とある公爵の奮闘?(伯爵令嬢は結婚したくない?)
これは前作「伯爵令嬢は結婚したくない?」の補足版です。こちらは破棄されそうなヒューブリック目線です。長いです。とにかく長いです。なぜ分けなかったと後から後悔しました。
「え・・・シュバルツァ伯爵、今なんと?」
「申し訳なく思っていますが、今回の婚約はそちらから破棄していただきたい」
今私の目の前で頭を下げているのは世間で名高いシュバルツァ伯爵家の当主であり、私の婚約者、ミッシェル嬢の父君でもある方だ。漸く繋がった彼女との縁が今この瞬間にも消え去ろうとしていることに、私は全身から血液が流れ出るような感覚に陥っていた。
私の名はヒューブリック・ハイブルンブ。一応公爵という位を国王から預かっている身だ。そのためかここ数年間あちこちから縁談話を持ちかけられ正直うんざりしていた。私も色恋に興味がないわけではない。それなりの経験もある。だが結婚を意識する女性には、なかなか出会うことはなかったのだ。それが崩れたのは、いや、運命の出会いをしたのが彼女・・・ミッシェル嬢が社交界に初めて顔を出した日だった。シュバルツァ伯爵家の姫がその年成人することは随分前から知られていた。それは彼女が有名だからというわけではなく、金と人脈に富んだ彼の伯爵の唯一の娘だから、その彼女の目に留まれば将来は明るいと独身の男どもは皆飢えた野獣の如く彼女が表の世界に現れることを心待にしていたのだ。気の早い者は数年前から縁談話を彼の家に願い出ていたようだ。私もそのうちの一人・・・と言ってやりたかったが、喜ばしいことに我が公爵家はシュバルツァの力を借りなくともその権力は揺らぎはしなかった。だから彼女がその日現れると知ってもさほど興味は湧かなかったのだ。まあ、彼女の姿を見た瞬間から私は彼女の虜になってしまっていたのだが。
本当に、あの日面倒がらずに参加して良かったと思っている。でなければ今頃彼女は別の男と夫婦になっていたかもしれないのだから。そんなことになっていれば私は後悔しかしなかったろう。
あの日彼女は家族に伴われて夜会に姿を現した。最初に現れたのは彼女の兄とその婚約者だった。兄のほうはすでに成人して何度も顔を見たことがある。彼は見目麗しい両親に似て女受けの良い顔だちをしている。だからその容姿と彼がいずれ引き継ぐであろう莫大な富に惹かれ、街灯に群がる蛾のように貴族の娘からの縁談話が山のようにやってくると風の噂で聞いたこともある。自分と同じ境遇に、会話こそしたことはないが同情の念を抱いたことがある。しかしそんな彼も今は立派な婚約者持ち、さぞ世の令嬢達が嘆き悲しんだことだろう。しかしその分が自分のもとへ押し寄せるのだからいい迷惑でもある。
次に現れたのは彼女の両親であるシュバルツァ夫婦。シュバルツァ伯爵は若い頃はそっちの方面でも名を知らしめた美丈夫で、年齢を重ねた今でも彼の側妻を狙う女性が多いらしい。それくらい男としても魅力がある。そしてその夫人も有名である。彼女がまだ乙女と言われていた頃、社交界の女神と謳われ独身既婚問わずその場の男を魅了していたという。彼女がシュバルツァ伯爵と結婚したときは、皆一様に涙を飲んだとか。私の父もそのうちの一人で幼少期にはその話をよく聞かされていたが、確かに美しい。父がこの場にいれば間違いなくこの女神を崇めるだろう。
そうなれば皆自然と二人の娘に期待してしまう。美しい両親から産まれた娘は一体どんな容姿なのかと。かくいう私もその思考の持ち主の一人であった。その証拠に、彼等が現れた扉の先をチラチラと意識しているのだから。もしかしたらその娘こそ私の求めているものではないかと期待していたのかもしれない。実際、そうだったわけだけど。
煌めくシャンデリアの下、白いドレスを纏って現れた彼女に、私の心臓は鷲掴まれたように苦しくなった。伯爵と同じブロンドの艶やかな髪と夫人に似た蒼い瞳、真っ白と言っていいほど透き通る肌の上、紅く彩る頬紅と桃色の唇が印象的だった。見るからに清純と可憐という言葉が似合う彼女にこそ、その白き純白のドレスが相応しい・・・本心からそう思った。婦人が女神と称されるならば彼女はまさに天使、それ以外どう彼女を表したらいいかとんと検討もつかなかった。私がそう感じたのだから周りの男どももきっと同じように感じたことだろう。
