第1章1
「おや……珍しいお客様ですね」
叩かれた戸を開いた雲隠は、そこにいた小さな客人を見て微笑んだ。
くるりとした愛らしい瞳を持つ小さな客人は、人間の少年の姿をしていたが、人とは異なる生き物であることは、一目見て知れた。
なぜならば、彼の頭にはちょこんと人にはないはずの耳が、そしておしりには見事な真白な尾がついていたのである。
「月芳に……」
雲隠の知った者の名を彼が口にした。
「ああ、そうで…」
「んだと! トラかっ!?」
雲隠が最後まで言い終える前に、「月芳」の名に反応した学然が奥から飛んできた。
「あいつは今どこにいるっ!?」
んーと、少年の顔を覗き込む。
少年はぶんぶんと勢いよく首を横に振った。
「ホントか~?」
「――学然」
後ろから学然の首根っこを引っ掴み、ぐいと後ろにさがらせる。
「およしなさい。怯えています」
言われた学然はむ、と黙る。
「あなたの気持ちもわからなくはないですが、もういいかげんに許してやりなさい。作った饅頭を食べられたくらいで、大人気ない」
あきれたように雲隠は息を吐く。
「お前な、あの饅頭はだな、ただの饅頭じゃねえんだ。この年、最初に採れた筍をだなー」
「はいはい」
「おまえはわかっていない!」
雲隠の気のない返事が気に入らなかったようで、学然はだんと壁を叩く。
「あの筍はもう二度と食えねえんだ! 来年生えてきた筍は決して今年の筍と同じじゃねーんだ!」
数日前のこと。この庵を時折訪れる虎の月芳に、学然はつくりたての渾身の饅頭を食べられてしまったのだ。
何をそんなに饅頭に固執しているのかと思っていたら、饅頭に使っていた初物の筍も一緒に食われてしまったためとわかり、雲隠は心の中で苦笑した。
よほど悔しかったのだろう。このようなことでも本気になっている学然のこんなところも、雲隠は好ましく思っている。
だが、このままではいつまでたっても、小さなお客さまの話を聞くことができない。ここはひとつ――
「学然」
優しく彼の名を呼ぶ。
「あなたのつくる饅頭は、初物の筍であろうがなかろうが、十分においしいですよ。――あなたの料理の腕は食材に左右されてしまうようなものでもないでしょう? 特に饅頭に関しては」
最高の微笑を言の葉に添える。
「お、おう……」
照れたように学然はわしわしと髪をかきあげ、それきり黙った。
それを見て、雲隠は小さな客に向き直る。
「すみませんでしたね。では、中にどうぞ。小さなお客さま」
幼いきつねはびっくりしたように上を向き、一瞬とまどいの表情を見せたが、差し出された雲隠の手を取り、中へと入った。
こぎつねは勧められた椅子にちょこんと座った。そして、ものめずらしそうに、部屋の中をきょろきょろ見回している。
「それで、どうしたのですか?」
雲隠の問いかけに、一寸、彼は目を伏せたが、すぐに顔を上げて雲隠の瞳をじっと見た。
「あなた、願いを叶えてくれるってほんとう?」
ああ、と雲隠はここですべてを悟る。
彼が、わざわざ人の姿を模して雲隠のもとを訪れた理由を。
雲隠はいわゆる仙人である。人がめったにこないようなこの地で暮らし、ときおりやってくる人々の相手をしている。
雲隠のもとを訪れる人間たちはみな、共通して強い願いを持っている。その願いを叶えてもらうためにやってくるのだ。
そうして、雲隠は彼らの願いを叶えることと引き換えに、必ず1つの条件を提示する。
「あなたの大切なものをいただけますか?」
「大切な…もの?」
「ええ、そうです。あなたが大切にしているものをいただけますか? それと引き換えに私はあなたの願いを叶えましょう」
こぎつねは困ったように小首をかしげる。
「あなたにあげられるもの……」
立ち上がって、袖をひらひらさせながらぽんぽんと何度か飛び跳ねる。すると、ころころと何かがいくつか床に落ちてきた。
彼はそれを拾い上げると、卓の上に置いた。
それは木の実やきれいな色をした石だった。きっと森や河原で見つけたものなのだろう。
「これしかない……」
しょんぼりとうなだれた彼を見て、雲隠は微笑む。
「それはあなたの宝物でしょう? 大切にしまっておきなさい」
雲隠の言葉を聞いて、今にも泣き出しそうな顔になる。
「願い、叶えてくれないの? やっぱりだめ?」
「いいえ」
願いは叶えますよ、と雲隠は立ち上がるとこぎつねの横に行く。そうして、跪くと目線の高さを同じにして告げた。
「あなたのその妖力と引き換えに――」