彼女の望み
「ここから出れば、彼が奴らを引き付けてくれているところのちょうど真裏になるはずだ」
入ってきたときとは違う出入り口の前で、樹は立ち止まり、言った。
「準備はいいか?」
問われた明日菜が無言で頷きを返すと、ノブに置かれた樹の手が捻られる。
扉は、音なく開いた。
樹は五センチほど開いて耳を澄ませる素振りをする。明日菜も彼に倣うとすっかり耳に馴染んだ怒号が聞こえてきて、彼女は肩を強張らせた。
明日菜にチラリと目を寄越した樹は、彼女の緊張にすぐに気付く。
「大丈夫だ。あれはかなり距離がある。多分、彼に群がっている者たちだろう」
「ホント?」
「ああ」
力強く頷かれれば、疑念も消え失せる。
「行くぞ」
その一言だけで、樹はするりと隙間に滑り込むようにして外に出た。いつもながら、大きな身体なのに猫のように滑らかな動きだ。
感心しつつ、明日菜も彼に続く。
外に出ると、一層奴らの声が大きく聞こえてきた。
「ホントに大丈夫?」
「今のところはな。だが、早くここを離れるに越したことはない。走るぞ」
そう言い置いて、樹が走り出す。
来た時とは違って彼の足はマラソン程度の速さだったから、付いていくのはたいして苦ではなかった。
軽快に足を運んでいた二人だったけれど、そろそろフェンスが見えてこようという頃に、不意に、樹が立ち止まる。彼は明日菜を制するように片手をかざし、鋭い眼差しで右手の方を見据えていた。
「どうしたの?」
彼が見ている方に明日菜も目を向けたけれども、何もない――と、思ったら。
アトラクションの脇にある、詰所のような小屋。
その陰から、のそりと男が一歩を踏み出した。続いてもう一人、そして、女性が一人。
彼らはしばらく茫洋とした様子でふらふらと歩いていたけれど、やがて、ふと、その動きを止めた。ゆったりとしたリズムで身体を揺らしているのが、妙に気持ち悪い。
樹は彼らを見据えたまま、腰の鞘からマチェットを抜き放つ。
「暗証番号は覚えているな?」
彼が言うのは、フェンスの扉を開くための番号のことだ。明日菜は教えられていた四桁の数字を諳んじてみせる。
「よし。先に行ってフェンスの鍵を外しておけ」
「わかった」
頷き、明日菜は走り出す。と、刹那おとなしかった『新生者』たちが沸き返った。
「ガアッ」
追いかけてきた咆哮を無視して、明日菜はフェンスを目指す。そこに樹がいる限り、彼女の背後は万全だった。鉄の壁がそびえるよりも、彼の右腕一本の方が遥かに安心させてくれる。
ほとんど体当たりするようにフェンスに飛びつき、扉になっている部分をサッと一瞥した。
入ってきたときの扉と違って、レバーハンドルの横にテンキーがある。
明日菜は焦りながら、けれど、間違いのないように慎重に、番号を押す。
ピーと小さな電子音に続いて、カチ、と何かが外れる音が聞こえた。
ハンドルを回すと、抵抗なく扉が開く。蝶番は内側にも外側にも動くタイプのようだ。
一度開いてからまた閉じると鍵がかかってしまう作りだと聞いている。
明日菜は地面を見渡し、小石を拾って扉が閉まらないように挟み込んだ。
(これで大丈夫かな)
ホッと小さく息をついてから、明日菜は樹を振り返った。
立っているのは、二人。そして地面には、二つの身体が転がっている。どちらも頭がないのが見て取れて、それを認めた瞬間、思わず彼女は目を逸らした。
確かに、彼らはもう人間ではないのだけれど、ヒトの姿はしているのだから、どうしても正視はできない。
自分を守るか相手を殺すかのどちらかしかないのは解かっていても、抵抗なく受け入れることは不可能だ。
そして、また。
樹が振るった刃が煌めき、一瞬後、まるで豆腐か何かのように女性の頭を斬り落とす。
女性は一、二度揺らめき、そして膝から崩れ落ちた。
樹が手の中のマチェットを一振りすると、赤いものが数滴、ピピッと地面に散った。
