第1章2
「どういうつもりだ?」
「どういうつもりとは?」
学然はふうと大仰に息をついた。
「おまえ、なんであいつを人間にした?」
学然が何を言いたいのかは、雲隠も充分過ぎるほどわかっている。
「傷つくのはあいつだ」
――わかっている……。
人と獣の間には、越えようと思っても越えられないものがある。
それは月芳を見ればわかるというもの。
人間同士でさえ、他人との間には大きな壁ができてしまうことだってあるのだ。
そう簡単にいくわけはない。
それでも、雲隠はかけてみたいと思った。
あの純粋な心を持った幼子なら、きっと人と通じ合える、と。
「おまえは甘すぎる」
「あなたも充分甘いと思いますけれどね」
あの後、幼いきつね――彼は星火と名乗った――は、なぜ人になりたいのかを、二人に話してくれた。
彼は微力ながらも、妖力を持っていた。それはどうやら母親譲りのものらしかったが、せいぜいできて人の姿を模すくらいのことのようだった。
通常、妖力を持つきつねは長い年月を生きることができる。星火もああ見えて、すでに数十年生きているが、妖力を持つきつねの中ではまだまだ子どもなのだと教えてくれた。
「だから、妖力、とても未熟。ぼく、完全なひとの姿にはなれない。耳と尾が残ってしまう」
彼は頭の耳を両手で押さえる。
「ひとの里に行くことができない」
「ひとの……里?」
「おまえ、まさか人間のところにいきたいのか?」
学然の強い問いかけに、星火は一瞬、びくりと身体をこわばらせた。
「学然……怯えさせてどうするんです……」
「だって、おまえ、よりによって……」
「まずは星火の話を聞くのが先です」
ぴしゃりと言って、学然を黙らせる。
その後、星火は慣れない人間の言葉でぽつりぽつりと語った。
困ったときに助けてくれた親切なひとがいるということ、そのひとたちに恩返しがしたいことを。そのためにはきつねのままではだめなのだ、と。だから、ひとになりたいと。
「本当にいいのですか? もうきつねには戻れませんよ?」
星火はそれでもかまわないと答えた。
学然が小さく隣りで息をつくのがわかった。
彼はきっと、星火が人間になることを快く思っていないのだろう。
それもそうだろう。彼はそれだけ多くのことを、この庵に来てから見ているのだから。
この先、目の前のこぎつねに起こるであろうことを予測して、辛い気持ちになっているに違いない。
だが、雲隠には彼を訪ねてきた者の願いを叶える義務がある。彼のもとに行き着いた、ということは、その者にはそれだけの強い願いがあるということなのだから。
たとえ、その願いの先に悲しみが待っているかもしれないとしても――。
雲隠は再度二つだけと、星火に注意を告げる。
1つ。ひとになったら、もう二度ときつねには戻れないということ。1つ。ひとになっても、きつねの心に強く共鳴してしまったときには、きつねにもどってしまう恐れがあること。
「それでもかまいませんね?」
こくりと星火は深くうなずいた。
彼の決心は固い。だからこそ、雲隠は星火の願いを叶えた。
雲隠は窓から見える青空を見上げる。
あの純粋な幼子の願いが無事叶えられることを祈りながら。