彼女を視線の先に捉えるだけで胸は高鳴り、喉が張りつく。手のひらにはじわじわと汗が滲み体温が上昇する。今まで味わったことのない感覚にまさか病気なのではと疑ったりもしたが、以前友人が似た症状になったことを思い出し核心した。これが恋なのだと・・・私は彼女に心を奪われてしまったのだ。それと同時に生まれた独占欲。あの天使を自分だけのものにしたい・・・瞬間的に身体中を駆け巡ったそれは、シュバルツァ伯爵家に縁談の申し込みをするという行動ですぐに表れた。自分の地位が役立つ日がこんな形で訪れるとは夢にも思いもしなかったが、この地位のお陰で彼の伯爵の目に留まり、めでたく縁談の約束を取りつけることに成功したのだった。
「初めましてミッシェル嬢。ヒューブリック・ハイブルンブです」
「初めまして。シュバルツァ伯爵家長女のミッシェルでございます」
待ちに待った彼女との会話はとても充実したものだった。彼女は私の他愛ない話に頷いて笑ってくれる。その笑顔を見るたびに私の彼女への想いは膨れ上がり今にも口から飛び出してしまいそうだった。もっと話したい、もっとその笑顔を見たいと、私は仕事の手を速め彼女に会いに行く時間を増やしていった。その時には既に正式な婚約者となっていたから、私は遠慮せずに彼女に会いに行くことができた。会うときには必ず贈り物を・・・こんな気持ちになるのは初めてだったからなにを贈ればいいか分からず、女性に人気の菓子や我が家で栽培している花を贈ることにした。本当はドレスや宝石の類いも贈りたかったが、彼女の好みでなければ嫌だったからそれは控えることにした。毎回彼女は喜んでくれたから良しとすることにしよう。
彼女は確かに喜んでくれていた。だからきっと彼女も私との婚約を望んでくれていると思っていたんだ。だが現実は違った。伯爵は私の方から破棄してくれというがこれは間違いなく相手方からの拒絶だった。伯爵がではない・・・ミッシェル嬢が私を拒絶しているのだ。何故、どうしてという言葉しか頭に浮かばない。彼の手前冷静に見せてはいるが実際は手が震え、なにか言葉でも発せようならばきっと掠れたものしか出てこないだろう。それでも、理由を聞かなければ納得なんて出来ない。だから私は一度大きく息を吐き心を落ち着かせると、ゆっくりと口を開いた。
「理由を・・・お聞きしても宜しいですか。急にそのようなことを言われても此方は納得できませんし、ミッシェル嬢とは上手くいっていたと思っていたのですが・・・」
笑顔は引きつっていないだろうか。それほどまでに余裕のない私に、伯爵は真面目な顔で信じがたいことを口にしたのだ。
「先日、娘のミッシェルはこの邸を訪れたのです。恐らく貴方は知らないことでしょう。ミッシェルは貴方を驚かせてやりたいと言っていましたから、貴方の家令達も、貴方には告げず今日まで黙っていたはずです」
ミッシェル嬢が・・・私に会いに?思わずドア付近で待機していた家令に目線を送ると、彼は遠慮がちに頷いた。別に黙って来てくれていたことは怒りはしない。寧ろそんな可愛らしい一面をもっている彼女にさらに愛しさは募るばかり。・・・だとすると可笑しい。態々会いに来てくれたはずの彼女に、私は会っていない。
「ですが、私はミッシェル嬢にお会いしていません。彼女はどうして会わずに帰ってしまったのですか?」
「・・・本気でそう思っているのですか」
その眼は怒りに満ちていて、暗に私に原因があったのだと言っているようなものだった。しかし私にはまったく心当たりがなく、何故こんなにも睨まれているのか理解ができなかった。
「ミッシェルは邸に帰るとその足で執務室にいる私のもとへやって来ました。悲痛に顔を歪ませ、今にも泣き出しそうな・・・こちらまで悲しくなる表情でした」
「・・・・・・」
笑顔がよく似合う彼女が悲痛に暮れるほどのなにかを、私は仕出かしてしまったのか?伯爵にここまで言われても、私にはまったく身に覚えがなくなにも口に出来なかった。そんな私を見兼ねて、伯爵は大きく息を吐くと続きを語りだした。
「娘にどうしたのか尋ねるとこう言いました。『ヒューブリック様との婚約を破棄してほしい』と・・・」
ガタッと、二人の間のテーブルが動いた。それは私が伯爵の言葉に動揺して思わずそのまま立ち上がろうとしたからだ。続きがあるから座りなさい・・・そんな視線を送られれば大人しくもとの位置に戻るしかない。
「勿論私は娘に聞きましたよ。本気なのか、理由は、と・・・すると娘は信じがたいことを言ったのですよ。貴方が、自分の婚約者である貴方が女性と抱き合っていた、と・・・私は娘の見間違いではないのかとも思いました。しかし娘はしっかりとその眼で確かめたと。栗色の髪の女性を優しく抱き寄せる貴方を・・・」
私がこの邸で女性を抱き締めていた?栗色の髪の・・・?そこまで考えて私は漸くその時の記憶が蘇った。確かにそんなことはあったが・・・だがあれは!!
