私が貴方を諦めた日に、人として最低な貴方は私を好きになったらしい
ミレーユ・オルタンシアは、八年間ずっと婚約者のことが好きだった。十一歳で婚約してから十八歳になった今まで、ルシアン・ヴァルモンと会える日は楽しみだったし、夜会へ二人で出席すれば彼と踊れる時間を心待ちにしていた。政略によって結ばれた婚約であっても、いつか夫婦になる頃には、彼も自分と同じくらい好きになってくれるのではないか。そんな期待を抱きながら過ごしてきた八年間は、ミレーユにとって決して短いものではなかった。
けれど、ルシアンの隣にはいつもコレット・ベルニエがいた。ヴァルモン侯爵家と家族ぐるみの付き合いがある男爵令嬢で、ルシアンとは幼い頃から兄妹のように育っている。彼自身もコレットを妹のような存在だと話しており、二人の間に恋愛感情があるとはミレーユも思っていなかった。
だからこそ、長い間どう受け止めればいいのか分からなかった。ルシアンはコレットが困っていると知れば放っておけず、ミレーユとの予定があっても彼女のもとへ向かってしまう。約束していた観劇の日にコレットから相談したいと連絡が届けば予定は翌週へ変わり、夜会で彼女が一人になればミレーユを残して様子を見に行った。あとで埋め合わせをしてくれるため、一つの出来事だけを取り上げて責めるのも難しかった。
「来週の観劇なんだけど、別の日にしてもらえないかな。コレットが相談したいことがあるらしい」
「……また、コレット様ですか?」
「悪いと思っているよ。次の週なら必ず時間を空けるから」
申し訳なさそうに頼まれると、最後にはミレーユが折れた。実際、ルシアンは翌週になれば約束通り迎えに来てくれるし、観劇へ行けば普段と変わらず優しい。嫌われているわけではないと思えるからこそ、あと少し待てば何かが変わるかもしれないという期待を捨てられなかった。
同じことを繰り返しているうちに、ミレーユが譲ることは二人の間で珍しい出来事ではなくなっていった。ルシアンが予定の変更を頼み、ミレーユが受け入れ、後日になれば埋め合わせをする。最初の頃には何度も謝っていたルシアンも、いつしか「ミレーユなら分かってくれる」と口にするようになっていた。
その言葉を聞くたび、ミレーユは複雑な気持ちになった。信頼されているのだと思えば嬉しかったのに、彼から信頼されればされるほど、自分との約束が後回しにされているようにも感じる。それでも婚約者なのだから理解してあげたいという思いが勝り、不満を飲み込んでは笑顔を作ってきた。
そんな関係が大きく崩れたのは、王家主催の夜会が開かれた日のことだった。王族も出席する大規模な催しで、婚約している男女であれば揃って参加する者が多い。ミレーユもひと月以上前からルシアンと参加する約束をしており、当日に着るドレスまで彼を意識して選んでいた。
灰青色を基調としたドレスは、以前ルシアンから似合うと言われた色だった。髪には彼から誕生日に贈られた髪飾りを挿し、鏡の前で最後の確認を終えた頃には、迎えの時間が近づいていた。今夜は久しぶりにゆっくり話せるだろうかと考えていたところへ、予定より早くルシアンが屋敷を訪れた。
迎えに来てくれたのだと思いながら居間へ向かったミレーユは、彼の姿を見て足を止めた。ルシアンはまだ夜会へ向かう装いを整えておらず、ミレーユの顔を見るなり困ったように眉を下げた。その表情には見覚えがあり、何を言われるのか聞く前から胸の奥に嫌な予感が広がっていった。
「どうかなさったのですか?」
ルシアンはすぐに用件を口にせず、ミレーユのドレスへ一度視線を向けた。そのまま少し迷った末に、コレットの父親が急な用事で領地へ戻らなくてはならなくなり、今夜の同行者がいなくなったのだと説明した。
「それで、今夜だけ俺がコレットをエスコートしてもいいだろうか」
やはり、と思った。驚きより先に納得してしまった自分がおかしくて、ミレーユはしばらく返事ができなかった。今夜のために仕立てたドレスも、髪に挿した彼からの贈り物も、朝から楽しみにしていた時間も、ルシアンの中ではコレットが困っているという理由一つで後へ回せるものらしい。
「では、私はどうすればよろしいのですか?」
