自由の終わりに、にゃーさんと
ずっと人間のフリをしていた。そう見えるように教育を受けて、わたしも本を買い雑誌を読み常に人間らしくあるように努力した。すべては役目を果たすその日まで続くままごと。
役の名前で呼ばれるのも慣れて、本当の名前がなんだったのか忘れて、もう特別に意識しなくても人間の演技が出てくるようになった頃――ついに、約束された日が迫った。
そしてわたしは最後に自由を与えられた。人間としての名前と人間としての生活、けれどそこに含まれなかった人間としての自由が、ついにこの手のひらにころんと転がり落ちたのだ。
望むままに生きればいい、そんな期間限定の自由。人間の演技を繰り返してやっと手に入れたその自由を、わたしがさっそく惜しげもなく手当たり次第に削り取って使い始めた。
そんな、ある日の事だ。
雫を零してざぁざぁと泣き続ける、うす暗い空の下。それは赤い髪の、この辺りでは見た覚えがない男の人。雨の中で傘もささず、塀にもたれかかるようにしてぐったりとしていた。
用事を終えて帰路についていたわたしは、それを拾った。
あれから三日。拾ったものが、もそもそと動き出す。全身が包帯だらけ、といっても過言でも冗談でもないその姿。まだ熱があって意識は朦朧としているが、かなり元気になっている。
まぁ、それも発見時と比べればという話。
まだまだ油断できない。
三日前に道端で行き倒れていた、その青年を拾って帰った。家族がいればうるさかっただろうが幸いにも一人暮らしで、すぐに家にあった包帯や薬を総動員して手当てしたのだが。
長めの赤黒い前髪の向こう側で、同じ色の瞳が細められるのが見えた。
「……」
睨まれている。思いっきり睨まれている。
まぁ、仕方がないという気がしなくも無い。彼からすれば、いきなり見知らぬ他人の家で目覚めたのだから。きっと本音としては、いますぐに逃げ出したいくらいなのだろう。しかし体のいたるところに走ったその傷は、縫うほどじゃないとはいえ動き回るには少々痛みすぎる。
案の定、身体を起こしかけた彼はそのまま後ろへ倒れた。うめき、それでも目を開けばこちらをじっと見ている。拾ってきたばかりの猫のようで、笑いをこらえるのが大変になった。
同時に、そんなに自分は笑いの沸点が低かったかと驚く。家族と一緒にいた頃は、あまり笑ったり泣いたりした記憶が無い。まるで凪のような感情と世界に、静かに立っていたような。
あるいは、そうであるべきと無意識に思っていたのかもしれなかった。この指、足先、細胞の一つ一つがすべて人間ではない。……そう言われながら育ち、自分でもそう思ってきた。
人間ではないのだから人間のように、笑ったり泣いたりしてはいけないのだと。
そう感じる事すらいけないと。感じた演技に留めろと。
だから、この程度の事で笑いそうになる自分が、とても醜く思えた。
「にゃーさんはご飯いるのかな?」
猫みたいだから『にゃー』。名乗らないから勝手につけた名前だった。特に反応も反論も本名も言われないので、ずっとにゃーさんと呼んでいる。仕方がない、名前を知らないから。
「今日は魚の煮物が安かったんだよ。おいしいよ、お魚」
小さめのテーブルに、一つ一つ並べる。にゃーさんは無反応だった。まぁ、いつもの事なのであまり気にしない、だから落ち込みもしない。それににゃーさんも無関心そうで、でもおなかがすいたらちゃんと用意されたご飯を食べてくれるから、だからそんなに心配していない。
炊き立てのご飯を茶碗によそって、安売りしていたお惣菜の魚の煮物に伸ばす。魚は煮ても焼いても生でもおいしい。牛や豚とは違うサッパリしたこってり感も、何だか好きな感じだ。
にゃーさんも魚類は好きらしい。そんなところも猫っぽい。部屋の隅でじっとしていたにゃーさんはゆっくり近づき、自分のために用意された茶碗と箸に手を伸ばした。
静かな食卓。それでも自分以外の誰かがいるのは、嬉しいものだ。たとえにゃーさんが無言の上にしかめっ面で、時々睨んで、とても食事を楽しんでいるようには見えなくても、だ。
実際、見ず知らずの誰かが用意した料理を口にしてくれる程度には、こちらに好意や信頼のようなものがあるのではないかと思う。それが自分ごときには不相応と思いつつ、やはり幸せだと感じるものだった。そんなものはただの錯覚だと、兄には笑われるかもしれない。
それでも。
「んー、おいしい」
即席の味噌汁をすすりながら、しかめっ面で食事を続ける目の前の青年を見ながら。
幸せだなぁと、思った。
■ □ ■
やまない雨。
わたしはぼんやりと部屋の中から空を見上げた。
にゃーさんは適当に本を読んでいる。買い物に行ったときに適当に買ってきたものだ。どういうのが好みかわからなかったので、店員さんにオススメされたものを数冊ほど。今読んでいるやつは昨日読み終わったはずのものだ。どうやら特にお気に召されたようで嬉しく感じる。
