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第4章1

 星火(シンフォ)が老夫婦のもとに来てから初めての冬を迎えようとしていた。

 その日は朝から小雪がちらついていた。

 おじいもおばあも、すっかり寒さが身にこたえるようで、朝から囲炉裏のそばから離れようとしなかった。二人もずっと農具の手入れをしている。

 だが、星火は雪が積もらないかとわくわくする気持ちを抑えきれず、外へ出ると空から舞い落ちてくる雪を追いかけてはてのひらに捕まえて、一人遊んでいた。

 だが、星火はふと懐かしいにおいを感じた。

(なんだろう……)

 温かくて、安心するようなこのにおいは。

 それがどうやら家の裏手にある小さな小屋からしてくることに気付いた星火は、裏へと回った。

 小屋は普段、鍵がかけられていたが、どうやら何か用があったようで、鍵がはずされていた。そのままうっかり鍵をかけるのを忘れてしまっていたようだ。

 がた、と星火は戸を開ける。

 立て付けが悪い戸は一気には開かず、ガ、ガとつっかえつっかえながらも、星火一人がようやく中に入れるくらい開くことができた。

 星火はようやくできた隙間から、するりと小屋の中へと身を滑り込ませた。

 薄暗い小屋の中には、滅多に使うことがないような農作業用の道具や、薪のたくわえなどがしまわれているようだった。

 そのなかで、星火は小屋の片隅に無造作に積まれたものに気付いた。

 それが何かを認識した星火の足が止まる。

 がたがたと足が震えた。

「あ……」

 あれは……間違いない。

 積まれたものは動物たちの毛皮だった。そしてその山の中に見えた新雪のような美しい真白な毛は――

「母さ……ま……」

 ゆらり、と星火は毛皮の山に近づく。そうして、積まれた毛皮の前にしゃがみこむと、その中からひときわ美しい毛皮を引っ張り出そうと、手を伸ばした。

 その瞬間のこと。

 あたりが銀色の光に包まれた。その中に浮かび上がったのは、一匹のきつねの姿。

「母さま……」

 光の中、抱きつこうとしたが、星火の腕は空を切った。

 星火は悟る。

 そこにいるのは母の幻であるということを。

「星火――」

 懐かしい声。

 1年前、えさをとりに行ったまま戻らなかった母。まさかこのような形で、相見えることになろうとは。

 やはり、母はひとに命を奪われたのだ。

 あの里人が話していた真白な毛を持つきつねの話は、母のこと

だったのだ。

「母さまあ」

 ほろほろと星火は涙をこぼした。

 どんなに痛かっただろう。

 どんなに辛かっただろう。

 こうして死ぬ間際に星火に向けて言の葉を残すほど、母は星火のことを心配して逝ってしまったのだ。

 

 悲しい。

 悔しい。

 悲しい。

 憎い。

 悲しい……。


 入り乱れた想いが星火の小さな身体にあふれていこうとしたそのとき。

「幸せにおなりなさい。星火――……」

 優しい母の微笑み。その笑みに恨みの感情は微塵も見えない。

「幸せに……おなりなさい」

 それを最後に、母の姿はすっと消える。それとともに、星火の中の悲しみ以外の感情もすっと消えていく。

「母さま……」

 ぎゅっと母の毛皮を抱きしめた。

 母の言葉が身にしみた。

 こんな姿になってまでも、自分に伝えたかったのだろう、あの言葉を。いつも母が言ってくれていた言葉――。

「幸せに……」

「おまえ、何をしている?」

 突然、背後でした声にはっと我に返って星火は振り向く。

「き、きつね!」

 男の言葉で、星火はぱっと両手を頭の上に持っていく。

 懐かしい感触がした。

 ふわりとした柔らかい――

(耳が……ある……)

 力なく右手を下ろし、震えるお尻のあたりに手を持っていけば、そこにはみごとな尾の感触が。

「あ……」

「ばあさん! きつねじゃあ!」

 男は叫びながら小屋を駆け出ていった。

「星火はきつねじゃあ!」

(ばれて…しまった……)