これまで一度も尋ねなかったことを、初めて尋ねた。いつものミレーユなら困っているのだから仕方がないと受け入れていたため、ルシアンも予想していなかったらしく、わずかに目を見開いている。
「君なら一人でも大丈夫だろう?」
ルシアンは悪意のない顔で答えた。
その言葉を聞いた瞬間、ミレーユの中で長い間引っかかっていたものが、ようやく形を持った。自分は一人でも大丈夫だから待たせていい。自分は理解してくれるから約束を変えていい。自分は彼を好きだから、何度後回しにしても離れていかない。ミレーユが八年間かけて伝えてきた愛情は、いつの間にか彼女を優先しなくてもいい理由として使われるようになっていた。
「分かりました」
短く答えると、ルシアンは安堵したように表情を緩めた。
「ありがとう。埋め合わせは必ずする」
何度目になるのだろう。数えようとして、ミレーユはやめた。これまでの自分なら、その言葉を信じて次の約束を楽しみにしていただろう。今日も同じように笑って見送るつもりだったのに、なぜか笑顔を作ろうという気持ちが湧いてこなかった。
ルシアンが帰ったあと、ミレーユは自室の鏡の前へ戻った。灰青色のドレスを着た自分の髪には、彼から贈られた髪飾りがある。朝には嬉しかったはずのそれを眺めていると、今夜まで彼の好みに合わせようとしていた自分が急に遠い存在のように感じられた。
髪飾りを外し、化粧台の上へ置いた。代わりに選んだのは、母から贈られた真珠の髪飾りだった。ドレスまで着替える必要はないと思い、そのまま一人で夜会へ向かう準備を整える。鏡の中からルシアンの贈り物が消えた自分の姿を見ても、寂しさは思ったほど湧いてこなかった。
夜会へ一人で姿を見せれば、当然ながら知人たちから不思議そうな視線を向けられた。ルシアンと一緒に参加すると話していた友人もいるため、婚約者はどうしたのかと尋ねられることもあった。ミレーユは予定が変わったのだと答えるだけに留め、以前のように彼にも事情があるのだからと積極的に庇おうとは思わなかった。
しばらくすると、会場の入口付近がわずかに騒がしくなった。何が起きたのか確かめるより早く、周囲の視線が同じ方向へ集まっていく。その先にいる人物が誰なのか、ミレーユにはすぐに分かった。
ルシアンがコレットを伴って会場へ入ってきた。淡い桃色のドレスをまとったコレットは、嬉しそうにルシアンの腕へ手を添えている。二人が並んで歩く姿だけを見れば、今夜初めて会った者なら彼らが婚約者同士だと思っても不思議ではない。その少し離れた場所に、本来ルシアンがエスコートするはずだったミレーユが一人で立っていた。
「ヴァルモン様の婚約者は、オルタンシア伯爵令嬢ではなかったかしら」
「私もそう聞いていたけれど……どういうことなのかしらね」
近くにいた令嬢たちの声が耳へ入った。ミレーユは手にしていたグラスへ口をつけながら、聞こえなかったふりをする。以前なら恥ずかしさと悲しさで逃げ出したくなっただろうに、今夜は胸の奥が妙に静かだった。
やがてコレットがミレーユを見つけ、ルシアンと一緒に近づいてきた。自分のせいでミレーユが一人になったことを申し訳なく思っている様子は薄く、むしろ今夜ルシアンと一緒に来られたことが嬉しいらしい。
「ミレーユ、今日はごめんなさい。お父様が急に帰ってしまって、一人で行かなければならないと思っていたの。そうしたらルシアンが、私を一人で行かせるわけにはいかないって」
コレットは笑っていた。その表情を見つめながら、ミレーユは今まで考えないようにしていた疑問へ初めて向き合った。コレットは本当に、自分が何をしているのか分かっていなかったのだろうか。
頼めばルシアンは来てくれる。ミレーユとの約束があっても、自分が困っていると言えば予定を変えてくれる。それを何年も繰り返しながら、何も気づいていなかったと考えるほうが難しい。
「そう。よかったわね」
返ってきた言葉が予想と違ったのか、コレットの笑顔が少し固まった。ルシアンもミレーユの顔を見つめ、普段とは違う反応に戸惑っているらしい。
「怒っているのか?」
「いいえ。せっかくの夜会ですもの。お二人とも楽しんでください」
二人から離れたあと、ミレーユは一人の青年からダンスを申し込まれた。これまでもルシアン以外から誘われる機会はあったものの、婚約者と参加している以上は必要な場合を除いて断ることが多かった。今夜は当の婚約者が別の女性を伴っているのだから、自分だけ遠慮する理由もない。
