誘い
真苅が用意してくれたのは、非常食を駆使した夕食だった。
パンと、干し肉と、スープと缶詰の野菜。それにちょっと手を加え、それなりに形を整えられたものがモニター室の小さな机の上に並ぶ。
頬が落ちるほど美味しいとはやっぱり言えないけれど、スティック状の携帯食とペットボトルの水よりは遥かに食事らしい。
それを食べ終えると早々に、樹は「物資を確認してくるから」と明日菜と真苅を残して倉庫へと行ってしまった。
彼のことを見送って、真苅は立ち上がり電気ポットに手をかける。
「コーヒーでも淹れようか。あ、この時間に飲んだら眠れなくなっちゃう? コーヒーじゃないのって言うと――紅茶と緑茶とココアもあるんだ。何がいい?」
「えっと、じゃあ、ココアで……」
「インスタントだから自販機のやつみたいだけどね」
にっこり笑って、真苅は電気ポットに手を伸ばす。
――もの凄く、『フツウ』な会話だ。
今も、明日菜の背後にずらりと並ぶモニターには園内をうろつくゾンビもどきの『新生者』が数えきることができないほど映し出されているのに、会話は、限りなく、『フツウ』だ。
(何なの、この人)
よほど肝が据わっているのか、あるいは、現状を理解できないほど頭が悪いのか。
明らかに後者ではないから、前者なのだろうけれども、度胸があるというだけでは説明できないような気がする。
(漫画とかだと、こういう時に平然としてたり楽しげだったりするキャラって、実はサイコパスだったりするんだよね)
樹も近くにいないし、明日菜はちょっと怖くなる。
チラチラ彼を窺っていると目が合ってしまって、またにっこりと笑い返された。
明日菜の心中など全く気付いていない様子で、真苅が手にした小さな瓶を持ち上げる。
「ココア、ちょっと砂糖入れようか? 疲れてるでしょ? そのままでも甘いけど、疲労回復にはもっと甘くした方がいいんじゃないかな」
――頭がオカシイ人には、見えない。
実はあの瓶の中身は毒で――とか、妙な考えが浮かびそうになってしまうのを、そんなバカなと、明日菜は慌てて打ち消した。
「そのままで、いいです」
「そ? じゃあ、はい。熱いよ」
渡されたカップの中からは、甘い香りが漂う。すすってみると、確かにココアだ。
学校帰り、部活が終わった後で、友達と一緒に自販機で買って飲んだものに、よく似ている味と香り。
不意に、ジワリと、視界がにじんだ。
こんな世界になってからもう一週間以上も経つというのに、明日菜の中には、未だに、これが現実なのだと信じきれない自分がいる。
思いがけずかつての生活を彷彿させるものに遭遇し、改めて、それがもうどうにも取り返しがつかないほどに失われているのだということを思い知らされた。
ギュッと固く目を閉じて、こぼれそうになる涙を奥に押し込める。
(振り返ったって、仕方ないじゃない)
どう足掻いても、取り戻せるものではないのだから。
今のこの事態は何かの間違いでも長い夢でもなく、紛れもない現実なのだから。
(もういい加減、受け入れないと)
カップを握り締めて未練を振り払おうとする明日菜の頭に、不意に、何かがのせられる。
パッと目を開けると、真苅の手が、彼女に伸ばされていた。
彼は、さわさわと明日菜の頭を撫でる。その所作は樹とは違って丁寧で繊細だ。眼差しには、同情が溢れている。
こんなことになって、可哀そうに――そう言われているも同然なほどの、眼差し。
けれど、立場としては、真苅も同じはず。
こんなふうに一方的に憐れまれることに、また、明日菜は微かな違和感を抱く。
(他人事じゃ、ないのに)
この人は、この事態に対して、何も感じていないのだろうか。
そう、明日菜が思ったとき。
「つらいよね」
しみじみと、労りを含んだ眼差しでそう言われ、明日菜は反射的に頷いてしまう。真苅はそんな彼女をジッと見つめてきた。
「こんな現実、嫌だよね」
自分とはまるで無関係なことのように聞こえる呟きに、明日菜は思わず言葉を返す。
「真苅さんだって、嫌でしょ」
即座に肯定が返ってくると思ったのに、彼は明日菜の頭から手を引っ込めてカップを両手で握ると、ゆっくりと回し始める。
その中身に目を落としたまま、言う。
「死んでしまいたい、とか、思わなかった?」
「え?」
唐突にそんなヘビーなことを言われて口ごもった明日菜に、真苅は静かな口調で続ける。
「こんな世界になっちゃってさ、生きるの、嫌にならない?」
「嫌って言われても……」
確かに、樹に対して八つ当たり気味に「死んだ方がマシ」と言い放ったことはある。
(だけど、今は、どうだろう)
こんな世界で生きていきたくないと思う。
でも、それが死にたいということになるのかと問われれば、正直、明日菜には判らない。また切羽詰まった状況になったら、死んだ方がいいと思ってしまうのかもしれない。けれども、今のように仮初のとはいえ危険のない状況に置かれると、死にたいかと問われても答えられなかった。
落ち着かない気分で明日菜がカップの中身に目を落とすと、真苅はなんの変哲もない世間話をする口調で、言う。
「ここってさ、色んなものがあるんだ。医薬品もね」
唐突な話の切り替えに、明日菜は付いて行かれない。
眉をひそめているとまた真苅の手が再び伸びてきて、今度は彼女の手を握る。
「もう親しい人はいないし、未来だってないんだしさ、生きる必要、なくない?」
温かくて柔らかな声。
「だからさ――」
一瞬、彼の手に、微かに力がこもった。握られていることに意識を向けていなければ気付かないほど、微かに。
ちら、と手に目を落とした明日菜に、まるで散歩にでも誘うかのような軽い口調で。
「僕と一緒に終わりにしない?」
優しく、誘う声。
言われたことそのものよりも、内容とそぐわないその声に明日菜は背筋がぞくりとして、彼に取られている手を引く。きつく握られていたわけではなかったから、何の抵抗もなく、彼の手は離れた。
真苅は軽く首をかしげて束の間明日菜を見つめ、そしてまた、笑った。
屈託なく。
「冗談だよ」
冗談。
(ほんとに?)
顎を引いて彼のことを見つめてみても、返ってくるのは笑顔だけ。不穏な会話など、一瞬たりともなかったかのように。
それからの真苅の口から出てくるのは、大学であったことや映画や旅行に出た時の出来事やら、なんの変哲もない雑談ばかりだった。彼の話してくれることはどれも、楽しいものばかりだ。けれど、先に聞いてしまった台詞が頭にこびりついてしまって、生返事しかできない。
しばらくして戻ってきた樹が、明日菜の顔をチラリと見て、眉をひそめる。
「どうかしたのか?」
樹の為のコーヒーを淹れに真苅が席を立った合間に彼が訊ねてきても、明日菜は、何故か先ほどの遣り取りを伝える気にはなれなかった。
「別に。何でもない――疲れただけだよ」
「……そうか」
素っ気ない、呟くような答え。
続いて。
ポン、クシャ。
――ぞんざいに、髪を乱された。
真苅とは正反対の雑な手付きだけれども、明日菜には、その武骨な手の方が、安心できた。淡々として揺るぎのないその眼差しにも。
「今日は、もう休め。この中は安全だ」
「うん」
ほ、と小さく息をついて、明日菜は頷いた。