それをちらっと見ながら洗濯物を片付けていく。にゃーさんの服の類は兄に頼んだ。今は自由にしてもいいのだからと、にゃーさんを拾った時のようにわがままを言ったのだ。了承してはくれたけれど渋々といった様子だった兄は、それでもわたしの『自由』を尊重してくれた。
自由というのは、何をしても、何を望んでもいいという事。
辞書に載せられている本来の意味はともかく、わたしはそういう意味での『自由』を与えられている。叶えられる範囲で願い事は叶うし、犯罪以外は何をするにも咎められる事はない。
期間限定ではあるけれど、その辺りは仕方がない事だ。
兄は最後まで反対していた。手上げとかを手伝いながら、お前が心配だと。あの男は得体が知れないよそ者だから、今すぐ外へたたき出すか病院にでも放り込むべきだと繰り返し。
何より治安が悪いからと、もうあれやこれやといわれた気がする。何でも不審者があちこちうろついていたらしい。何をどういわれたのかサッパリ思い出せないけれど、適当にあーあーそうだねー、とあわせておいた。心配性の兄は、そのうち胃をぶっ壊す気がしてならない。
でも、優しい兄だ。
妹の身を案じて言ってくれているのは、さすがにわかっていた。
それを自由だからという一言で黙らせた、わたしは悪い妹だと思う。
その一言には、兄でも誰でも絶対に逆らえないと知っててそういったから。監視はされていると思うけれど……わたしの最後の自由を奪う事はできない。
わたしの中に在る覚悟がきえたら、何の意味もないとわかっているから。
無理やりでは意味がない。だからわたしは自由を盾に、にゃーさんを拾ったのだ。もしこの自由が許されないのなら、わたしの覚悟がどうなっても知らないぞと……暗に脅したのだ。
ぱたむ、と最後の洗濯物をたたみ終わったわたしは立ち上がり、とりあえず一服入れるためにキッチンへと向かう。にゃーさんもずっと読書しているから、そろそろ疲れたはずだ。
確かにゃーさんはブラックのコーヒーが好き。
わたしは普通にお茶……今日は紅茶にしておこう。
本当はインスタントじゃなく、ちゃんとした道具で淹れてあげたいけど。道具までは揃えられてもそれらを使いこなすだけの時間は、きっとわたしには許されてはいないと思うから。
ぼんやりと考えているうちにいい感じになったので、カップの中に注いでいく。
にゃーさんは濃い目が好きだ。
わたしには、ちょっと濃すぎるほど。
「はい、にゃーさん」
小さめのテーブルにカップをことりとおいた。わたしの分の食器しかなかったので、近くの雑貨屋で買ってきたにゃーさんの専用カップ。青いネコの足跡がでーんとついたデザイン。
にゃーさんは少しこちらをみて、また本に視線を戻した。まだいらないらしい。にゃーさんはあまり熱いものは得意じゃないようだから、置いといて冷ますんじゃないかなと思う。
かくいうわたしもふーふーと息を吹きかけながら、ゆっくりと紅茶を飲むから似たようなものだろう。コーヒーは砂糖やミルクがいるけど、お茶はストレートが一番好きだった。
さて、とわたしはぼんやり考える。
自由な時間は有限だから、一つ一つ大切に使っていきたい。
きっと兄はにゃーさんを拾った事も、こうして一緒にいる事も、すべてが与えられた自由の無駄遣いだというだろう。もっと別の使い方を考えろと、きっとそう思っているに違いない。
しかし、有効的な使い方を考えるあまり、時間が無駄に流れるのは意味がない。
だったらその時々の思ったままにやってしまおう。
わたしはそう考えて、まずどこでもいいから一人暮らしを希望した。まぁ、その辺は思ったままというよりも前から考えていた事で、実際に直感で動いたのはやはりにゃーさんを家に連れ帰る一件だったと思う。見つけた、連れ帰ったという実に綺麗な直線的な流れだった。
行き倒れたケガ人を手当てする事は犯罪ではない。さすがに幼い子供だったらいろいろ問題があって危ないけれど、幸いにもにゃーさんはわたしより年上の青年なのだから大丈夫だ。
外はずっと雨だ。しばらく止む事はないだろう。この土地は数十年に一度程度に、こうして異常なほどの長雨が続く時がある。作物はダメになるし、災害も起きるし、実に迷惑な雨だ。
とはいえ数日後には大切な祭りがある。
それまでどんなに大雨でも、嵐でも、祭りの日は絶対晴れるのだ。前に長雨が続いた時だって祭りの日以降は例年通りに戻ったのだと、祭りの大切さと共に両親が繰り返し語っている。
だからみんな、祭りの準備に余念がない。今も近くの倉庫では、着々と出し物などの準備が進んでいるだろうし、教会では合唱や演劇の練習が続けられているはずだ。合唱隊には年の離れた兄弟が参加していて、家でも練習する声が聞こえていた。今も練習しているだろう。
わたしの家族は両親と兄と姉、それからわたし。あと下に弟や妹。特に下の兄弟とは年が離れているから、子供ながらにとてもかわいくて大切にしたいと、守りたいと思っている。
危ない事には巻き込まれないでほしい。ずっと笑顔でいてほしい。だけど生きていくのに必要な程度には、苦難にあっておいてもほしい。それはきっとあの子たちが、ずっと先を生きていくのに必要になる痛みだとわたしは思っているからだ。痛みを糧に生きてほしいと願う。