差し出された手を取り、広間の中央へ進んだ。相手の青年は話題が豊富で、ミレーユが最近読んだ本について話せば、続きを促しながら楽しそうに聞いてくれる。曲が終わる頃には自然と笑みがこぼれ、久しぶりに夜会そのものを楽しんでいる自分に気づいた。
離れた場所から、その姿をルシアンが見ていた。いつもなら夜会の最中、ミレーユの視線を感じることが何度もあった。コレットと話していても、誰かに呼び止められていても、振り返れば彼女と目が合う。それが当たり前になりすぎて、ルシアン自身は意識したことさえなかった。
今夜は一度も目が合わなかった。ルシアンのほうがミレーユを探していた。見つけるたびに別の誰かと話しており、やがて知らない青年の手を取って踊り始める。曲が終われば彼女は楽しそうに笑い、その笑顔を向けられた青年も嬉しそうにしている。
胸の奥に不快感が広がった。理由を考えるより早く、次の男性がミレーユへ声をかける姿を見て足を踏み出しかける。そこで隣にコレットがいることを思い出し、ルシアンは動きを止めた。
ミレーユは自分の婚約者なのだから、ほかの男に奪われることなどない。そう考えた直後、自分がそんな確信を持っていることにルシアン自身が驚いた。彼女はいつも自分を好きでいてくれた。何度予定を変えても最後には許し、次に会えば笑って迎えてくれた。その関係がいつまでも続くのだと、いつの間にか決めつけていた。
もし、ミレーユが自分を好きではなくなったら。初めて浮かんだ考えが、夜会を終えて屋敷へ戻ったあとも頭から離れなかった。別の男と踊る彼女を思い出すたびに胸が落ち着かず、誰かの隣で自分に向けていた笑顔を見せる未来を想像すると、眠る気にもなれなかった。
同じ頃、ミレーユは自室の机から一つの箱を取り出していた。引き出しにはルシアンから届いた手紙やカードが大切にしまわれており、旅行先から送られてきた短い便りまで残してある。以前はときどき読み返し、書かれている言葉の中から自分への愛情を探していた。
一枚ずつ取り出し、箱へ収めていく。捨てようとは思わなかった。八年間ルシアンを好きだった自分まで否定したいわけではなく、楽しかった時間まで嫌な思い出に変える必要もない。それでも、これから先も読み返しながら彼の気持ちを探し続ける生活は終わりにしたかった。
最後の手紙を収めて蓋を閉じたところで、ミレーユはようやく自分の気持ちを認めた。明日の朝、両親へ婚約を解消したいと伝えよう。ルシアンがいつか振り向いてくれる日を待つのは、今日で終わりにすると決めたのだった。
同じ夜、ルシアンは自室の窓辺に立ちながら、ミレーユの笑顔を思い出していた。彼女を誰かに奪われたくない。自分以外の男を好きになってほしくない。そこまで考えて初めて、長い間自分のすぐ隣にあった感情が分かった気がした。
翌朝、ミレーユは両親のいる居間へ向かった。夜会で何があったのかはすでに耳へ入っていたらしく、父も母も娘が一人で訪ねてきた理由をある程度察しているようだった。ミレーユは二人の前へ腰を下ろし、迷いが戻ってくる前に口を開いた。
「ルシアン様との婚約を、解消したいと思っています」
母は驚いたように息を呑んだが、父はすぐには答えなかった。長い沈黙のあと、本当にそれでいいのかと確認され、ミレーユは頷いた。昨夜だけの感情で決めたのではない。何年も積み重なってきたものに、ようやく自分で終わりを決めただけなのだと説明した。
父は娘の話を最後まで聞いたうえで、ヴァルモン侯爵家との話し合いを始めると約束してくれた。八年間続いた婚約を終えるには家同士の手続きも必要になるため、今日伝えて明日から他人というわけにはいかない。それでも父が味方になってくれたことで、ミレーユの胸に残っていた不安はかなり小さくなった。
その日の午後、ルシアンから会いたいという連絡が届いた。
ミレーユにとっても都合がよかった。両家の話し合いが始まる前に、自分の口から婚約を終わらせたいと伝えておきたい。屋敷の庭園で会うことを了承すると、約束した時刻より少し早くルシアンが姿を見せた。
昨日までなら、彼が来る前には鏡を何度も確認していた。今日は普段着ている淡い緑色のドレスを選び、髪飾りも自分が気に入っているものを使った。庭園へ出ると、ルシアンはミレーユを見た途端に何か言いたそうな顔をした。
