婚約破棄されたので、しっかりと断罪いたします。
「カトリーナ・エインズワース。貴女との婚約を、この場で破棄する!」
王国北部の開拓都市『ノイ・アストリア』の完成記念パーティ。シャンデリアの光が降り注ぐ大ホールで、ヴィルフリート王太子の声が傲慢に響き渡った。彼の傍らでは、保護欲をそそるような儚い表情をした令嬢、ヒナが寄り添っている。
「君は、今まで僕に利用されてきたんだ。まったく可愛げのない君のような女と、僕が結婚などするわけがない。これからは、美しく由緒正しい公爵家の生まれであるヒナが王太子妃となる。僕はね、真実の愛を大切にしたいんだ」
会場の貴族たちは、一様に息を呑んだ。しかし、それは驚きというよりも、王太子のあまりの愚かさに対する戦慄に近かった。
この『ノイ・アストリア』は、数年前までは誰も寄り付かない荒野だった。それを、王国随一の商家の娘であるカトリーナが、自らの才覚と莫大な私財、そして緻密な論理的計画によって、今や王国の税収の三割を担う巨大経済圏へと変貌させたのだ。
カトリーナは、手にしていたシャンパングラスを給仕に預けると、感情の読み取れない冷徹な瞳でヴィルフリートを見つめた。
「左様でございますか。殿下、そのご決断は『個人的な感情』によるものですか? それとも、国家の『長期的利益』を考慮した上での公式な通告でしょうか」
「黙れ! 常に損得勘定でしか物事を語れぬその口ぶりが、不快だと言っているのだ。君が積み上げてきたこの都市の運営権、および開発利権は、すべて本日をもって王家が接収する。不服があるなら、法廷で争うがいい。……もっとも、法とは我ら王家の意思そのものだがな!」
ヴィルフリートとヒナが勝ち誇ったように笑う。
しかし、カトリーナは溜息一つつかなかった。ただ、ドレスのポケットから精巧な作りの懐中時計を取り出しただけだった。
「承知いたしました。では、本日の午後八時三十二分をもって、私と王家との『全ての協力関係』および『契約』は終了したと見なします。……殿下、一つだけ。ビジネスにおいて最も恐ろしいのは、敵意ではなく『無知』であることを、どうか覚えておいてくださいませ」
カトリーナは優雅に一礼すると、騒然とする会場を背に、迷いのない足取りで去っていった。
* * *
「殿下! 大変です! 都市全域の魔導通信網が停止しました!」
異変が起きたのは、パーティの三日後のことであった。寝台でヒナと甘い時間を過ごしていたヴィルフリートのもとに、真っ青な顔をした補佐官が飛び込んできた。
「なんだと? 保守魔導師は何をしている」
「それが……通信機の中核パーツである『増幅水晶』が、一斉に焼き切れました。すぐに予備と交換しようとしましたが、倉庫にある全ての予備パーツが、今朝未明にカトリーナ嬢の商会によって『私有財産の引き揚げ』として回収されています!」
「馬鹿な……代わりのものを他から買えば済む話だろうっ!」
「それが不可能なのです! あの通信網はカトリーナ嬢が独自に開発した『アストリア規格』に基づいて設計されており、他国の汎用品とは魔導回路の接合部の形状が三ミリほど異なります。無理に接続すれば爆発します。……つまり、彼女の商会から部品を買わなければ、この国の通信は永久に復旧しません!」
ヴィルフリートが愕然とする間もなく、さらなる報告が舞い込む。
「報告します! 王都とノイ・アストリアを結ぶ唯一の幹線道路、その途中にある『ヴァイス大橋』の手前で、カトリーナ嬢の代理人が道路を封鎖しました!」
「不敬罪で捕らえろ! あそこは公道だぞ!」
