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第五話 しっぽを奪ったのは誰?

 本を返してから一週間が経った。

 あれから俺の身には何も起こっていない。


 黒い影も。臭いも。異変も。何も起こらなかった。

 むしろ何もなさ過ぎて、不安を覚えたほどだ。

 だけど、時間も経てば不安も薄れ確信に変わる。もう、安全だと。そう思えた。


 平穏な生活。いつもの日常が戻ってきた。


 これがこんなにありがたいものだとは、一週間前までは信じられなかったものだ。


 まぁ……ただ、少しだけ。ほんの少しだけ、完全に元通りというわけでもないけど。

 前より焦げた臭いに敏感になったり。黒い影に過剰に反応してしまう――とか。


 それでも一週間前に比べれば平穏そのものと言える。


 それに、俺は都市伝説を経験した男だ。

 客の理不尽な怒りにも心動かされることなく、今ではそよ風のように受け流せる。

 目の前で怒鳴るおっさんも、心霊現象に襲われたら情けなく泣き叫ぶんだろうな、なんて考えれば逆に憐れみさえ抱けたものだ。


 さらに。今回俺はこの体験談をネットの海へと流した。

 予想通りあっという間に話題沸騰! ――なんてことはなく。一瞬、話題にはなっただけ。

 証拠も何もなかったので、最終的には嘘だと断定され涙を飲んだものだ。


 あっという間に俺という『ホットな話題』は忘れ去られる。

 怖いのは幽霊より、人間の飽きる速さかもしれない。


「はぁーあ。せっかくなら写真の一つでも撮っとけばよかったな。もしくは動画とか? そうすれば今頃もっと話題の中心に居れたかもしんねぇのに。勿体ねぇー」


 大きくため息を吐きながら自転車を駐輪場へ止める。

 コンビニ弁当片手に鍵を回し、玄関扉を押し開けた。


 パサリ――。

 嫌な、音がした。


「……嘘、だろ?」


 信じたくない光景が飛び込んでくる。金縛りにあったかのように、全身が凍り付いた。

 視線は一点だけに注がれ、口からは短い呼吸が繰り返される。

 足はガクガクと震え、今にも腰を抜かしそうだ。


 信じられない。信じたくない。一週間前の恐怖がありありと蘇ってくる。


 玄関のたたき。俺の視線の先に落ちている。あの――白封筒が。


 一瞬逃げ出そうと踵を返したが、すぐに思いとどまる。

 逃げてもアイツは追ってくる。逃げ場なんてどこにもないと思い知らされていた。


 覚悟を決めた俺は白封筒と対峙する。


 大丈夫だ。もう俺には何も後ろ暗いこともない。責められるものもない。自室にも、実家にも。借りたままの未返却本なんてなかった。ちゃんと確認した。


 だから、大丈夫。大丈夫……そう、大丈夫だ。

 ビビるな、高梨悠真(たかなしゆうま)! ビビったら負けだ!


