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第四話 返すべきもの

 雨上がりの夕方。路面に残る水たまりが沈む陽をぼんやりと映す。

 神経をすり減らしながら到着した実家。俺はインターホンを鳴らす。

 すぐに母さんが出てきて、俺の顔を見るなり目を丸くした。


「どうしたの、濡れてるじゃない!? しかも酷い顔色! 大丈夫なの? とにかく早く中に――」

「絵本」

「え?」

「さっき言ってた絵本ってどこにある!?」


 母さんの肩を力強く掴んだ瞬間、痛みに顔を歪めた母を見て我に返った。

 すぐに手を離し謝罪をすれば、母さんは笑って許してくれた。俺を責めるでもなく、俺の身を心配してくれた。

 母の優しさに涙腺が緩む。しかし、背後の存在が俺の顔を引きつらせた。


――アイツは、あれからずっと俺についてきている。ぴったりと背後につき、俺を見ているのだ。


「ごめん母さん。絵本どこにある?」


 眉を下げ、俺を気遣う母に申し訳なさを覚えながらなんとか絵本の在処を聞き出す。

 そしてすぐさま絵本の元へ駆け出した。


 絵本は、今は物置代わりになっている祖母の部屋。その押入れの中にしまってあるはずだと。

 廊下を早足で歩く俺の後ろを、もう一つの足音が追ってくる。もちろん母さんのものじゃない。アイツの足音だ。


 できるだけアイツの存在を意識の外へ追い出し、祖母の部屋へ。

 押入れを乱暴に開け放ち、中に詰められていた数個の段ボールを引っ張り出す。


「……あった」


 俺が小さい頃に使っていたもの。それらが纏められていた段ボールの中。

 異様な存在感を放つ赤い表紙の絵本が目に焼き付いた。

 震える手を伸ばし、絵本を手に取る。


 表紙には尻尾のない白い狐の絵。タイトルは大きな文字で『きつねのしっぽ』と書かれている。

 表紙を開いた先には貸し出しカード。それを抜き出し確認してみたところ、たしかに利用者一覧の最後の行に俺の名前が記されていた。


 間違いない。これだ。


 カードを戻し、確信とともに絵本を懐に抱えて部屋を飛び出す。

 廊下でタオルを持った母さんとすれ違い、短く礼を言い通り過ぎた。これで俺は助かる。あとはこの絵本を返すだけだ。


 先程まで感じていた絶望を感じさせない程、頬が緩む。

 助かったという小さな希望の光が夜道を照らした。


 アイツの気配も絵本を見つけた時から消えていた。

 気持ちが軽くなったと同時に足取りも軽く感じる。あっという間に駅の裏手だ。


 正確な場所は覚えていないが、母さんが小道の先だと言っていたのを覚えている。

 街灯の灯りを頼りに小道を探せば、時間もかからずに発見できた。


 細い路地のような隙間を抜ける。

 小道には街灯がなく、暗闇が支配しているが怖くはなかった。

 むしろ鼻歌でも歌い出しそうになる程に気分もいい。


 一気に小道を駆け抜け、力なく笑う。


 俺が見たものは、壁で囲まれた何もない空き地だった。

 手入れもされていないのか草が生い茂り、所々に瓦礫のようなものが落ち、壁には焼けたような黒い跡。


 街灯だけは残され、何もない空間を静かに照らしている。

 そこには母さんの言っていた図書館など、どこにもなかった。


 浮かれた気持ちが一気に沈む。

 俺は重力に引かれるように、地面へと座り込んだ。


「どう、すんだよ……っ!」


 どうすればいいんだよ! 心の中で叫ぶ。混乱に染まる思考。行き場をなくした感情を、拳を通じて地面へと叩きつける。何度も。何度も。

 痛みなんてもはやどうでもいい。

 せっかく生き残れると希望が持てたのに、それが無残にも打ち砕かれたという衝撃の方が強かった。


「……はぁ、……はぁ」


 未だ抱えていた絵本が視界に入る。

 こんな絵本のせいで俺はこんな目に――。そう思うと感情が抑えられなかった。


 もう、うんざりだ。

 今までの感情をぶつけるように、絵本を掴み投げつけた。


 勢いよく空を割き、まっすぐ空き地へと向かう絵本。


 そして――霧散した。


「……は?」


 思わず声が出た。

 絵本は落下したわけではない。草むらに落ちた音もしなかった。

 ただ、静かに消え去った。まるで空間へ溶けるように。


 呆然としながらも俺の身体は動いていた。

 本の行方を探し、草を掻き分け、ライトで照らす。落ちたであろう予測落下地点を重点的に。


 それでも、見つからなかった。

 絵本はそれなりの大きさ。色も目立つ赤。見落とすはずもない。


「もしかして……」


――返却できた?


 頭に浮かんだ可能性に口角が上がる。


 そうだ。そうに違いない。ここには元々図書館があったんだ。その場所に戻したんだから、返却したとみなされたに違いない。


 普段なら心底馬鹿にしただろうが、俺はすでに心霊現象と思われる奇怪な現象に遭遇している。

 本が消えるなんてありえないことだが、今までの経験を思えばそう不思議でもない。


「……やっ、た。……………やったぁ!」


 近所迷惑も考えず喜びに両腕を突き上げる。

 きっとこれで俺はアイツから解放された。


 じわじわと実感が染みていく。

 ずっと付き纏っていた気配と臭い。それらは綺麗に消えていた。


 終わった。これでいつもの日常だ。


 笑顔を浮かべた俺は実家へと戻る。

 帰る道すがら、今更拳の痛みが俺に牙を向いてきたけれど、アイツの恐怖に比べたら屁でもなかった。


 帰宅後。

 家の前で母さんが心配そうに俺を待っていた。駆け寄り、抱きしめる。

 懐かしい匂いと安心感。その奥に、僅かな線香の香り。


 母さんも俺を心配してくれていたのか、小さな頃のように頭を撫でてくれる。

 随分と久しぶりに感じる母の温もり。気が付けば俺は泣いていた。


 その後。俺は雨で濡れ、草むらで汚れた身体を風呂で清める。

 暖かい風呂に浸かれば気持ちもかなり落ち着いてきていた。


 食事も用意してくれていたが、食欲が湧かなかったので申し訳なく思いながらも断りを入れる。

 すぐに自室へと戻った俺はベッドに転がった。


 俺が実家を出てしばらくが経つ。

 それなのに綺麗に掃除され維持されている自室に母の愛情を改めて感じた。


 汚れた天井を眺めながら安堵の息を吐く。

 静かな夜。黒い影もいない。焦げた臭いもしない。封筒もない。焦燥感も、恐怖感も、何もない。


 あるのは助かったという安心感のみ。


 この二日間――封筒を見つけた日を入れれば三日だが。生きた心地がしなかった。

 人生で初めて怪異に襲われる。こんな経験している人間など滅多にないだろう。


 自分の家に戻ったらまず部屋を片付けないと。

 あとはネットにもこの経験を書き込むのもいい。きっと話題になるだろう。


 そんなことを考えつつ、降りてきた瞼に従い俺は意識を沈めていく。


 眠りに落ちる寸前。仕事から帰ってきた父と母の笑い声が耳に届く。

 そして二人の声に混ざって、パラリ――と紙の擦れる音が聞こえた。


 けれど、それはきっと夢の始まりなのだと思い込む。


 静かな部屋に秒針の音が響いた。

 まるで、夢と現の狭間を刻むように――。

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