「娘は他の女性が心にいる貴方とは夫婦になれない・・・だからこの話はなかったことにしてほしいと。例え自身のこの先の結婚が遠のくことになったとしても構わないとまで言っていました。そこまで決心しているのならと、今日ここにやって来たのです」
伯爵はすべてを語り終わるとテーブルの上に婚約破棄に必要な書類を何枚か並べ始めた。私はただその様子を黙って見ているだけだ。
「書類は此方が記入するものはすべて埋めてあります。ですからあとは公爵家で役所に提出をしていただければ終わりです。結納金などもまだ受けていませんでしたし、公爵は娘には高価なものは贈っていないようなのでお返しするものはないようです」
このままこれを受け取ってしまったら、本当に終わりになってしまう。私は目の前の書類を無視して伯爵に話しかける。
「一度だけでいいです。ミッシェル嬢と話をさせていただけませんか?誤解を解かないまま破棄なんて私は出来ません」
「誤解・・・ですか」
あまりにも切羽詰まった私の表情に伯爵は若干引いているようだがそれでも応と言われるまではすがりつく。
「そうです。私が女性を抱き留めていたのは事実ですが、それは真実ではありません。ちゃんと彼女に解っていただきたいのです」
「・・・貴方が自身の潔白を証明できるのならば、私は構いませんが・・・私も娘に易々と苦労の道を歩ませたくはありませんから」
伯爵の言っていることの意味をきちんと理解できなかったが、それよりもチャンスを与えられたことが私にはより重要だった。
『娘には貴方が来ることは伏せておきましょう。逃げでもしたら大変なので』
逃げるって・・・最早私と彼女の間に修復する術すら残されていないのではないかと不安になる。しかしこれが彼女を繋ぎ止める最後の手段なのだと言い聞かせるように、私は大きく頷いたのだった。
シュバルツァ伯爵邸の廊下を、私は家令に案内され進む。目的地は勿論、辛うじてまだ婚約者でいる愛しい彼女の部屋だ。一歩、また一歩彼女の部屋に近付くたびに心臓がどくどくと胸を突き破って出てきそうだ。今、彼女はどんな気持ちで部屋にいるのだろうか・・・泣いていなければいいなと思っているうちに、とうとう彼女の部屋に辿り着いてしまった。
「今のご予定ですと読書の時間ですので、お入りになっても大丈夫でしょう」
「有り難う」
ロマンスグレーの似合う家令は一度礼をとると元来た廊下を戻ってしまった。今、扉を隔てているのは彼女だけ・・・ごくりと喉を鳴らすと、私は真鍮のノブを一気に回した。
「・・・・・・ヒューブリック、様?」
「・・・・・・・・ミッシェル、嬢?」
たぶんこの時の私達はなんとも間抜けな顔をしていただろう。いや、彼女はどんな表情でも可愛いのだが。いやいや、今はそんなところに気を持っていかれている場合ではない。ぽかんと口を開いてこちらを凝視している彼女の周りには、無数の布と糸、そしてドレスであったろうものが散りばめられていた。彼女の両手にも、布の切れ端と針が握られている。はっと我にかえった彼女は直ぐに両手を引っ込めたが周りに散らばるそれらは隠せていない。
「ミッシェル嬢・・・あの・・・」
想像もしていなかったことに動揺してしまい彼女に会ったら言おうと思っていた言葉が出てこない。というか、この場景には場違いな気がした。
「ヒューブリック様がどうしてここに?もしかして婚約破棄のお話をお父様とするために?」
「いや!!そうではなくて、今日はミッシェル嬢とお話をしなければと思ってやって来たのです。ミッシェル嬢の誤解を解きたくて・・・」
「誤解、ですか・・・ですがわたくしは確かに・・・」
「ミッシェル嬢、お願いですから私の話を聞いてください。貴女に誤解されたまま嫌われたら・・・私は生きていけない」
私の、今にも泣きそうな声と表情に負けたのだろう。彼女は膝をついた私に手を差し出し椅子に促してくれた。どうやら聞いてくれるようだ。
「ミッシェル嬢があの日見たことに関して否定はしない。確かに私は彼女を抱き留めていた・・・」