だけどそれは、もうちょっと先の話だから。
今のうちに甘えられるだけ甘えて、甘えさせてあげられたらとわたしは思った。要するになんだかんだ言いつつ、わたしはかなり過保護な姉なのだろう。あぁ、実に情けない話だ。
紅茶を半分ほど飲み終わったところで、わたしも適当に積んた本に手を伸ばす。ただのよくあるファンタジー小説だ。厚みはそこそこだから、ちょうどいい時間つぶしになるだろう。
これで晴れていたらなとわたしは考える。にゃーさんは抵抗しそうだけど、散歩に行くのも悪くないような。にゃーさんは『本当に嫌な時』は徹底的に抵抗するけど、それほどでもないときには渋々わたしの言う事を聞いてくれる。たとえば食事、あとはお風呂とか着替えとか。
あとはその後の手当てとか。腕くらいは自分でも何とかなるだろうけど、背中とかのケガはそうもいかない。今だってクッションを挟んで壁にもたれかかる事で、やっと起き上がっているというような具合なのだから。立って歩くのも壁を支えにしてやっと、という具合。
普通だったら病院に連れて行くべきだと思う。でも、にゃーさんが嫌がった。かがんで身体を軽くゆすりにゃーさんが生きている事を確認したわたしは、立ち上がって近くの病院へ向かおうとして。だけど、薄く目を開けたにゃーさんに手首を掴まれて、それはできなかった。
あの時、わたしは『すぐにお医者さんを連れてくる』と言った。にゃーさんは手首を掴んでそれを止めた。だから、にゃーさんは病院に行きたくないのだとわたしは思ったのだ。
それで自分よりずっと背の高いにゃーさんを自分の部屋まで運び、手当てして食事や衣服を与えて……という現状に至る。兄以外にはこの現状について何も言っていないが、もし誰かに話した場合の世間一般の傾向から思い浮かぶ反応は、たぶんわたしを心配する言葉だろうか。
兄にも言われたのだ。
万が一が起こったらどうするつもりだと。
全身包帯だらけでボロボロの今ならともかく、完全復活されたらさすがにろくな抵抗はできないなぁ、とは思う。でも、それも自由な今だからこそ起きる事という気もする。少しおかしいかもしれないし卑怯な手段だと思うが、そういう環境にいてみたいという自由の主張だ。
何せ家では家族や親類としか接する事はなかったし、通っていた学校もほとんどが縁者という具合だ。まれに来ると伝え聞く旅人などとは、会った事は無いし見かけた事もなかった。
どうせこの自由が終わったら、家族や身内以外と接する事もない。
自由期間でにゃーさんが完全復活することはないと思う。傷だけじゃない場所にもいろいろとダメージがあるようだから。そうだ、その辺も兄に頼んでおかないといけない。満足に動けない状態で路頭に迷わせたら拾ったものとして、とても申し訳ない思いになってしまう。
今度、兄が様子を見に来た時に伝えよう。まぁ、一番いいのはそれまでに自力で動ける程度まで回復してくれる事だ。それならわたしは安心して、自由の終わりを迎えられる。
「そうだ、にゃーさん」
読みかけの本から壁際のにゃーさんへ視線を移す。
反応は無し、いつもの事。
「今日の晩御飯と明日のお昼は何が食べたい?」
「……」
特に反応は無い、これもいつもの事だ。
にゃーさんはしゃべらない。わたしの中でそれは当たり前の事になっている。時々、夜中にうなされているような声を漏らすけれど、それは声というにはか細くて、吐息のようだった。
声といっていいのかわからないけれど、にゃーさんの声は低くて綺麗だと思う。低いだけならその辺の『男性』はみんな低いし、兄だってそれなりに声は低い方だと思うんだけど。
わたしが聞いた中ではにゃーさんが一番、綺麗な声だと思った。
「にゃーさんが好きなものは何? 知らない料理でも、がんばって作るよ」
本を読み、その通りの材料と方法で作れば、ちゃんとおいしい料理になるものだ。少なくともこれまでわたしはそうやって、にゃーさんとわたし、二人ぶんの料理を作ってきたから。
それでもやっぱりにゃーさんは、何も答えてはくれなくて。
今日もまた、適当に料理の本を開いて、料理を作る。
それはにゃーさんの嫌いな料理かもしれないから、わたしはそれが好きか普通に変わるくらいにおいしく作ろうとする。そして、それを黙々と食べてくれるにゃーさんを見て、笑う。
きっと、一年以上一緒にいても、何も変わらないだろうにゃーさん。
もうじき変わってしまう、いや……元の姿に戻るわたし。
そんな光景を楽しんでいたい。
わたしが求める自由。
■ □ ■
今日も雨、明日も雨。
でもあさっては少し降って、それから晴れる。
わたしはしとしと、とは聞こえない雨音を聞きながら、ぼんやりと布団に横たわり目を閉じているにゃーさんを見ていた。傷はだんだん治っているみたい。だけど傷が熱を持って、今日はずっと眠ったまま。熱はだいぶ下がってきたみたいだったけれど、まだだるそうだった。