「いいえ、殿下……。昨年の予算不足の際、道路の維持管理費を捻出するため、殿下ご自身が『道路周辺の土地および路面の所有権』をカトリーナ嬢に売却する書類にサインされました。あそこは現在、法的に完全な『私有地』です。彼女は現在『大規模な地盤調査』を名目に、無期限の通行止めを宣言しています!」
ヴィルフリートは、膝から崩れ落ちた。
* * *
「……なぜだ。なぜ、誰も動かぬ! 僕はこの国の王太子だぞ!」
ノイ・アストリアの中央広場、かつてカトリーナが設計し、王国随一の美観を誇ったその場所で、ヴィルフリートの声が虚しく響き渡った。
目の前には、動かなくなった巨大な魔導噴水が、ただの無機質な石の塊として鎮座している。カトリーナが去ってからわずか数日。都市の心臓部であった魔導回路は、彼女が仕掛けた『保守契約の終了』によって、その鼓動を止めていた。
「殿下、もう限界です……」
側近の騎士が、煤汚れた顔で告げた。その甲冑はかつての輝きを失い、継ぎ目の潤滑剤が切れて不快な摩擦音を立てている。
「ヴァイス大橋の封鎖は強固です。カトリーナ嬢が雇った私兵どもは、一歩でも私有地に足を踏み入れれば『不法侵入および略奪行為』として国際商業ギルドに提訴すると。彼らは王国軍の力ではなく、法と賠償金という盾で我らを阻んでいるのです。食糧の備蓄は底を突きました」
「黙れ! 食糧倉庫から奪えばいいだろう! 王命をもって接収しろ!」
「それができぬから苦労しているのです! 倉庫の鍵すら、彼女の商会が持つ独自の魔導錠で閉ざされており、無理に破壊すれば中身の保存魔法が暴走して食料が灰になる仕組みです。彼女は……彼女は最初から、我々がこう動くことを見越して、全ての入り口と出口を塞いでいたのです!」
ヴィルフリートは、縋るように隣に立つヒナを見た。かつては、その儚げな瞳に見つめられるだけで胸が高鳴り、愛しさが芽生えた。だが今、空腹と苛立ちの中で見る彼女は、ただの無力で使い道のない重荷にしか見えなかった。
「ヴィ、ヴィルフリート様……お腹が空きましたわ。この数日間何も口にしておりませんわ……。早くカトリーナ様に謝って、ぜんぶ元通りにしてくださいませ」
ヒナのあまりにも無責任な言葉が、ヴィルフリートの神経を逆なでする。
「……黙れ。謝れだと? 僕に、あの女の足元に跪けと言うのか!」
彼は咆哮したが、その直後、胃を掴まれるような激しい空腹感に襲われ、無様に前屈みになった。
カトリーナはヴィルフリートを剣で傷つけたわけではない。ただ、彼が享受していたもの全てを、整然と冷徹に剥ぎ取っていっただけだ。
「殿下、王都より緊急の伝令です」
差し出された書状を奪い取るように開き、ヴィルフリートの瞳は絶望に染まった。
そこには、国王の怒りに満ちた震える筆跡で、彼を廃嫡し、王族の籍から除籍する旨が記されていた。理由は『国家経済を破綻せしめ、王家の権威を著しく失墜させた罪』。
「そんな……僕はただ、真実の愛を……。カトリーナは、あんなに僕を支えてくれていたではないか! なぜ、……ここまで、ここまで僕を徹底的に叩き潰す必要があるのだ!」
ヴィルフリートは血を吐くような思いで叫んだが、その問いに答える者はいなかった。
「ああ……あああああ!」
広場の中心で、元王太子は地に伏し、冷たい石畳を叩いて泣き叫んだ。
その慟哭は、静まり返った都市に空虚に響き、そして誰に届くこともなく、凍てつく夜風の中に消えていった。
* * *
世界一の経済規模を誇るバルト帝国の港町。
カトリーナは海を見下ろすテラスで、優雅にアフタヌーンティーを楽しんでいた。彼女の前には、帝国の若き天才投資家ノイマン公爵が座っている。
「カトリーナ。今月の流通統計が出たよ。君が再編した『旧アストリア規格』が、ついに大陸全土の共通規格として承認された。これからは、どの国で魔導具を作ろうとも、君に特許料が入る仕組みだ」
