第二話 返却の催促
翌日。
いつもなら寝不足の苛立ちとともにアラームを止め、二度寝の誘惑を布団とともに蹴り飛ばす――そんなありふれた朝だったはずだ。
なのに、今日は違った。
目が覚めた瞬間から、部屋の空気がどこか冷えていた。朝の空気が冷たいとか、そういうものじゃない。空気自体が水気を含み、湿った布のように肌へ張り付く。そんな感じだ。
さらには誰かに見られているような気配が、息の音と一緒にまとわりついているような感覚も覚えた。
もしかしたらただの気の迷い。あるいは錯覚、なのかもしれない。
それでも違和感が拭えなくて、俺は部屋中を点検した。
狭い部屋だ。すぐに終わる。もちろん俺以外の人間なんていなかった。いなかったはずだ。自分の目で確認した。
なのに部屋のどこかから注がれる視線が、全身に降り注ぐように感じられて――堪らず俺は家を飛び出していた。
大学へと向かう道すがらにも異常はあった。
また誰かに見られている気がしたのだ。部屋で感じた視線と同じ湿度のあるものだった。
反射的に振り返ってもそこにはただの人混みしかない。
しかしその隙間を縫うように。一瞬、黒いものが通り過ぎた。
視線で追ったが、輪郭の歪んだそれは形を結ぶ前に消えてしまった。
大学内でも異変は続く。
昨夜届いた封筒。あれのせいでどうにも眠りが浅かった。だから講義中につい居眠りをしてしまった。
目が覚めたら講義室にただ一人。やってしまったという後悔とともに、すぐさま帰り支度を始める。
遠くで聞こえる賑やかな声も、この講義室には欠片もない。
まるで人の気配もなくここだけ時が止まったかのようにシンッ――と静まり返っている。
そんな時間かと疑問に思った俺はスマホで時間を確認した。
「――高梨……」
その瞬間。誰かに名前を呼ばれた気がして顔を上げる。
周囲を見回してみても誰もいない。当然だ。ここには俺一人しかいないのだから。
それなのに、背後で椅子が小さく――軋んだ。
空耳に決まっている。そう思い込み、俺は急いで残りの荷物を纏めた。
差し込む夕日に目を細めながら、講義室を出ようと立ち上がる。
その時。窓が開いていたのかカーテンが揺れ、ふわりと広がった向こう側。そこに『何か』がいた。
カーテンの向こうにだけ見える影。心臓がどくりと一際大きな音を立てた。
見てはいけないものだと直感が告げていたが、目が離せなかった。
影しか見えないはずのそれに、俺の瞳は引き込まれた。
また風が吹き込み、大きくカーテンが揺れ――それと目が、合った。
その時、瞬時に呪縛が解けたような気がして、逃げるように講義室を駆け出していた。
最後に一瞬見えた光景を信じたくない。
なぜならカーテンは纏められていた。そして窓も――開いてはいなかったから。
十分離れた場所で呼吸を整える。
壁に手をつき目を閉じる。はぁはぁと荒れる呼吸が熱を持って俺を蝕んだ。
痛む心臓部分を抑えながら、同時に恐怖をも抑えこもうとした。
敢えて「寝ぼけてるんだな、俺」と声に出せば、恐怖も紛らわせられる。
落ち着きを取り戻し、閉じていた目を開けた。夕日がやけに目に沁みる。
そんなことを考えながら、俺の手は自然とスマホへと伸びていた。
いつもの癖だ。スマホを触っていると落ち着く気がするから。
思い込みだろうがなんだろうが、今の俺には必要なものだった。
ポケットに入れたスマホを取り出した瞬間、焦げた臭いが鼻を刺す。
スマホを見れば煙が立ち上っていた。そこから確かな熱を感じ、咄嗟に投げ捨てる。
投げたスマホがガチャン、と耳障りな音を出す。
それと同時に火が消えたような「ジュッ」という重い音が耳に届いた。
ドクドクと波打つ心臓がうるさい。
息をのみ気配を押し殺す。
静かな廊下は俺一人。人の声が遠い場所で、じっと物言わぬスマホを眺めた。
しかし一目でわかる異常はない。煙もない。触れてみても冷たいままだった。
恐る恐る拾い上げ、画面を覗き込む。笑おうとして失敗したかのような顔が、画面に走ったヒビの向こうから見つめ返した。
引き攣りそうになる顔を慌てて揉む。ここで怖がったらもう俺はダメな気がしたから。
「あー。気のせい気のせい! 全部気のせい! 寝不足のせいだ!」
頬を叩き気合を入れる――が、俺の眉は急下降している。
馬鹿馬鹿しいと。気のせいだと。思い込みたいのに、そろそろ限界が来ているかもしれない。
じわじわと背後から忍び寄ってくる言い知れぬ恐怖心が俺を苛む。
それらを紛らわせるように、俺は足を動かす。友達を探し出し、くだらないことで笑い合うために。