「にゃーさん」
呼びかけにも反応しない。
いつも、視線くらいは向けてくれたのに。
そっと髪に触れた、頭を撫でた。嫌がらない事が、寂しかった。
「早く元気になってね」
もうちょっとしか、一緒にいられないから。
いい事がおきますように。おまじない。
額へキスをして、とりあえずお粥を作るためにそこを離れる。
キッチンに向かう途中、背後で何かが動く音が聞こえた。もしかしたら、本当はにゃーさんは起きていたんじゃないかなって、その音を聞いた時にわたしは何となく思ったけれど。
まさかね、と笑って否定した。
■ □ ■
雨が降る。
今日は雷まで付いていた。
これでは、明日はちょっとした嵐になっていそうだ。
自由が強制終了されないから、きっと前の時もこんな感じだったのだろう。だからわたしはのほほんと熱いお茶をすする。こんな事も、もう今日しかできないと思ったら、愛しくなる。
明日のこの時間にわたしはもうここにはいなくて。にゃーさんも、もしかしたらここを出て行っているかもしれなくて。この湯飲みもテーブルもみんなどこかに運ばれて。
部屋には何も残されずに……全部、消えてしまって。
それは、とても悲しい事のような気がする。思い出がみんな消えてしまう。あぁ、写真くらい撮っておけばよかったかもしれない。それも、いつか必ず失われてしまうのだけれど。
明日に、未練はない。
やり残した事はいくつか。
そのうちの二つは、とても十日間ではできない事。本音としてはその二つこそ、わたしが一度はやってみたいなと思っていた事だったけれど、まぁ……駄々をこねるわけにはいかない。
にゃーさんは無事復活した。熱も下がって、傷もそれなりに治って。これならわたしがここからいなくなっても、きっと一人で何とかできるんじゃないかなって思う。安心した。
今日のにゃーさんは、やっぱり読書中だ。身体に巻かれた包帯は、昨日よりずっとずっと少なくなっている。もうそれほど痛みもないみたいで、支え無しで歩けるようになっていた。
わたしはにゃーさんの、伏せ目がちな横顔を見ながら、口を開いた。
「ねぇ、にゃーさん。にゃーさん、ほしいものがあったら遠慮なく持っていってね。もしかしたら明日には、ここの家具とか、全部運び出されちゃうかもしれないから」
「……」
不思議そうな顔で、にゃーさんがわたしを見る。
きっと意味がわからないのだろう。
「あのね、わたしは明日――」
どう言うか、少しだけ考えた。一言で片付けるにはあまりにも複雑で意味不明。だけど長々説明したからといって伝わるとも限らない。んー、とわたしは数秒、言葉を頭の中で組んで。
「明日、生贄になるんだ」
とりあえず、事実だけを告げてみた。笑顔で。
実家に帰るとか、そういう言葉を想像していたのかもしれない。
にゃーさんは、しばらく無表情のまま固まって、その手から本が零れ落ちて。
それから、少し目を見開いてわたしを見た。
それは驚いているというより、悲しそうにも見えた。生贄という言葉が人間の感覚でどういう意味か、これまで人間のフリをしてしたわたしはちゃんとわかっている。
だから悲しそうな顔をしたのかもしれない。これはわたしの想像だけど……。
「あのね、にゃーさん、ずっと続いているこの雨は涙なんだよ。神様がね、おなかがすいたと言って泣いていらっしゃるんだよ。おなかがすいたら何か食べればいいから、それが生贄」
その食べ物が、生贄。供物。わたしという何か。
にゃーさんはまだぼーっとしたままだ。
仕方がないので、勝手にしゃべらせてもらう事にする。質問は、まぁ、後で。
この場所には神様が住んでいた。
人間はそこに住まわせてもらっていた。
その代金として生贄を、数十年に一度神様に奉納した。この土地に生まれる子供の中から無作為に選ばれ、生まれるのは決まって雲もないのに雨が降る満月の夜。
雨は神様の心だ。満月の夜の雨は、生贄を食べ終わって満足して眠った神様が、目を覚ました合図。その日には絶対に一人しか生まれず、それは人間ではなく生贄と呼ばれる何かだ。
それが『わたし』。
生贄は神様が供物を要求するまで、人間として育てられていた。
正確には、人間のフリ――演技をして育っていく。過去に何人か、おろかにも供物の分際で自身を人間だと思い込んで、役目を放棄しようとした生贄がいたらしい。一時期は時が来たら生贄の足を切り落として逃げられないようにすればいい、なんて提案さえ出たという。
それは人間じゃない相手とはいえ、あまりにもかわいそう。
だから変わりに、人間の演技をさせる事にした。いっそ生贄は外に出さなければ、という提案もあったらしいけれど時代がそれを許さなくなった。この土地以外から生贄と神様の関係を隠すには、生贄は外に出て普通に暮らしていてくれなければいけなくなった。
まぁ、世間体というやつらしい。
難しいご時世になったものだ。
とはいえ、そのご時世のおかげでわたしは学校に通う事ができて、こうして自由を与えられているわけで。足がへし折られたりもがれるより、演技強要の方がずっとマシだ。痛くない。