「そう、ですよね」
俯いてしまった彼女に、私は慌てて顔をあげるようにお願いした。ここで終わっては結局勘違いをさせたままになってしまう。
「まず彼女のことを説明しなければならないのだけど、私に弟がいることは知っているでしょうか」
「えっと、はい・・・確か、マルベリック様ですよね?現在はグリコーゲン領の伯爵となっているとか・・・違いましたか?」
私は彼女の言葉に頷いた。勿論、正しいという意味で。私の弟は遠い縁者であるグリコーゲン伯爵の娘とつい一年前に結婚して今では跡を継いで伯爵となっている。
「その通りです。それで話の続きなのですが、弟は一年前に結婚をして弟の一つ年下の妻がいるのですが・・・私の義理の妹になりますね。その義理の妹が妊娠していまして・・・」
「それはおめでたいですわね。ですがそれとどのような関係が?」
まあここまででは繋がりはしないかとさらに話を進めた。
「その身重の義理の妹が先日、弟と一緒に会いに来たのですよ。公爵家は弟の生家ですからなんら不思議なことはないんですけどね。まあ実際には此方に仕事の用があった弟が家に妻を残すことが心配で我が家に一時だけ預けた・・・というほうが正しいのですが。で、その続きなのですが、その日家には私の他には家令と義理の妹しかいませんでした。従って妹の面倒を見るのは私になるのですが・・・妹は自分が妊婦なのを分かっているのかいないのか、ちょろちょろと動き回るのですよ・・・それだけならまだいいのですが、彼女は昔から天性のドジでしてね・・・なにもないところで普通に転んでいました。まあだから弟も妹を残して出てこれなかったんですけど、私も弟同様に心配で彼女に手が届く範囲に常にいたのですよ。そして私の心配した通り、妹はやらかしました。ええ、それはもう盛大に転んだんですよ。芝しか生えていない場所で、躓くものがないところで・・・咄嗟に私は彼女の手を引いて抱き寄せました。妹の腹に負担をかけないように優しくね・・・あの時はある意味生きた心地はしませんでした。一歩間違えば甥か姪になる子がいなくなっていたいたかもしれないのですから」
今思い出してもぞっとする。あのあと妹は私に叱られ、父に叱られ、弟にも叱られた。きっと義理の父の叱咤は私達以上だったことだろう。きっと私の表情に表れていたのだろうか。ミッシェル嬢は明らかに同情の眼差しを送っていた。
「その妹の身体的特徴なのですが、彼女は栗色の髪なんですよ」
「栗色の・・・あ」
まあ話の途中から分かってはいたのだろうが、これで決定的になったわけだ。あの日、彼女が私に会いに来たときに目撃した女性というのがドジな義理の妹であると。まさかあの妹のドジが私の婚約の危機にまで影響するとは・・・一度見てもらった方がいい気がする。とりあえずこれで私の身の潔白は証明されたはず・・・だからこの婚約破棄の話も流れるはずなのだが・・・
「浮かない顔ですが、まだ信じていただけませんか?」
彼女の表情は話す前と変わらずに、いや、寧ろ動揺と焦りが浮かんでいるように見える。それは私を疑ったから、というものにはとても見えない。
「まだ、私との婚約をなかったことにしたいと・・・思っているのですか?」
そう・・・その表情はまさにそれだ。婚約破棄がなくなりそうでどうしようという表情。彼女はこのことがなくても私と夫婦になるつもりがなかったのだ。
「私は嫌です。私は貴女を愛している。すべての財産や地位を擲ってもいいほどに私は貴女が欲しくてたまらない」
彼女の柔らかな両手を包み込むように握りながら真剣な眼差しを送ると、彼女はなにかを考えるように瞳を動かすと大きく息を吐き、私を真っ直ぐ見つめた。
「わたくしは・・・結婚をするつもりがありませんでした。ヒューブリック様がどうこうというわけではありません。わたくしの我が儘です」
「理由を聞いても宜しいですか?」
彼女は頷くと語り始めた。彼女の夢を・・・