とはいえ。そんな風に気を紛らわせていられたのも一瞬だった。
空が沈み、冷えた空気が俺を包み込む。
友達と別れ、帰宅し、一人になれば、また恐怖心がそっと顔を出し始めていた。
いつもより少し大きめに「ただいま」と言いながら、スイッチへ手を伸ばす。
暗くなっていた室内に色が戻った。
「……」
照らされた部屋の中。何かが違うと、俺の心が違和感を覚えた。
今朝、部屋を出た時と何か――。
違和感を探し、視界を動かす。
ある一点を見た瞬間。服の中へ氷を入れられたように、ぞわりと背筋が粟立つ感覚がした。
「……は?」
震える声が部屋に響く。
視線はテーブルの上に釘付けとなった。
そこには昨日捨てたはずの白封筒と便箋。
さらには封筒を視界に入れた瞬間。何かが焼けたような臭いまでもが鼻についた。
咄嗟に封筒から目を逸らす。
頭の中には「何故」という疑問ばかり。胸を押さえれば跳ねる鼓動が感じられた。
やけくそで封筒と便箋を掴み取りゴミ箱へと叩きつける。
畳みかけるように悪態までつこうとしたその時――ふと、視界の隅に映る本棚へと意識が向いた。
「いや、俺……触ってないぞ?」
思わず口に出したのも当然。
綺麗に並べていた漫画の背表紙――その順番がぐちゃぐちゃに入れ替わっていたのだ。
「はぁ……はぁ……」
再度荒くなる呼吸。
ゆっくりと。しかし確実に。恐怖の足音が、ひたひたと俺へ忍び寄ってくる。
俺の呼吸音だけが聞こえる中。突然、耳障りな電子音と振動がポケットの中で主張を始めた。
ひっ、と情けない悲鳴が喉から小さく漏れる。
震える手をポケットへ伸ばそうとするが、大学でのことを思い出して一瞬躊躇する。
しかし鳴り止む気配のないスマホに観念し、重く冷たい箱を取り出した。
もしかしたら友達からかもしれない。
そんな幻想を持ったが、現実はそう甘くなかった。
「ひ……つう、ち……」
画面に照らされるのは非通知の文字列。
無視すればいいものを、何故か俺の身体は通話ボタンへ伸びていた。
息を殺しスマホを耳に押し当てる。
緊張からか、ごくりと唾を飲む自分の音がやけに大きく聞こえた。
「……」
「……」
もしもし、という呼びかけはどちらもなかった。俺どころか相手も無言だった。
恐怖に苛まれながらも、俺は向こう側の様子を必死に窺う。
「…………」
さらに無音は続いた。
「も、もし、もし……?」
「……」
耐えきれなくなった俺は意を決して呼びかけるも、相手からの反応はない。
「――っ! おい、なんなんだよ! 悪ふざけならいい加減に――」
「――」
一瞬、名前を呼ばれた気がした。
「――返却期……が……」
聞こえたのは、男とも女ともつかないしわがれた声。
ノイズ混じりの囁きが、耳の奥を焼くように通り抜けた。
「……迫っ……い……」
ブツブツと切れる音声に鳥肌が立つ。
「……繰り……ま、ま……」
次第に声は大きくなり、言葉となって聞こえ出した。
何を言っているのか、もっと近くで聞くために神経をとがらせる。
「――カエセ!」
「ひっ!」
刹那。鼓膜を焼くような叫びが俺の耳を襲う。反射的にスマホを手放し、視線だけで追った。
床に転がり画面が鈍く光を放つ。そこに浮かぶのは相変わらず非通知の文字。それが何故か一瞬、ぐにゃりと歪んだ気がした。
恐怖に、身体も喉も凍りつく。
スマホからは依然として『返せ』と訴えかけてくる声。
次第に大きくなるソレの声に俺は耐えきれなくなり、必死に赤いボタンを連打した。
さらに通話が切れたかどうかの確認もせず、枕でスマホを押さえつけるように覆う。
いつまでそうしていたのだろう。
耳鳴りがするほど静かになった室内で息を吐く。
上がった息も、気が付けば落ち着きを取り戻してきていた。
パサリ。背後でそんな嫌な音が聞こえた。
何か軽いもの、まるで――紙のような軽さのものが落ちた音だった。
直後、部屋の空気が変わる。
首筋に生温い息が降りかかり、焼け焦げるような嫌な臭いが鼻を刺す。
――居る。俺の背後に『何か』が居る。
ぴたりと俺の背後にへばりつき、じっと見つめてくる気配。
確信にも近い感情だ。
落ち着いたはずの呼吸が、短く、浅く、そして激しくなる。
煤のような臭気が、少しずつ強くなっていく。
鼻を刺すほどの臭いに、涙がにじみ、視界も霞む。
今朝感じた湿り気を帯びた空気が、今は喘ぐほどの熱気に変わっていた気がした。
「……っ」
「――――」
恐怖に耐え切れず視界が暗転する。
冷え切った空気の中、指が頬を撫でた。――異常に熱く、焼けた指が。