そして演技から少し解き放たれ、わずかばかりの自由期間を与えられる。
神様がおなかがすいたと泣き出す雨が降り始めてから、十日間。
それが生贄に戻る前に与えられた、役目に対する報酬のような時間。
生贄を捧げなければ雨はいつまでも止まず、しかし何の準備も根回しもしないまま突然捧げてしまえば、他の土地から怪しい目で見られかねない。生贄や神様の事を知らない人から見れば演技とはいえ『人間』が一人、突然消えてしまうのだから。わたしだって、海外留学が決まったという事になっている。兄はそう言っていたから、たぶんそういう話になっている。
ここに住んでいない同級生は、何も知らない。だからきっと、今頃わたしは外国にいると思っているんじゃないだろうか。そして身を案じてくれているのではないだろうか。
だけど彼女らの元へ届くのは、わたしが死んだという簡潔な情報のみだ。
強盗に襲われたのか事故なのか、その辺りはその時に適当に決められるだろう。とにかく人間という皮を被ったわたしもそうやって死ぬ。生贄という生き物より、少しだけ遅れて。
「まぁ、そんなわけで。わたしは自由を満喫してきたわけなのです」
「……」
にゃーさんはいつものように仏頂面で、黙って話を聞いていた。
「このまま雨が続いたら、ここはだめになってしまう。だから早く神様を慰めて雨を終わらせないといけない。そのためにわたしは生まれた。予言の星を背負って、わたしは生まれた」
ずっと、お前はかけがえのない『捧げ者』だと言われてきた。いつか神様への供物、生贄として死ぬのだと幼い頃から言われ続け、自分でもそういう未来を『夢見て』きた。
だって、誰かの役に立てる。
たった十六年でできる事はあまりにも少ないけれど、そんな長い時間の終わりにわたしはたくさんの人を幸せにできるのだ。これは、とても素晴らしい事だ。誇るべき、重大な役目だ。
十日間だけの自由。
身支度するには十分なほどの時間だと思う。やりたい事は全部できないけれど、どうせできやしないと夢だけを見ていたから、悲しくはない。それほど悲しいとは感じていない、はず。
よくわからなくなっていた。
きっと、一人じゃなかったからだ。
にゃーさんが一緒で、いろいろ楽しかったから。ドキドキだったから。夢の一つ少しだけ手の届く場所にきてしまったから、だから、ちょっとだけ寂しいなんて悲しいなんて、思って。
――生贄の分際で、なんて醜い。
そんな自分の声が聞こえた。
「逃げないのか……お前」
にゃーさんが、しゃべった。今度はわたしが驚く番だった。はじめてだ。はじめてにゃーさんがちゃんとしゃべった声を聞いた。うん、想像してた通り低くてかっこいい、綺麗な声だ。
その赤い目がわたしを見ていた。
はじめてだ。わたしをちゃんと見てくれた。ぞくり、とする。なんだろう、これ。よくわからない。わからないけど、もしかしたらわたしは嬉しいのかもしれない。
にゃーさんがわたしを見てくれた事、反応してくれた事。それが嬉しいのかも――。
いや、何考えているんだろう。人間じゃないのに、人間みたいな事考えて、バカじゃないんだろうか。壊れたみたいに考えが止まらない。嬉しい、ダメなのに、嬉しくて嬉しくて。
「逃げないのか、怖くないのか。役目だとかいって、要するに殺されるだけだ」
にゃーさんの声はとても落ち着いていた。それがわたしのぐちゃぐちゃの考えを、だんだん叩いてまっすぐに直す。……まぁ、にゃーさんが言う事はとても正しく、まっすぐだと思う。
でもね。
「だってそれが役目だから」
わたしはそう答えるしかできない。だってわたしはその役目のためだけに生まれた。明日行われる祭りのパーツとして、ただそれだけのために生まれて育って、ここに存在している。
役目を放棄する事はわたしの存在意義を捨てる事。
そもそも生贄が、人間として生きていけるはずがない。
生贄は生贄で、捧げられる者で、消費されるモノ。
人間とは違う生き物。
わたしは人間のフリはできても、人間にはなれない。なる気もない。もし今、神様の気が変わって生贄いらないなんて言い出したら、わたしはきっと気が狂ってしまうと思う。
すべてを奪われてしまう。
これから何十年も、役目を奪われて無駄に生きるなんて嫌だ。
「わたしは――」
人間じゃない、そうにゃーさんに伝えようとして。
なぜか、にゃーさんの顔の向こう側に天井が見えていた。
あ、押し倒された。ちょっと背中と頭が痛い。胸もどきどきして痛い。兄が危惧していた展開にいよいよなってしまった。というか、にゃーさんってばいつの間にこんなに元気に。
よかったと思う反面、これからどうなるんだろうと不安になった。違う話をしていたはずだったのだけれど、わたしの頭の中はこれからの展開の行く末の色に埋め尽くされていった。
やだな。いや、別ににゃーさんが嫌なわけじゃないけど。でも、なんか。こういうときどういう顔をしたらいいのかわからないから。変な事口走って怒らせたり、しそうでやだな。