追いかけてくるものがいないか確認するように、来た方向へと樹が目を向けかける。その動きが、ハタと止まった。
彼は明日菜の方へと勢いよく振り返ったかと思うと、らしくなく焦りを含んだ荒れた声を彼女に飛ばす。
「こっちへ来い!」
その命令と同時に彼女に向けて走り出した樹の顔は、険しい。
「樹さん……?」
眉をひそめた明日菜だったけれど、一瞬後、彼の言動の理由が判った。
「ぐがぁっ」
すぐ近くで上がった威嚇の声に、明日菜は思わず背後に――フェンスの向こうに、目を走らせる。
格子を挟んで、男がいた。
(うそ)
明日菜が数歩後ずさったところで、男の体当たりを受けて勢いよくフェンスの扉が開いた。扉の端が彼女をかすめて、ビクンと身体がすくむ。
それはほんの一秒かそこらのことだった。
そのわずかな時間が、男の手が明日菜の頭を鷲掴みにすることを許してしまう。
「ぃやぁッ」
明日菜の喉からこぼれたのは、悲鳴にすらならない、か細い声だ。
頭と、そして肩を掴まれた。
男はまるでフライドチキンか何かを食べようとしているかのように、グイ、と両手を捻って明日菜の肉の部分を――肩を、あらわにする。
掴まれたところが、痛い。
それ以上に、男が全身から漂わせている腐臭が、明日菜の嫌悪と恐怖を掻き立てる。
我に返った明日菜は手と足を打ち振るって男から逃れようとしたけれど、まさに万力のように締め付けてくる彼の両手はビクともしなかった。
剥き出しになった男の黄ばんだ歯が、躊躇の欠片もなく明日菜の肩口に襲い掛かる。
(人間の顎って、こんなに開くんだ)
ガパリと開いた男の口に、混乱した頭の片隅でそんなことを思ってしまった。
よだれが滴り、明日菜の肌を伝う。
(もう、ダメだ)
そう思った瞬間、そんな諦念を凌駕する強烈な生存欲が彼女の中に湧き上がった。
(あたしは、死にたくない)
それは、自分でも驚くほどの、執念とも言えそうなほどの強い意志だった。
「死ぬもんか」
呻くように宣言し、握った拳をすぐ目の前にある男の鼻面に叩き込む。
「がっ!?」
明日菜の拳ごときでは、たいしたダメージは与えられなかっただろうけれども、怯ませることはできたらしい。今にも喰らいつかんばかりだった男の頭が、わずかに反る。
しかし、次の瞬間、いきり立った男の手に力がこもり、ギリギリと彼女を締め付けてきた。
「い、たッ」
握られた方の腕が痺れて、力が入らない。
飢え切った男の口がまた、近付いてくる。
汚れた歯が、今度こそ、明日菜の肩に食い込もうとした、瞬間。
明日菜の頬をこするようにして、男の頭と彼女の肩の間に、黒い何かが割り込んでくる。男の口は、明日菜の代わりにその突然の邪魔ものに食らいついた。
腕、だ。
背後から突き出された黒い袖に包まれた腕には、食い千切らんばかりに男の歯がめり込んでいる。
「樹さん!」
悲鳴混じりの声を上げた明日菜の前で、樹は続けざまに数発、男のこめかみに拳を叩き込んだ。が、男の顎は緩む気配がない。
痛いはず。
痛くないわけがない。
それなのに樹は冷静そのもので、男を喰いつかせたままで明日菜を捉えたままの男の手を掴み、捻り上げる。ぼきっと鈍い音がして、男の手から先がぶらりと下がった。
続いてもう一方の手も同じように砕かれたけれども、男の顎は一向に緩む気配がない。肉をむしり取らない限り、放さないのかもしれない。
「樹さ――」
「離れていろ」
鋭い声で言われて明日菜は数歩後ずさる。でも、片腕が使えない状態で、どうやって男を振り払おうというのだろう。マチェットを振るおうにも、距離が近過ぎる。
やきもきしながら樹を見守る明日菜の耳に、微かな雄叫びが届いた。
ハッと目を巡らせると、だいぶ離れたところに、数体の『新生者』の姿。
距離は、ずいぶんある。けれど、彼らは明日菜たちに気付いたようだ。
(早く、早くしないと)
明日菜はサッと周囲を見渡した。何もない――いや、あった。