「話したいことがあるんだ」
「私も、お話があります」
どちらから話すべきか迷った時間は短かった。ルシアンは昨夜から何度も考えてきた言葉を伝えようとし、ミレーユもここで迷えば八年間と同じことを繰り返すと思って口を開いた。
「俺と、本当の意味で恋人になってほしい」
「もう、婚約を終わりにしましょう」
二人の声が重なった。
ルシアンの表情から、先ほどまであった緊張が消えた。何を言われたのか理解できていないようにミレーユを見つめ、やがて唇を動かす。
「……終わり?」
「はい。今朝、父と母にも話しました。両家で正式に婚約解消の話を進めてもらうつもりです」
ルシアンの顔色が変わった。
「待ってくれ。俺は今、君に……」
「聞こえていました」
聞き間違えたわけではない。八年間、何度も夢見た言葉だった。いつかルシアンから自分を好きだと言われたいと思い、その日を待ちながら彼の婚約者であり続けた。
それなのに、実際にその言葉を聞いても胸は高鳴らなかった。
「昨日までの私なら、きっと泣いて喜んでいたと思います」
ルシアンが言葉を失った。
ミレーユは責めるような口調にならないよう気をつけながら、今まで伝えられなかったことを話した。約束が変わるたびに寂しかったこと。コレットの隣に立つ彼を見るたび、自分のほうが婚約者なのだと心の中で何度も言い聞かせていたこと。それでも彼が好きだったから、いつか変わると信じて待っていたこと。
「昨日、あなたから一人でも大丈夫だと言われて、ようやく分かったんです。私はあなたにとって、待たせても大丈夫な人だったのでしょう?」
「そんなつもりじゃない」
「分かっています。だから、疲れてしまったんです」
ルシアンが悪意を持って自分を傷つけていたのなら、もっと早く嫌いになれたかもしれない。彼は毎回、本当にコレットを助けようとしていただけなのだろう。ミレーユなら理解してくれると信じ、その信頼に甘えていただけだった。
「コレットとは何もない。俺が好きなのは君だ。昨夜、やっと分かったんだ」
「ええ」
「だったら、もう一度だけ機会をくれないか。今度は――」
「ルシアン様」
名前を呼ぶと、彼は続きを止めた。
「あなたが私を好きになったからといって、私がもう一度あなたを好きにならなければならない理由にはなりません」
ルシアンは何も返せなかった。
ミレーユも胸が痛まないわけではない。八年間好きだった相手が、自分を好きだと言ってくれている。あと一日早ければ違っていたのだろうかと考えれば、答えは分からなかった。それでも今ここで頷けば、また彼を待ち続けた八年間へ戻ってしまうような気がした。
両家の話し合いは、その数日後に始まった。ヴァルモン侯爵夫妻は王宮の夜会で息子が何をしたのか知ると、ミレーユへ直接謝罪した。ルシアンは最後まで婚約解消を望まなかったが、ミレーユの意思が変わらない以上、侯爵家として強引に婚約を維持することもできなかった。
婚約解消の書類へ署名する日、ルシアンはしばらくペンを持ったまま動かなかった。向かい側に座るミレーユの名前を見つめ、最後にはゆっくり自分の名を書き入れた。八年間二人を結んでいた婚約は、紙の上に記された署名によって終わりを迎えた。
話はすぐに社交界へ広がった。王家主催の夜会で婚約者を一人にし、別の令嬢をエスコートしていた姿を多くの者が目撃している。事情を知らなかった者にも婚約解消の理由は容易に想像でき、ルシアンへ向けられる視線は以前より厳しくなった。
コレットにも影響は及んだ。婚約者のいる男性へ何度も頼り、夜会にまでエスコートさせていたことが改めて話題になり、彼女と親しくしていた令嬢たちの中にも距離を置く者が現れた。それでも当のコレットは、別の未来を期待していた。
婚約解消から間もなく、コレットはルシアンを訪ねた。
「これでもう、私たちが一緒にいても誰にも文句を言われないわね」
その言葉を聞いたルシアンは、しばらく意味を理解できなかった。コレットは当然のように笑いながら、これまで二人の間にミレーユがいたから遠慮していたのだと話し始めた。
「昔から、私が困っていると必ず来てくれたでしょう?ミレーユとの約束がある日だって、私を選んでくれたもの。だから私、ずっと――」
