじりじりと樹にすり寄る。
と、まるで彼女の不安を読み取ったかのように。
「大丈夫だ」
樹がぼそりと言った。
ハッと彼を見上げると、落ち着いた、静謐な眼差しが明日菜に注がれている。
「俺がいる。君はしたいようにしたらいい」
「……うん」
樹の幾つかの言葉だけで、明日菜の中の不安がスッと鎮まっていく。ホッと頬を緩ませた彼女に、屈託のない声がかけられる。
「ここだよ、オレんち」
足を止めたアキラが顎をしゃくって示しているのは、ごくごく普通な一軒家だった。