 星火は凍りついたまま、その場から動くことができない。

 動かなければ、動いてこの場から逃げなければ。

 そうしなければ、おじいとおばあにこの姿を見られてしまう。そうしたら――。

(早く、早く……)

 だが、星火の足は言うことをきかなかった。

「こっちじゃ、こっちにきつねがおる!」

 男はおじいとおばあを連れていていた。男の手には弓が握られている。

「ほら見ろ! 星火はきつねじゃあ」

 星火に目をやった二人が、はっと息をのむのがわかった。

「星火…おまえ……」

「ぼ…く……は……」

 がくがくと震える。

(ちがう……。ぼくは……)

 何か言わなければ……そう思っても、言葉が出てこない。

 老夫婦はゆっくりと星火に近づこうとした。だが、それを男が止めた。

「ばあさん、じいさん、どけえ。そいつはきつねじゃ。復讐しにきたんじゃあ」

 手にしてた弓を男は構える。

「このままじゃ、俺たちはのろい殺されるぞ!」


コロサレル……!


 次の瞬間、星火は入口に向かって走り出していた。

「ひええええ」

 腰を抜かした男の前で大きく跳ぶ。同時にヒュウと弓矢が星火の傍らを飛んでいった。

 気付くと、星火はきつねの姿になっていた。

 そのまま振り返らずに、無我夢中で走り出した。

 どれくらい走っただろうか。

 気付くと星火は竹林にいた。

 すでに日は落ちており、あたりは真っ暗だった。月明かりだけが優しく星火のもとに降り注いでいた。

(ぼくは……もう……)

 もう老夫婦のもとに戻ることはできない。かといって、ひとと共に過ごしてしまった自分は森に帰って「きつね」として生きることもできないだろう。

 ひとときとはいえ、自分は「ひと」になってしまったのだから、かつての仲間たちが自分を受け入れてくれるとは思えない。

 ひととして生きることも、きつねとして生きることもできない。

 どしたら……いいのだろう。

 行き場を失った星火は星空を見上げた。

 このままここで儚くなってしまうほうがいいのだろうか。

 そうしたら、母さまと会うことができるだろうか。

 考えれば考えるほど、悲しみで胸がいっぱいになった。

(どうして……どうしてぼくたちとひとは仲良くなれないの?)

 変わり果てた母の姿を思い出す。

 1年前、母が戻ってこなかったときから、星火は心のどこかで、母のことを覚悟はしていた。自分たちの身の上に何か起きるとすれば、それはひとに命を奪われる確率が一番高いからだ。

 思えば、父も人に命を奪われたのだと遠い昔、母から聞いたことがある。

 けれど、母は決して人を恨んではいなかった。

 自分たちが生きるために、小さな者たちを狩るように、ひともまた自分たちを狩るのだからと。

 自分たちも、そしてひとも生きることに一生懸命にすぎないのだからと。

「母さまの身に何かあっても、決してひとを恨んではだめよ?」

 恨みは、新たな不幸しか生み出さない。

 他者を恨んでいては、幸せになれるはずの自分も、そのどす黒い思いの渦に巻き込まれてしまい、不幸になってしまう。

 母が最後に残してくれた言葉も、そんな思いが込められているに違いない。

(でも、でも……やっぱり悲しい)

 ほろほろと涙がこぼれてきた。

「星火」

 突然自分の名を呼ばれ、星火は身体を強張らせる。

 だが、すぐに声の主が誰かに気付き、星火は顔を上げた。

 目の前には己をひとにしてくれた竹林にある庵の主がいた。

雲隠(ユンイン)…さま……」

「――ここは冷えます。いらっしゃい。庵に」

 差し出された雲隠の手に触れると、星火の身体は再びひとの姿になった。

 優しい温かい手――。

 このひとも、4年前に自分を助けてくれたおじいとおばあも、そしてさきほど星火に弓を向けた男も、同じ「ひと」。

 母を殺したのも、星火に果物をくれた里の女も、同じ「ひと」。

 複雑な感情が心にあふれている。

 ただただ心が痛い。

 星火は雲隠に手をひかれたまま、しゃくりあげ、泣き続けた。

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