だけど、いつまで経ってもにゃーさんは何もしてこなくて。
変だなって、思った瞬間。
「お前は人間だ」
どきどきが、ばくばくに変わる。
「死ぬのが怖いんだろう、本当は」
硝子が割れた。そんな音が聞こえた。
「お前はどこからどう見ても人間だ。人間からは人間しか生まれない。だから、人間の両親から生まれ、人間の兄弟を持つお前も人間だ。生贄のフリをしている、どこにでもいる人間だ」
息がかかるくらい近くなる。雨音なんてもう聞こえない。
何も聞こえない。にゃーさんの声と体温だけが世界を満たす。
嫌だ。なんか嫌だ。
この危うい体勢じゃなくて、流れが嫌だ。
「……ちが、う」
やっと搾り出した否定の声が、思った以上に弱かった。
それを切り捨てるにゃーさんの声は、とても強い。
「違わない」
「ちが、違う……」
何かが剥がれていく。
剥がれないで、剥がないで。
それがなくなったら、本当にダメなのに。
気付きたくなんてない。そんな事は思ってないって、思い込みたい。信じたい。だって今更すぎる。今更そんな事を思ったって願ったって、口にしたって何も生み出しはしないのに。
今更 だなんて。
「や、やだやだやだっ。にゃーさんなんて大嫌いっ」
思いっきり暴れたらにゃーさんは手を離した。そのまま外へ飛び出す。
ずるする、と腰を落とした。
……にゃーさんなんか、にゃーさんなんか大嫌いだ。
もう顔も見たくない。声だって聞きたくないし一緒にいたくない。大嫌いだ、大嫌い。好きだったなんて思わなかったけど、嫌いだって思える程度には好きだったのかもしれないけど。
もしかしたら――大好きだったのかもしれないけど。
でも大嫌いだ。
にゃーさんなんて、もうどこへでもいっちゃえばいい。
だからお別れなんていってやらないんだから。
そうだ。わたしは生贄という存在だ。そういう名前の生き物なんだ。役目がくるまでは人間のフリをしながら存在し、でもわたしは明日の祭りの前に人間の皮をとって生贄に戻るんだ。
すべては雨を止めるために。かつて顔も知らない叔母様がやった事を、今度はわたしがしなければいけないんだ。弟や妹が……それ以外のたくさんの人々が、故郷を奪われないように。
みんながここで生きていけるように。
そのために人間じゃないものが一つ捧げられても、何の支障もない。
わたしは、そう思うから。
■ □ ■
雨の中で祭り。それだけ聞いたら、きっと奇妙に聞こえるかもしれない。
今日は雨が止む日だ。
そしてわたしが人間の演技をやめて、ただのお供えに戻る日。
実家に戻って、まず身体を清めた。それから甘いお香が焚かれた部屋で、雨の中に流れる祭囃子を聞きながら時を待つ。とても静かな一人の時間。……考えていたのはにゃーさんの事。
あれからどうしたのだろう。兄に様子を見に行ってもらえばよかった。嫌い、大嫌いって思ったのに心配になる。そんな自分のわがままさに、呆れて、なぜか涙が出そうになった。
こんな事を感じたフリをできるのも、あと少しの間。
自由期間は終りを告げ、生贄のわたしは人間の皮を脱いだ。
今のわたしは生贄で、祭壇を目の前に雨に打たれているところだ。
それは近くの海沿いにある崖。雨は激しさを増して、風も吹いてまさに嵐のようだ。気を抜いたら全部吹き飛んでしまいそう。小さな子供は危ないからと、屋内に避難しているらしい。
兄はわたしを見ていた、とても静かな目で。哀れんでいるのかもしれない。同じ親から生まれたのに運命がまるで違うわたしの事を、兄はかわいそうな子と思っているのかもしれない。
だけどわたしは、かわいそうな子じゃないよ。
わたしはたくさんの人を救う存在になるんだから、かわいそうじゃない。
岩の上に作られた豪華な、木製の祭壇。祭壇は崖の先端から少しだけ飛び出していて、飛び降りやすくできている……のかもしれないと思った。伝承では飛び降りた先で神様が食べてくれるらしいから、崖とかにぶつからないように飛び出しているらしい。本で読んだ事がある。
祭壇に近寄れるのはわたし――生贄だけ。少し離れた場所に両親と兄と、幾人かの大人がわたしが神様に捧げられるまでを見届けるために、風も雨も気にせず無言で立っている。
わたしが飛び降りたら雨は止む。
叔母様が、それより前の生贄が飛び降りた時もそうだった。
神様。どうか雨を鎮めてください。
祈るように目を閉じて、一歩、足を前に。さらに前に、前に。
あと何歩で――神様に届くのかな。
床がぎしぎしと音を鳴らして、裸足のわたしは雨で滑りそうになる。髪が頬に張り付いてちょっと気持ち悪いけど、それを払いのけるわずかな時間ももったいない気がした。
早く飛び降りないといけない。そう言われている気がする。声が聞こえる。後ろの方からじっと視線を感じる。怖い。だから逃げないと。いや逃げられない。だから役目を、役目を。
足が進む、心が迷う。
今更、何を。
何をこの心は感じたフリをしようとしているのだろう。
本当は人間になりたかった、なんて世迷言を?