「待ってくれ」
ルシアンが遮ると、コレットは不思議そうに首を傾げた。
「俺は君をそういう意味で見たことはない。俺が好きなのはミレーユだ」
コレットの笑顔が消えた。
「だったら、どうしていつも私を選んだの?」
答えが出てこなかった。
コレットが相談したいと言えば会いに行った。困っていると言われれば助けた。ミレーユとの予定があっても、彼女なら分かってくれると思って変更した。その一つ一つについて、そのときのルシアンには理由があった。
けれど、それを何年も繰り返した結果が今だった。
「私は、ルシアンにとって特別だから選ばれているんだと思っていたわ。ミレーユより私を優先してくれているって、ずっと思っていたのよ」
コレットの言葉を否定したくても、ルシアンには否定できる材料がなかった。自分の行動だけを並べれば、彼女がそう思ったとしても不思議ではない。
「……すまない。勘違いさせたのは俺だ。それでも、君の気持ちには応えられない」
コレットは何か言おうとして口を開いたが、結局何も言わずに立ち上がった。帰り際まで振り返ることはなく、扉が閉じたあと、ルシアンは一人になった部屋で長い時間動けなかった。
好きでもなかった女性を何度も優先して、好きだった女性を失った。
そのことを理解したところで、ミレーユとの婚約は戻らない。
コレットとの付き合いも、それまでと同じではいられなくなった。ルシアンは必要以上に二人で会わないよう距離を取り、コレットも以前のように気軽に侯爵家へ訪れることがなくなった。社交界で広がった評判もすぐには消えず、彼女へ持ち込まれていた縁談のいくつかは相手方から見送られた。
季節が一つ移る頃には、ミレーユの生活も大きく変わっていた。以前は休日があればルシアンの予定を確認し、いつ誘われてもいいよう時間を空けていたが、今では友人と観劇へ行き、母と買い物を楽しみ、父から領地経営について教わる時間も増えている。
最初の頃は、何か予定を決めるたびにルシアンの都合を考えそうになった。長年続けてきた習慣は簡単には消えなかったものの、そのたびに自分の予定なのだから自分で決めていいのだと思い直した。
婚約を解消した伯爵令嬢へ新しい縁談が来るのかと心配する声もあったが、実際には逆だった。ミレーユ本人に問題があって婚約を破棄されたわけではないことは広く知られており、以前から彼女を好ましく思っていた家から、いくつか話が届くようになった。
その中に、夜会で初めてダンスを踊った青年もいた。エドモン・ラヴェルという伯爵家の次男で、あの日以来、夜会で顔を合わせれば挨拶を交わす程度の付き合いが続いていた。すぐに結婚を求めてくるわけでもなく、ミレーユが本について話せば最後まで聞き、自分の好きなものについても楽しそうに話してくれる。
ミレーユはまだ誰かを好きになったとは思っていなかった。それでも、次に誰かと婚約するときには家柄だけではなく、自分の気持ちも確かめてから決めたいと思うようになっていた。
冬を迎える少し前、ミレーユはある夜会で久しぶりにルシアンと顔を合わせた。
以前なら、同じ会場にいると知った瞬間から彼の姿を探していただろう。今夜は友人と話している途中で偶然見つけただけだった。少し離れた場所に立つルシアンもこちらに気づき、二人の視線が久しぶりに重なった。
少しして、エドモンがミレーユのもとへやって来た。
「もしよろしければ、次の曲をお願いできますか?」
差し出された手を見て、ミレーユは一瞬だけ考えた。視界の端にはまだルシアンがいる。それでも彼がどう思うかを考えて答えを変える必要は、もうどこにもなかった。
「ええ、喜んで」
エドモンの手を取って広間へ向かう。
曲が始まり、ミレーユは彼と踊った。エドモンが最近読んだ本について話し始めると、以前自分が勧めたものだと気づいて思わず笑ってしまう。彼も笑い返し、二人は次に読む本の話をしながら踊り続けた。
ルシアンは離れた場所から、その姿を見送っていたがミレーユは振り返らなかった。
いつか自分と同じ気持ちになってくれる日を待ち続けて、ようやく待つことをやめた日に、その願いは叶ってしまった。
あと少し早ければと考えたこともある。
けれど今のミレーユは、あの日へ戻りたいとは思わなかった。