「わたくしが今着ているドレス・・・細工が細かくて美しいでしょう?これはシュバルツァ領のとある服飾店の方に依頼して作っていただいたのです。そのお店には母の時代からお世話になっていて、わたくしのもつドレスもすべてそちらでお願いしているんです」
「そうなのですね。確かに美しいドレスです。初めての夜会のあの純白のドレスもそちらで?」
「あら、ヒューブリック様もいらっしゃっていたのですね。ええそうです。あのドレスもあの日のために作っていただきました。いつからだったのか分かりません。わたくしは綺麗なドレスを着ることも勿論好きですが、作ることに興味が湧いていたのです。それが夢に変わったのが街に出ることがあり日頃の感謝を込めてお店にお菓子の差し入れを持っていったときです。一心に、訪ねていたわたくしにも気付かないほど集中して店主がレースを手ずから作り上げていました。店主の目の前には作りかけのドレスと思われるものが・・・それには店主が今作っているレースと同じものが縫い付けられていました。一息ついた店主がわたくしに気付き慌てて対応していましたが、わたくしの意識はそのドレスに奪われていました。まだ完成にも到っていないそれが、わたくしには輝いて見えました。その日から体が空けばそのお店へ足を運びました。何度か通ううちにそのドレスであろうものは立派な、わたくしが想像したものよりも美しいものに仕上がっていました。わたくしが手掛けたものではありませんでしたが、その過程を見ていたからでしょうか・・・何とも言えない満足感が生まれました。その満足感は日を重ねるごとに変化しいつしかわたくしはこう思うようになりました。わたくしもあんな素晴らしい、人の心を掴むドレスを作ってみたい、と・・・それからわたくしはまずは針を触ることから始めました。怪我をしてはいけないからとその時まで触れることがなかったので最初はどきどきしました。針に糸を通すのにも苦労しましたし、玉留めを作らないと糸が布を抜けきってしまうことも初めて知りました。家の者には内緒で、習い事の合間や就寝前に独学で練習してましたから、真っ直ぐに縫うだけでも一月以上かかってしまいました。ですがとても充実していました。今では簡単なものなら刺繍できるまでになったのですよ?」
本当に楽しそうに笑う彼女の表情は、今までに見たことがないほど輝いていた。私と一緒にいたときはいつも微笑んでいただけで、こんなふうに頬を染めて悪戯が成功した子供みたいな無邪気な笑顔にもなれることに僅かながら動揺した。私にはそんな顔を見せる価値もないのかと。ヒューブリック様?と首を傾げる彼女に心の動揺を悟られないようににこりと笑うと、続きを聞きたいと促した。
「少しずつ出来るようになっていくと、どんどん貪欲になるのですよね人は・・・わたくしは闇に隠れるように誰にも見られずにいることに段々苦痛を覚えるようになりました。わたくしは初めて自分でやりたいことを見つけたのにと・・・ですがわたくしはこれでも伯爵家の娘ですから、己の身に纏う責任と義務も分かっているつもりです。いつかはどこかの殿方と結婚してその方を支えていかなければと・・・夢を見てはいけないと・・・色々な葛藤が渦巻くうちにヒューブリック様との縁談が纏まってしまいました。本音を言えばヒューブリック様が心変わりでもしないかと期待していましたが、ヒューブリック様はとても紳士な方で・・・毎日のようにわたくしに会いに我が家へ訪れてくださり心の籠った贈り物をしてくださいました。だから・・・少しだけほだされてしまったのでしょうね。貴方となら、夫婦となっても良いかもと・・・わたくしの幼い夢も諦めても良いかもしれないと・・・だからあの日ヒューブリック様の邸へ向かったのです。黙って行ったのがいけなかったのですね。まさかあんな光景を目撃するとは夢にも思いませんでしたから・・・あ、今では誤解だったとちゃんと分かっていますよ?それでも、あの時のわたくしは不謹慎ながら、喜んでしまいました。ああ、婚約を破棄するいい口実ができたと・・・このお話がなかったことになればもしかしたらお父様も私の好きにさせてくれるのではないかと。とても傲慢でしょう?呆れてしまうでしょう?それでも、消えかけた夢がまたこの手に戻ってきて、とても・・・嬉しかったんです」
