二
老齢のヴァルダンは今や家族の内で一番死から遠い人間だ。
老いぼれには死を受け入れる覚悟は出来ている。
あの時までは死がいつでも自身に寄り添っていた。
なのに今はどうか。
人生を歩み出した子供達から死んでゆく。
若者達はあと十数年の余生に絶望している。
神はなぜ、まだ死を知らぬとも良い若者達に受容を強いるのか。
逆行に対して原因が見つからぬ中、経済は緩やかに低迷をしていたが崩壊することは無かった。
明確な終わりを知ったとはいえ、大半の者には長い年月がある。
死するその日まで、生きるには労働が必要だった。
しかし労働に関して言えば、逆光後の方がある種良好になったと言える。
企業は競争をする必要が無くなった。
経済の寿命はもってあと50年、拡大は絶対にあり得ない。
縮小と衰退が決まっている中、馬車馬のように労働者を働かせるなど無意味だ。
各企業は逆行までにが貯蓄していた資産を労働者の給料に当てた。
労働者達は潤沢な給料と時間を手に入れた。
彼らの時間と資産は消えゆく若者達の為に使われた。
しかし物事には例外が付き物だ。
世の中には逆行による経済の恩恵を受けられぬ者も居た。
他ならぬ映画界に生きた人間だ。
一部はテレビ業界へ生き延びたが、多くの者は路頭に迷った。
テレビ業界も死屍累々で辛うじて生き延びているに過ぎない。
テレビも映画も始めはスポンサーが必要だ。
企業が広告主として映画やテレビ番組の企画にに資金提供する。
その資金を元にして映画やテレビ番組は作られる。
広告主は映画やテレビ番組を広告塔として利用し顧客獲得を狙う。
これが以前までの流れだったが、企業が競争しない今ではスポンサーの獲得が難しい。
労働時間の短縮によりテレビの需要は高まってはいるが、資金源の獲得が出来ない彼らは番組を作る事が出来ない。
結局は自局の持つ過去の番組を再利用して小銭を掻き集めるしか方法がなかった。
逆行した世界では夢を売るスター達は要らないのだ。
ヴァルダンは行き場の無くした映画関係者達を自宅に住まわせた。
逆行が始まるまでに貯めた資産は莫大だ。
贅沢をしなければ数人位死の時まで養う事は出来る。
一人目はカーター・デニックは自殺した孫の友人だった。
同じ専門学校で脚本を学んだ孫は彼にとって戦友と言っていい存在だったという。
カーターは大のマンガオタクだ。
彼はいつかハリウッドにマンガの世界を作ると野心を抱いていた。
そしてその夢は叶う。
23歳の時、SF映画の巨匠フラスニク・バーグが彼を見初めたのだ。
彼の脚本を元に映画製作が始まるが、逆行現象の発生により企画は永遠に凍結された。
35歳である彼は逆行により、肉体は15歳の青年となっていた。
二人目、リエコ・サナダは特殊メイクのメイク師だ。
16歳で日本からアメリカに渡米、特殊メイクの将リック・チャンの元で技術を磨いた。
彼女がメイクを手掛けた映画“ワン・デイ”はその年の興行収入1位を記録し、彼女をオスカーのメイクアップ賞へと導いた。
日本の若女将と称される彼女は42歳。
今は残り22年の人生を生きている。
三人目と四人目のジョーダン・ドミニクとキアラ・ドミニクは双子の俳優だ。
二人はロスの無法地帯スキッド・ロウで生まれた。
父は麻薬密売人、母は娼婦。
兄妹は親に愛情を注がれた事が無かった。
家では暴力が当たり前だった。
父は気に食わないことがあると灰皿で兄妹を殴ったという。
兄ジョーダンは妹が傷つかないよう、殴られる時はいつもキアラの盾になった。
暴力の日々、成長した兄妹は家出した。
彼らはスキッド・ロウを出てハリウッドを目指した。
あそこなら上手い残飯があるはずだ。
そんな単純な考えだった。
セレブの住まう街で身を隠しながら、ゴミ箱を漁り生ゴミを喰らう。
そんな二人を救う者が居た。
他ならぬヴァルダンだ。
ヴァルダンは乞食であった二人を養い、演技を覚えさせた。
適性のあった彼らは演者としてのノウハウをどんどん吸収してゆく。
彼らは14歳の時にデビューを果たした。
スラム街のキッズギャングのボスとボスの妹を演じる二人の演技は絶賛された。
リアリティのあふれる演技は人々の心にジョーダンとキアラの名前を刻みつけたのだ。
彼らは今30歳、彼らは映画の滅亡の間際まで俳優で有り続けた。
10歳となってしまった彼らは自身が自身で無くなる時まで、恩師の元で生きる事に決めた。
最後の一人はミッシェル・リー、彼は他の4人とは別格だ。
彼はヴァルダンと同じハリウッド黄金期を支えた重鎮の一人。
スタントマン出身で生身のアクションだけを演り抜いた男だ。
クリス・ウォン、タンジャン・スーチー、ジョン・ムラヤと並びカンフー映画四天王とも呼ばれている。
彼が監督主演のアクション映画“鉄虎”はワイヤーを使わない、生身でのアクションだけにこだわった彼の集大成とも言える作品だ。
アクション映画の聖典として未だマニアの心に刻まれる作品である。