にゃーさんのせいかな。にゃーさんがあんな事言ったから、わたしの単純すぎる心はそれを真に受けて錯覚しちゃったのかな。あぁ、じゃあにゃーさんのせいだ。きっとそうだ。
心が今更泣いているけれど、静かにしてと慰める。もうすぐ楽になれるから。神様のおなかの中はきっと、何も考えなくていい場所のはずだから。だから泣くなら、そこで泣け。
そこでなら何を叫んでもいいと思う。
にゃーさんの事、好きだったかもしれないとか暴露したいな。かもしれない、が消えちゃうかもしれないな。どうせならウソだけどね、とか付け足して言っちゃえばよかったかな。
演技はもういらないんだ。だから楽にすればいい。でも今はダメだ。今は泣いてもわめいても苦しいだけだから。どんなに泣いたってわたしの足は止まらない、止まれない。
止まったところで突き落とされるだけという気もした。生贄が役目を果たせなきゃ、雨は止まないのだから。わたし一人くらい、いや一つくらいどうでもいいと、みんなそう思うはず。
わたしだってそう思っていた。
自分で飛び降りるか、突き落とされるかの違い。
落ちるという未来は同じ。変わらない。
でもね。
もし、ね。
横からいきなり抱き寄せられたりして、飛び降りれなくなったら。そしたらきっともう生贄に戻れないような気がした。きっと今飛び降りなきゃ、『生贄のわたし』が死ぬから。
誰かしてくれないかなって声が大きくなっていく。期待が膨らむ。視界が傾く。もう踏み出す一歩はないから、このまま落ちていくだけで。神様のところへ行くだけで――なのに。
何でだろう。頭に浮ぶのはにゃーさんの顔だった。かもしれない、は思ったよりも早くボロボロになって剥がれ落ちていった。そうだね、好きだったんだよねにゃーさんの事。
あぁ、やっぱりにゃーさんを拾ったりするんじゃなかっ。
「――」
た、と思った。思えた。
思うだけの時間が用意された。
おかしいな。そう思う余裕さえ生まれた。重い心がふわっと軽くなる。あったかい腕の中で閉じていた目を開いて、わたしはその赤い髪に気付いた。見覚えがある綺麗な赤。
逢いたい逢いたいと思っていた、その人は。
「……にゃー、さん?」
声が出た。生きている、のかもしれない。
もしかしたら飛び降りも、突き落とされもしなかったのかもしれない。でも全部神様のおなかの中で見ている夢かもしれないから、えっと、でもこれはこれで幸せな夢かもしれない。
あんなに大嫌いだって思ったのに、やっぱり好きだったのかもと思う。こんな風にぎゅっとされて幸せだなぁ、と思えるくらいには。……ずっとこうしていたいと願うくらいには。
「貴様、どこから……」
押し出すような父の声。さらに強さを増した風と雨の音の向こう側で、大人達が互いの顔を見合いながら何かを言い合う声も聞こえた。
「さぁな」
にゃーさんは淡々と答えただけだった。
「それは生贄だ。捧げなければ、この雨が止まない。嵐がいつまでも続くのだぞ……!」
「生贄だなんて笑わせる。忌まわしい日に生まれた子を、理由つけて殺してるだけだろう」
その一言に、父と、母と、大人がびくっと身体を振るわせる。兄だけが、何の事だかわからない表情で、周囲の人々を見た。わたしだって、きょろきょろしたくて仕方がなかった。
だって、そんな話ははじめて聞いたから。
月夜の雨は神聖なものだと、いつも聞かされていたから。
そしてにゃーさんは、叫んだ。
「この集落の連中は、月夜の雨は不吉だからその日に生まれた子を忌み嫌い、生贄としてここから突き落とし、殺し続けてきた。雨も風も、全部この季節にはよくあるものだ。連中はそれを神様が腹をへらしているからだと理由をつけて、生贄を捧げるカラクリを仕上げたんだ」
それからにゃーさんは懐から、銀の首飾りを引っ張り出す。
「これは、俺の母親の形見だ。兄にもらったと聞いている」
綺麗に手入れされて、新品みたいに光る首飾り。三日月がモチーフだった。
それを視界に入れた父が、息を呑んだ。
「なんで部外者が知っているのか、不思議か? 簡単さ。俺の母親は雨の月夜に生まれて生贄になって、ここから突き落とされたけれど死ななかった……お前の妹だよ、伯父さん」
「……っ」
父の表情が青ざめていくのが、遠くからでも良く見えた。
その様子で、わたしはにゃーさんが言っている事が本当だと信じた。
同時に、顔も知らない叔母様の事も少しだけ、わかった。
きっと叔母様も、役目を果たすためだけに生きていると思っていたと、思うから。
生き延びてしまった叔母様は、きっとすごく絶望したと思う。このままじゃ雨も風も止まないから、みんな大変な事になってしまったと。でも雨はあっさりと止まってしまった。
その時、叔母様は何を思っただろう。
生贄ではなく人間に『戻った』叔母様は、嘆き悲しみ、怒り狂ったのかもしれない。
それはとても苦しい事だと、わたしは思った。
「俺の母は死ななかった、生き延びた。だけど雨は止んだ。生贄なんてものはウソを隠すためのハデな飾りだ。お前がここで死んでも死ななくても、この雨はそのうち勝手に止むんだ」
だから死ぬ必要なんてないんだと。