そうか・・・彼女は彼女なりに私のことを好きになる努力をしてくれていたんだな。だがそれも夢を前にすれば簡単に吹き飛ぶ程度のものだった。普通ならこんな話をされれば怒ったり嘆いたりするのだろう。だけど私は、正直に気持ちを伝えてくれた彼女を嫌ったりできなかった。嫌いになれたらいっそ楽だったのだけどな。
「それで、わたくしはすぐにお父様に願い出ました。早ければ早いほうがいいですし・・・お父様は何度も尋ねられました。本当にそれでいいのかと・・・わたくしは頷き、お父様は了解してくれました。そしてあとはご存じの通りです。ヒューブリック様には本当に申し訳ないことをしたと思っております。きっとヒューブリック様もこの話を聞いてわたくしとの婚約は誤りだったとお思いでしょう。ですからこのまま、破棄の手続きをなさってくださいませ。すべてわたくしのせいにすれば、丸く収まりますわ。貴方の名にも傷はつかないでしょう」
にこりと笑っているがその笑みはどこか無理をしているようにも見えた。
「ミッシェル嬢に、お聞きしたいことがあります」
「なんでしょう」
彼女はドレスをさらりと撫でながら立ち上がり窓際へ向かった。私もそれに続くように彼女の後を追う。
「先程の話の中で、私と添い遂げてもいいかもしれないと仰っていましたよね?」
ガラスに写る顔は光の加減でよく見えない。しかし彼女が頷くことで彼女の思いが分かる。
「それは・・・少なからず私を好きでいてくれたと、自惚れてもよいのでしょうか」
「・・・・・」
僅かな沈黙の先にあるのは、どんな答えなのだろう。私は焦らず、彼女の言葉を待った。
「そう、ですね・・・好き、になっていたかもしれません。あの日、ヒューブリック様が妹様を抱き寄せていたのを見て喜びと同時に僅かな胸の痛みを感じました。よく考えれば、それは貴方に惹かれていたからなんでしょうね。深く考えないようにしていましたから気付かなかったのでしょう」
「そう、ですか」
ならば、と言葉を続ける。
「ならばやはり私は破棄など望みません。僅かでも想いを返していただけているのです。簡単に諦められませんよ。言ったでしょう?私は己のもつすべてを擲っても貴女を手に入れたいと」
「ですが・・・」
振り向いた彼女の手をとり口付ける。すると彼女の頬はほんのり紅く染まった。男として意識してくれていることがなによりも嬉しい。
「どれだけ傷つけられたとしても、きっと貴女のたった一言で私は、すべてを許してしまうでしょう。たった一言を、この先永久に、私だけにそれを囁いてくれるなら・・・」
クスリと笑うと、彼女は不思議そうに首を傾げる。私は握った手を引き彼女の体を自分の方へ引き寄せると華奢な体を優しく抱き留めた。その体の柔らかさと仄かに香るポプリに抱いてはいけない気持ちが沸き上がるがそれを抑え、綺麗な髪に隠れている小さな耳に唇を寄せた。
「ただ好きと・・・貴女の笑顔とともに言ってくれたら、私はそれだけで天にも昇る気持ちになれるのですよ」
だから大人しく私だけの天使になって?そんな気持ちをこめて抱き締めると彼女の顔は熟れたりんごのように真っ赤になった。
そのあとはお互いのことをもっとよく知ろうということになって好きなものから小さい頃にあった出来事まで、日が暮れたあとも語り合った。そのうち伯爵が痺れをきらして乗り込んできたが、それもきっといい思い出になるだろう。
その日の晩は彼女が望んでくれて伯爵邸に泊まることになった。できればこのまま居着いてしまいたかったが仕事もある。私は泣く泣く帰ることにした。
「はあ・・・もっと貴女と話をしたかった。時間が止まればいいと思ったのは初めてです」