彼女は打ち捨てられた看板のようなものに目を止める。両手で掴んで持ち上げ、樹たちの元へ駆け戻った。走った勢いのまま、腰を捻り、水平に振るったその看板を、樹に喰いついたままの男の背中に打ち付ける。
「この、放せ! 樹さんを、放せ!」
「明日菜! 離れろと――」
「うるさい!」
もう誰に口答えしているのかも判らないまま、怒鳴り返しながら明日菜は渾身の力で看板を叩き付けた。
多分、打撃が利いたというよりも、単に、自分が喰らい付いているのが間違った相手だと気付いただけなのだろう。
それでも、とにかく、男は樹を解放し、濁った眼を明日菜に向けた。
ブラブラと手の先が揺れる両腕を差し伸べ、彼女の方へと足を踏み出してくる。
二歩も進まないうちに、キラリと銀閃が走った。
一拍遅れて、ぐらりと揺れた男の頭が地面に転がり落ちる。そして両膝が地面に崩れ、横倒しに倒れこんだ。
明日菜はその一連の動きにデジャヴを覚える。
同じ光景を、少し前にも目にした。
あれは、そう――
「お父さん」
束の間過去に舞い戻った明日菜の腕を、力強い手が掴んだ。
「ぼんやりするな。行くぞ」
地面に伏している身体に目を奪われている明日菜を引っ立てるようにして、樹が歩き出す。ハッと我に返って振り返れば、遠くにいた『新生者』たちとの距離は、ずいぶん縮まっていた。
明日菜は樹の手を振り払い、自分の足で走り出す。
フェンスの向こうへ走り抜け、樹が扉を閉める――閉めようとした。けれど、完全に閉じ切らずにロックがかからない。
うまく閉じられずに小さく舌打ちした彼に、明日菜は自分がしたことを思い出す。
「樹さん、そこ、その石」
言われた彼の目が明日菜の指さすものを捉え、つま先でそれを蹴り飛ばした。
今度は、ピタリと扉が閉まると同時に、カチ、と小さな音がする。
鍵がかかってすぐに『新生者』の群れに追いつかれたけれども、見かけ以上に強固な障壁は体当たりしてくる彼らにもびくともせずに、その猛追を阻んでくれた。
格子の向こうで目の前のごちそうに喰い付きたくて猛り狂う獣たちに、明日菜は息を呑む。
ヒトの姿をしながら人間ではない彼らから、彼女は目を離せなかった。
「行くぞ」
背後からかけられた静かな声で、ポンと肩を叩かれたような心持になる。首だけで振り返ると、樹がそこで彼女を待っていた。男に噛みつかれていた腕からは、ポタリポタリと赤い雫が滴っている。
その、明日菜のことに関しては細かいほどに気を付けるのに、自身の身体については無頓着な態度に、何故か無性に腹が立った。
出会って、まだ、数日。
彼の望みは、なにがなんでも彼女を生かすこと。
彼といる限り、明日菜は生きる。
――明日菜が死ぬときは、彼が死ぬとき。
それは、奇妙な、共依存にも近い関係だ。
では、自分は樹が望むから、生きようとしているのだろうか。真苅が、言っていたように、他人の為に――樹の為に、この世界を生きるのか。
自問して、明日菜はかぶりを振った。
(あたしは、あたしの為に、生きる)
そして、生きる明日菜の未来は、樹と共にある。
それがどんなものになるかは判らないけれど、樹と一緒に生きていくこと、生き抜いていくことが、明日菜の未来だった。
多分、もう、過去も死への願望も、頭の中をよぎることはない。
樹が諦めない限り――いや、彼が諦めようとしたら彼女の方が叱咤して、生きるのだ。
明日菜はもう一度、『新生者』の群れに、そしてその向こうに目を向ける。
寂れたアトラクションの間に、彼女たちが丸一昼夜過ごした建物が見えた。束の間、静かな時間を与えてくれた場所だ。
その屋上に、小さな人影。
表情なんて見ることもできないけれど、何故か、その人は明るく微笑んでいるような気がする――この絶望的な世界で究極の解放を手に入れられたことを喜んで。
(あの人は、自分の望みが、夢が叶ったんだ)
きっと、彼は幸せなのだろう。彼自身がそう言ったように。
明日菜は背を向け、彼女を待つ人と共に歩き出した。