ノイマンが、ワインを注いだグラスを彼女に差し出した。カトリーナは、洗練された動作でそれを受け取る。
「当然の結果です。互換性のない技術は、どんなに優れていても淘汰される運命にありますから」
ノイマンは、感嘆のため息をつきながら彼女の隣に並んだ。
「君を味方にできたことが、私の人生最大の投資成功だよ。……ところで、例の下請け牧場——君の故郷だった王国の様子はどうだい?」
カトリーナは、窓の外を流れる雲を眺めながら、微塵の感慨も抱かずに答えた。
「もはや国としての機能は失われつつありますわね。現在、あの国の主要な道路、港湾、そして農地の七割は、私の投資ファンドが担保権を行使して差し押さえています。住民たちは、王家に税を払うのではなく、私の商会に施設利用料を払って生活している。実質的に、あそこは私の私有地です」
彼女の言葉は冷酷な事実だった。感情的な復讐など、彼女はしていない。ただ、貸したものを返してもらい、支払われない対価の代わりに資産を回収した。その論理的帰結が、一国の私物化という結果を招いたのだ。
「元王太子はどうしているのかな?」
「……さあ? 興味もございませんが、報告によれば、私が買い取った旧・王立農場の一作業員として、細々と食い繋いでいるようですわ。……ああ、そういえば」
カトリーナは、思い出したように僅かに口角を上げた。
「彼は毎日、現場の監督官に『自分は元王太子だ』と訴えては、周囲の失笑を買っているそうです。彼が耕しているその土地も、握っている鍬も、飲んでいる泥水ですら、すべて私の所有物であるというのに。……いつまでも現実を見ようとしない方は、ずっと夢の中で生きていくのでしょうね」
* * *
同時刻、かつての王国の辺境。
吹き荒れる乾いた風の中に、泥にまみれ、腰を曲げて地を這う一人の男がいた。
ヴィルフリートだった。
輝いていた金髪は砂埃で灰色に汚れ、指先は荒仕事を繰り返したせいでひび割れている。彼が手にしているのは、刃の欠けた古い鍬だ。
「……ふう、ふう……。くそ、なぜ、こんな……」
彼がどれほど懸命に働いても、その対価として得られるのは、その日の粗末なパンとスープ一皿分にも満たない数枚の銅貨だけだった。
その銅貨には、皮肉なことにカトリーナが支援するバルト帝国の刻印が押されている。彼が生きるために働くごとに、かつて捨てた女の資産を潤す。その無限のサイクルから、ヴィルフリートは死ぬまで逃げられない。
「おい、そこの作業員! 手を休めるな。お前のノルマはまだ終わっていないぞ!」
監督官の怒声が飛ぶ。ヴィルフリートは反射的に身体を強張らせ、震える声で言い返した。
「……黙れ! 私はヴィルフリート・フォン・ハイゼンだ! この国の次期国王になるはずだった男だぞ!」
周囲の作業員たちが、クスクスと笑い声を上げる。
「また始まったよ、元王太子の戯言が」
「王太子だろうが何だろうが、カトリーナ様に土地を奪われた負け犬には変わりねえよ。さっさと働け、今日の賃金がもらえなくなるぞ」
ヴィルフリートは、震える手で鍬を握りしめた。
彼に残されたのは、消えることのない空腹感と、冬の夜の凍えるような孤独、そして『もしもあの時』という終わりのない悔恨だけだ。
地平線の彼方、沈みゆく夕日が王国の荒れ果てた大地を赤く染める。
かつての王太子の背中には、もはや王族の威厳など欠片もない。ただそこには、システムの歯車の一部として消費されていく、哀れな消耗品の姿があった。
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