「ふふっ、またお話する機会はありますわ。その時を心待にしています」
昨日より彼女の表情は明るくなっていた。彼女も内に溜めていたものを吐き出したことで心が軽くなったのだろう。
「いってらっしゃいませ、ヒューブリック様」
「・・・・・・!!」
彼女が、私に笑顔でいってらっしゃいと・・・!こんなっ、余計に離れたくなくなったではないか!!・・・そうだ。離れる必要はないじゃないか。彼女は私の婚約者なのだ。私の邸で生活してもなんら問題はないじゃないか。
「うん、そうしよう」
「え?あの、ヒューブリック様?この手はなんでしょうか」
今私は彼女の柔らかな手を掴んでいる。何故かってそれは至極簡単なことだ。
「うん。ミッシェル嬢も一緒に帰るんだよ」
「あの、帰るとは?わたくしのお家はここですが・・・」
「そうですね、確かに生家はここですけど、もうすぐ私の邸が貴女の帰る家になるんですよ?いきなりでは貴女もさぞ息苦しい思いをするだろうから、今のうちから慣れてしまったほうがいいでしょう?」
私の言葉に眼を見開いて唖然とする彼女。でも離れなくないんだよ。あ、一応伯爵にも了解をとっておこうかな。私は彼女の手を握ったまますぐに伯爵のもとへ向かった。事の始終を説明したあと彼女を我が家へ迎える旨を伝えるとなんとも言い難い顔になった。まあ可愛い血の繋がった娘を婚約者とはいえ成人した若い男のもとへ易々と送り出すなんて父親なら反対なのだろう。だけど此方には一方的に婚約破棄をさせられそうになったという強味があるから伯爵は私の願いを受け入れる他ない。という訳で今日からミッシェル嬢は我が家の住人だ。取り敢えずは三日程滞在してもらって徐々に日数を延ばしていけばいいか。ああ、こんなにも邸に帰るのが楽しみなのは本当に初めてだ。
「お世話に、なります」
「ふふっ、もっと気楽に構えていいですよ。いずれは貴女の邸になるんですから」
借りてきたシャム猫のようにピンと背筋を伸ばしてちょこんと座る彼女が可愛くて思わず笑ってしまうと視線を臥せて恥ずかしそうに頬を染めた。家令に飲み物を出すように指示すると、私は王宮に向かう準備を始めた。
「四半日ほど邸を空けますが、ミッシェル嬢は好きにしていて構いませんからね?昼食も、苦手なものがあったら家令に言ってください。夕食は一緒に摂りましょう」
「はい、あの・・・」
彼女は膝の上で指を遊ばせながら臥せていた顔を上げる。
「お裁縫は、してもいいでしょうか」
なんだ、そんなことかと私はにこりと笑って頷いた。
「勿論です。ミッシェル嬢の好きなことを私は取り上げたりしません。言ったでしょう?好きにしていて構わないと」
「有難うございます」
うん。やはり彼女にはこの輝く笑顔が似合う。ずっと見つめていたいけど、そろそろ出なければ夕食までに帰れなくなりそうだ。残念に思いつつ私は重い腰を上げる。
「では、私は出ますね。帰ってきたらまた沢山話をしましょう」
「はい、ヒューブリック様。いってらっしゃいませ」
「っ!!いってきます」
愛する人に見送られ仕事に向かう友人の気持ちがやっと分かった。恋人に早く会うために仕事に精を出す気持ちも、自分が同じ立場になればそれも納得する。この日の私は、いつも以上の処理能力だったと後日同僚は言う。
「ただいま、ミッシェル嬢」
「おかえりなさいませヒューブリック様」
朝とは違うドレスを纏った彼女が笑顔で出迎えてくれる。ああ、なんて幸せなんだろうか。これが夢ではないことを確かめるように、彼女の体を抱き寄せた。
「ヒューブリック様がお帰りになったらすぐに食事ができますと家令が言っておりましたわ。お腹空かれたでしょう?」
「そうですね。ミッシェル嬢もお腹空いたんじゃないですか?すぐに準備してもらいましょう」
その後すぐにテーブルはセッティングされ私達は仲良く夕食の席に着いた。食事中、彼女が私の仕事の話に興味を抱いてくれて退屈なものでも新鮮なのか表情豊かに相槌を打ってくれる。夜には酒を嗜みながら彼女の話を聞いた。