 自分に言い聞かせる。そうしないと今にも泣きわめいてしまいそうで怖かったから。


 唇を噛み、白封筒の前に立つ。

 懐かしいというにはまだ日も浅い、真紅の封蝋。その紋様が目のように見え肝が冷える。

 封筒の周りにはパラパラと灰が舞っていた。


 恐る恐る拾い上げ、中身を取り出す。


 少しずつ姿を見せる便箋から覗く文字。

 それは以前とは違い、血のように赤かった。

 ぬるりとした質感。少し垂れたようなインクが文字を綴る。


 たった、一言。


『しっぽを奪ったのは誰?』


 そう、書いてあった。


 もちろん白崎図書館と司書白崎の署名とともに。


「……んだ、これ?」


 前回と違う文言に全身が凍る。全身の穴という穴から冷や汗が吹き出した感覚だ。

 頭の中は真っ白になり何も考えられない。


 アイツは俺に何を尋ねたいのか。理解が追いつかなかった。


 それでも必死に思考を回転させる。尻尾とはなんだ。奪うとはなんだ。

 前回のことも記憶の淵から引っ張り上げ思い出していく。


「……あっ」


 そして思い出した。俺が返却した絵本のタイトルを。


『きつねのしっぽ』


 たしかそんなタイトルだった。

 つまり今回は本の内容を答えろとでもいうのだろうか。そんなまさか。読書感想文でもあるまいし。


 引きつった笑みを浮かべる。手の中の封筒がカサリと音を立てた気がして、視線を向けた。

 もう一枚の便箋が顔を覗かせている。

 すぐさま抜き出し、中身を確認した。それは――白紙だった。

 まっさらな上質紙が俺の手汗をわずかに吸う。


 じわり。じわりと恐怖が這い寄る。ざり、ざり、と足音が廊下の向こうから聞こえてくる。近付いてくる。


 慌てて鍵を取り出し、震える手で鍵穴へと差し込む。

 しかし焦りからかガチャガチャと耳障りな音を鳴らすだけで鍵が刺さらない。

 挙げ句の果てには鍵を取り落としてしまった。


 ガチャンと響く金属音と炭が削れるような足音が混ざる。

 急いで鍵を拾い差し込む。焦げた臭いが強くなる。もうアイツはすぐそこまでやってきていた。


 鍵が回り、部屋へと逃げ込む。背後から迫る焼けた手が俺の背を掠めた気がした。

 そのままの勢いで扉を閉め、鍵とチェーンをかける。


 一瞬の静寂。そして――ガチャガチャ! とノブが回った。無理矢理押し開けるつもりなのか、ドアも揺れる。


 俺はその音を聞きながら這うようにして部屋の奥へと向かい、怪異と距離を取る。


「はぁ……はぁ……」


 ありえないほど手が震える。いや、全身が震えていた。

 やっとの思いでスマホを取り出し、スリープを解除した。


 アイツが入ってくる前に『きつねのしっぽ』の本文を検索する。答えを探す。

 そうしなければ、俺はアイツに『回収』されてしまう。


 都市伝説の一部になんかなりたくない。


 青白い光を顔面に浴びながら検索画面を覗き込み、目を見開く。


「は? けん、がい……?」


 ありえない文字が浮かんでいた。

 この部屋で圏外になったことなんて一度もない。

 画面を何度もタップする。反応が、なくなっていた。


 スマホ本体が、じわりと熱を持つ。


「………………あ」


 そして、ようやく気付く。異常な静けさに。

 先程までうるさいくらいにガチャガチャと鳴っていた音が止んでいる。


 ――チリッ。何かが、燃えた。真後ろで。


 ドクドクと心臓は早鐘を打ち、鼻は背後から漂う強烈な臭いを拾った。

 燃えるような熱気が足元から這い上がり、俺を包んでいく。


 後ろに、いる。部屋に入り込まれている。


 冷えた空気と、熱気が混ざる。首筋にかかる生暖かい吐息。


 一瞬の沈黙の後、焼けただれた声が俺へと囁いた。


「――こた、え……は?」


 歯が噛み合い大きな音を出す。言葉は何も出なかった。

 あの時。絵本の中身までは確認していない。

 今も検索すらできなかった。


 なら、何を答えれば、俺は助かるんだ?


 滲む視界に浮かぶ雫が蒸発していく。

 炭のような熱い指が俺の肩を掴んだ。


 ジュッと肉が焼ける音。反射的に叫びながら、その手を払いのけた。

 ようやく動けるようになったというのに。


 得たはずの自由は、一瞬で熱に焼かれ、灰となった。


 振り向いた瞬間、焦げた顔がこちらを覗き込んでいたのだ。

 瞼のないぎょろっとした瞳と視線が合い、腰が抜ける。


 喉が焼けるように熱く、声を出そうとしても空気が焦げただけだった。


 それでも本能が叫ぼうとしたのか、俺は大きく口を開け、そして――声は燃え尽きた。

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