その言葉に答えるように、少しだけ雨がおとなしくなってきていた。もしもにゃーさんがきていなければ、今はすでにわたしが飛び降りた後だ。飛び降りていたら、他の人は生贄を捧げたから止んできたと思ってしまうかもしれない。いや、そう思わせるのだろうとわかった。
わたしは、わたしを腕に抱くにゃーさんを身をよじって見上げる。にゃーさんも、自分の腕の中にいるわたしを見つめて、まるでわたしに叩きつけるように続きを叫んだ。
「俺は母さんに約束した。こんなくだらないカラクリを、叩き壊すと」
だからにゃーさんはここへ来た。
すぐに次の生贄が決まっていて、もうじき捧げられる事を掴んだのはいいけど、そこから先がどうにもおかしい方向へと転がって言ったらしい。たとえば、いろいろかぎまわるうちに取り囲まれて、ボコボコにされて。逃げて力尽きかけていたところにわたしが来た事とか。
医者を呼ぼうとするのと止めたのは、そんな事情からだった。
「こいつを自由にしろ。あんたも『父親』で『兄』だろう。ここにいられないというなら俺が連れて行く。こいつ一人くらい、不自由ない暮らしをさせるだけの蓄えも、覚悟もある」
かつて妹を『殺した』わたしの父に向かって、にゃーさんは言う。父はわずかにうなだれたまま微動だにしなかった。まわりは騒がしさを増していた。風も雨も人間も騒いでいた。
「……今更、もう戻れん」
顔を上げた父の目がぎらり、とした。自分の父親なのに、不快感がこみ上げる。とっさににゃーさんにしがみついた。たぶんわたしは震えていた。実の父の表情、目に恐怖していた。
「生贄は何も『一つ』とは限らん……こうなったら」
父の低い声に、えぇ、と母が答えた。母の目も不気味なほど爛々としていた。実の親に向かってこういうのもどうかと思うけど、二人とも明らかにマトモとはいえない雰囲気だった。
じり、じり、と迫る両親。
兄は見ていられない、というように目をそむけた。他の大人もじりじりと、わたしとにゃーさんに迫ってくる。意地でも生贄を捧げなければ、そんな強く歪んだ意思を感じた。
どうやったら逃げられるんだろう。この人数を突破する自信はない。にゃーさん一人だったらきっとうまい具合にすり抜けられると思うけれど、わたしは絶対に無理だと思う。
せめてにゃーさんだけでも。
そう思ったわたしに、にゃーさんが囁く。
「賭けないか。生贄として『殺される』か、人間として『飛び降りる』か」
「か、け……?」
見上げるとそこには、少しだけ笑みを浮かべたにゃーさんがいた。
「俺の母親は片足をなくしたけれど、子供一人を生める程度に元気だった。もちろんこれまで生き残ったのは、俺の母親だけかもしれない。だけど二人目の生存者がないとも限らない」
生きる方に賭けないか。
にゃーさんがそういって、そっと指でわたしの頬を撫でる。
それから、これはおまじないだとかいってキスを、二回。
一瞬で脳内が壊れていった。時と場合とタイミングを選んでほしい、嬉しい。でもおまじないは額にするものであって、ほっぺたと唇じゃないとあとで教えておかないといけない。
あぁ、こんなの卑怯にもほどがある。選べないというか、一つしかない。
わたしの心が覚悟を決めた。
こんなの賭けでも何でもない。わたしは人間なのだから、そんな選択肢は意味がない。睨むように父と母と兄だった『誰か』を見た。これは決別。わたしは、ただの人間に戻るんだ。
それから、にゃーさんを見上げて。
「にゃーさんは、一人じゃ何もできないもんね」
わたしは、笑って。
雨で冷え切った腕をにゃーさんの背中に回して、ぎゅっと答えて。
ぐるんと世界が回って、それからいろんな音と色が見えたり聞こえたり。冷えた腕に感覚なんてほとんどなかったけれど、ずっとぎゅっとしたままだった。したままで、落ちていった。
■ □ ■
海辺の町は嵐を越えて、穏やかな日々を取り戻していた。遠い町では町ぐるみで殺人が行われていたという事件が発覚し、いろいろと人々の噂話を潤しているという。
そもそもの発端はその土地では忌まれる日に生まれた子を、どうするというところから始まったらしい。棄てる棄てないの話の終わりに、生贄というカラクリを作り上げたのだそうだ。
最後の犠牲者はまだ年も若い少女だった。長い黒髪の娘。情報を掴むのが遅くてその娘は救えなかったものの、これから先の犠牲者は決して生まれないだろう。事件が落ち着いたら祭壇があった場所に慰霊碑を建てるという話もある。生贄として命を奪われた者のために。
そんな話が流れる町の一角に、小さな家があった。
若い男女が住む、とても小さく質素な家だ。
キッチンに立つ少女は鼻歌交じりで料理を続けている。少女はあちこちに包帯を巻いていたけれどとても元気で、おたまで鍋の中をかき回す手付きに乱れはなかった。そんな少女を見ている男も傷だらけだったけど、ソファに座って読書できる程度には元気そうに見えた。
出来上がりかけのスープを少し小皿にとって、味見をする。
よし、と満足そうに両手で鍋を持ち上げて、テーブルへ運んだ。
「ご飯できたよ」
長い髪の少女は、赤い髪の男に微笑んで。
「今日はね、にゃーさんが好きなお魚なの」