「では、まだその店に通っているのですか?」
「本当にごくたまにですけど・・・最近は習い事が多くて家から出られることが少なくなって・・・」
彼女の声が尻すぼみになっていく。この習い事というのが私のせいならばすぐに解決できる。
「では今度伯爵にお会いするときに進言しましょう。貴女は公爵夫人として必要なものはすでに持っています。だからもう、これ以上の嗜みは必要ありませんと。そうすれば店にも顔を出せるし、時間もたっぷり空くから心置きなく励めるでしょう?でも、僅かな時間は公爵夫人となるための鍛練と思って取り組んでいただきますよ?筆頭公爵ともなると、夜会にはほぼ強制参加ですからね。貴女にも参加してもらわなければならない」
私だけの天使でいてほしいが世間はそれを許さないんだよな。ただでさえシュバルツァの姫を婚約者にして周りがやっかんでいるうえ麗しの君を秘匿なんてしようものなら闇に乗じて背中を狙われかねない。彼等に緩和剤を与えねば・・・それがミッシェル嬢だ。
「勿論ですわ。今まで以上に頑張ります!!ヒューブリック様、有難うございます。夢とは大きく外れてしまいましたけど、なにも残らないよりはましですよね」
やはり公爵夫人ともなればなかなかに忙しく片手間にできるものではない。申し訳ない気持ちは多大にあるがそれでも彼女を諦める選択肢は私にはないのだ。だけど彼女の話を聞いて、考えたことがある。それはもっと後にでも彼女に聞いてみよう。そうだな、夫婦として、公爵夫人として彼女が慣れた頃がいいだろう。その頃にはもう彼女の腹に新しい命が芽生えているかもしれないが・・・。
そして月日は流れ早いもので一年が経った。私達は順調に愛を育み、陽の暖かくなった春晴れの良日、めでたく本物の夫婦になった。本物のというのは、婚約期間中も彼女が公爵夫人のように振る舞っていたから周りはすでに籍を入れたのではと勘違いしていたから。いや、彼女の頭の回転の良さには私も驚いた。さすがはあのシュバルツァの娘というところか・・・彼女が邸にいたから私は安心して公務に就ける。さらに月日が経ち、もう誰が見ても立派な公爵夫人になった彼女に、私が考えていたことを話してみた。
「ミッシェル、まだ服を作りたい?」
「そうですね・・・死ぬまでに一着、無骨なものでも作れたら幸せでしょうね」
現在ハンカチに刺繍中の彼女に私は、
「では、私のために服を一着作ってはくれないか?世界にたった一着の私のためだけの服を」
彼女は動かしていた手を止めて驚いた表情で此方を見ていた。
「ですが・・・女性のものとは違って難しいですし、独学ですから上手くは作れませんよ」
「いいんだよ。貴女が作ってくれることに意味があるのたから。長くかかって構わない。私が死んだ後にでも棺に入れてくれれば、死後の世界でそれを着て貴女を待っていられるだろう?その時に感想を伝えよう」
「ヒューブリック様・・・分かりました。わたくし、貴方のための服を作り上げますわ」
この数十年後、私達は沢山の子や孫に囲まれ幸せな生涯を閉じることになる。先に私のほうが寿命を迎え眠りにつくことになるのだが、私の棺には、彼女が生涯をかけて作った帷色の夜会服が妻の手で入れられたそうだ。生前では袖を通すことは出来なかったけれど、彼女が此方にやって来たときには必ず礼を言おう。そして今度は私が、この夜会服に似合うドレスを彼女に贈ろう。生まれ変わるその時まで、二人で踊るためのドレスを・・・
前作でばら蒔きまくったものを無事拾えているか微妙ですが納得していただけることを祈ります。ちなみにこの世界の医療はさほど進んでいないので寿命も今よりもだいぶ短いです。だからミッシェルが育児や公爵夫人として動きながら一着作り上げるには妥当な時間だと思われます。(ミッシェルは限りなく素人なので)死後の話は近況報告のほうででも書いてみたいなぁと思います。まあ納得できない方もいるとは思いますがこれにて終わりです。