袋の鼠、一歩手前
補給所に落ち着いてから一晩明けた、朝。
朝食を口に運びながら、樹はいつもの二倍増しの渋面でモニターを睨んでいる。
「どうしたの?」
訊ねた明日菜の問いに返事が来るまでは、少し間が開いた。
その間は、ためらいめいたものを感じさせるもので。
「『新生者』が多すぎる」
「え?」
樹は眉をひそめた明日菜を素通りして真苅に目を移す。
「君たちがここに来たのはいつのことなんだ?」
問われた真苅は一瞬きょとんとして、そしてへらりと笑った。
「一週間くらいになるかな」
彼の答えに、樹の眉間のしわが一層深まった。
「一週間。……君の護衛が偵察に出てから、どのくらい経つ?」
真苅が芝居めいた仕草で指を折り、日を数える。
「三日――今日で四日になるね」
緊迫感の欠片もなくそう返されて、樹よりも先に明日菜が声を上げてしまう。
「それって、ダメじゃん!」
この状況で三日も帰ってこないということは、真苅を置いて逃げてしまったか、あるいは、帰ってこられない状況――最悪、生きていないということではないのか。
パッと樹に振り返ると、彼はこれまでになく深刻な顔をしていた。
「七日か……」
彼が呟いたのはそれだけで、真苅の護衛のことは何も言わない。
「すぐにここを出る」
言うなり樹は、キーボードを操作して次から次へとモニターを切り替えていく。
一秒ごとに換わっていく画面に、これで絵を確認できているのだろうかと思いながら、明日菜は樹の背中に声をかける。
「でも、真苅さんの護衛の人は――」
「もう死んだ」
きっぱりと言いきられ、明日菜は息を呑んだ。冷淡に感じられるほどのその口調に怯んでいる彼女に、樹は振り返った。そうして明日菜の顔に目を止めると、一瞬奥歯を噛み締め、表情を和らげる。
「いくら安全な場所に居させているからといっても、護衛が三日も対象から離れるなど、彼が生きているならあり得ない」
「でも、少しくらい探してみても――」
「無駄だ」
にべもない。
グッと唇を引き結んだ明日菜を一瞥し、樹はまたモニターに向き直った。
「七日もここに居るなら、少なくとも五キロメートル圏内の『新生者』は引き寄せられているだろう。『変異者』が二人いれば信号は一層強くなる。一刻も早く移動した方がいい」
そう言えば、と、明日菜は出会ってすぐに樹が話していたことを思い出す。
(あいつら、あたしたちに寄って来るんだっけ……)
あの時、樹は三日留まるのも嫌がっていた気がする。その倍以上となると、たとえ人があまりいないところにいるとは言え、かなり良くない状況なのではないだろうか。
明日菜はモニターを窺った。
各画面に、少なくとも五人はいるように見える。ここに入って来るときに使った出入り口には、もう暴れてはいないけれども、まだ十数名がたむろしていた。
「そのうち共喰い始めるんでしょ? それを待ったりとか……」
「無駄だ。『変異者』の信号を感知している限り、共喰いはしない」
「じゃ、いっそ、あいつらが餓死するまでここに閉じこもるのは?」
「『新生者』は『変異者』に攻撃をしかけない時には代謝を下げて休眠状態に入る。計算上は半年間、ほとんど飲み食いせずに生きられる。その間、彼らは集まり続けるだろう。切羽詰まれば共喰いを始めるかもしれない。そうなれば個体数は減るだろうが残ったものの命は伸びる。結果、数年間、ここに閉じ込められることになる」
「非常食って、それまでもつ……?」
「三年分はあるだろう。だが、その間、一歩も外には出られない生活になる。君の頭がおかしくならないという保証はないし、三年で出られるようになるという保証もない」
淡々と、あくまでも淡々と、暗い見通しを告げる樹を、明日菜は睨み付ける。
「もっと前向きなこと言ってくれない?」
「前向きなことは、今のうちならここを出られる可能性があるということだ」
「それだって、『可能性』なんじゃん……」
がっくりと肩を落とすと、樹とは正反対に朗らかな真苅の声が割り込んでくる。
「まあまあ、取り敢えず、他に道がないなら進んでみようよ」
胡散臭いほどの能天気さが腹立たしい。
「七日とか、そんなに前からいたんなら、そう教えてくれた良かったじゃないですか」
「でも、訊かれなかったしね」
八つ当たり気味の文句にサラッと笑顔で返され、明日菜はグッと押し黙った。
確かに、彼の言うとおりだけれども。
反論できずに明日菜が唇を噛んでいると、見たいものを見終えたのか、樹がモニターに背を向ける。
「……とにかく、出るぞ。君も行くだろう?」
樹の目が向けられているのは、真苅だ。
「僕? どうしようかな」
彼の返事に、明日菜は思わず目を丸くする。
「残るとか、有り得ないでしょ」
「そう?」
「だって、残ってたって仕方ないじゃない。さっき、樹さんだって言ってたでしょ。ここから出られるようになるの、何年先になるか判らないって」
「まあねぇ」
確かに彼は何を考えているのか今一つ読み取れない人だけれども、それでも、独りだけここに置き去りにはできない。
「ねえ、一緒に行こう? ね、その方がいいよね?」
もちろん同意が返ってくるものと思って樹を振り返ったけれども、彼はそうしなかった。
「……補給は終わっているから、荷物を持ってくるんだ。ああ、これを入れておけ」
樹から持つのに両手が必要なほどの荷物を渡され、グイ、と後ろ頭を押されて、釈然としないまま明日菜はモニター室を出る。
(できるだけたくさん『変異者』を連れ帰った方が、いいんじゃないの?)
道すがら生存者を拾っていけば、一石二鳥というものではなかろうか。
どうして樹が頷かなかったのか解からないままに、明日菜は急いで昨晩泊まった部屋に行き、自分のバックパックに彼から渡された荷物を詰め込んでまたモニター室に取って返す。部屋に入って真っ先に真苅を探すと、彼も出る気になったのか、明日菜と同じようなバックパックを背負っていた。
戻ってきた明日菜に気付くと、樹が机の上に広げていた何かから顔を上げる。
「何見てるの?」
彼の手元を覗き込むと、そこにあるのは地図だった。とは言え、建物らしきものはこのテーマパーク程度で、他に描かれているものと言えば等高線ばかり。
樹は、その中の一点を指さす。
「この辺りに、真苅たちが乗ってきたバイクが置いてあるらしい」
「バイク?」
真苅に目を向けると、彼が頷いた。
「そう。オフロードのやつなんだ。僕たちはそれでここを目指したんだけどね、道じゃなくて山ん中を来たんだ。でも、僕の腕じゃ、さすがにここまでは来られなくて、途中で置いてきたんだよ。僕が乗ってきたのと、僕の――もう一人が、乗ってきたのと、二台あるから」
ほんの一瞬、真苅が言い淀んだようだったのは、明日菜の気のせいだろうか
飄々としているように見えるけれども、自分のことを守ってくれていた人に対して、多少は思うところがあるのかもしれない。
「あとは、そもそもどうやってそこまで行くかって話だよね」
モニターを見れば入ってきたドアが使えないのは明らかだ。
「他に出口ないの?」
「あるにはあるんだけど、あいつら、そこら中にうようよしてるからね」
肩をすくめた真苅の横で、モニターを見据えていた樹がその一つを指さした。
「あそこはまだ少ない」
彼が示した画面には、確かに三人しか映っていない。
「強行突破するの? 彼女と僕の二人を護りながら?」
首を傾げた真苅の問いに、樹は厳しい顔で頷いた。
「仕方がない」
「ふうん……」
真苅は思案げに頷き、モニターに目をやった。束の間それを眺めていたかと思うと、パッとまた明日菜たちに振り向く。
「ああ、そうだ。僕、ちょっと忘れ物。あと、これ持っといて」
ポンと渡されたのは手のひらにのるほどの黒い物体だ。
「何ですか?」
「トランシーバー。君と五島さんは連絡取れるけど、僕はできないし。はぐれたらそれを使ったらいいかなって」
つまり、彼も本気で行く気になったということなのだろう。
「わかった」
頷いて手にしたトランシーバーをバッグの中に入れようとすると、真苅から止められた。
「ああ、そこの横んところのポケットに入れた方がいいんじゃない? そっちに入れちゃったらすぐに出せないし、呼びかけても聞こえないかもしれないでしょ?」
「でも、はぐれたら出したらいいんじゃないですか?」
「万一の事態に備えておいた方がいいよ」
真苅の言うことには、一理ある。
明日菜は言われたようにサイドポケットにトランシーバーを入れると、彼に目を戻した。
「じゃあ、待ってるから、早く戻ってきてくださいね」
「判ってるって」
にこりと笑って。
「じゃあね」
真苅は一言残して軽い足取りでモニター室を出て行った。




