第五話 対
風は、誰のものでもなかった。
形を持たない。
ただ、通り抜ける。木々の間を、棚田の水面を、羽根の隙間を。
風と共にある者は、祈り、声を聞く。
風に寄り添う者は、思い通りにしようとしない。
その夕暮れ、風はふたつの背を撫でていた。
空は淡く染まり、棚田の水面が風に揺れていた。
サネヒコは馬の背にまたがり、風の向きを確かめるように目を細めた。
地面より高い視線。風が、頬を斜めに切っていく。
カザマは馬の首を撫でながら言った。
「馬は、風と生きる生き物だ。故郷では、風の道を馬が教えてくれた。
風が変われば、馬の歩みも変わる。思い通りにはいかない。風を読まなければ、走れない」
サネヒコは手綱を握りながら答えた。
「ハネサトでは、風は鳥が呼ぶものだ。羽根を浮かべて、風の通りを確かめていた。
馬が風を読むなら……それも祈りに近いのかもしれない」
カザマは少し驚いたように笑った。
「そうだな。馬は風を裂くが、逆らっているわけじゃない。馬は、風の中で生きている」
サネヒコは、馬の背で風を感じながら、静かに言った。
「風を読むことと、風を聞くこと。どちらも、風と共にあることだと思う」
カザマは頷いた。
その頷きには、細いながら確かなつながりが芽生えていた。
思い通りにしようとする者と、祈りに耳を澄ます者。
風を通じて、言葉を越えた理解が生まれようとしていた。
馬が一歩、地を蹴った。風が背を押した。
カネが、遠くで微かに鳴った。
森の奥では、工房が増設されていた。
その鉄炉では、カネハラとナオヒコが馬具の部品を鍛えていた。
火は、赤く脈打っていた。
炉の口から漏れる熱が、風に揺れていた。
ナオヒコは、火の様子を見ながら言った。
「風が強い……火が落ち着かない」
カネハラは、風の向きを見ながら静かに答えた。
「いや、風が通るのは、炉にとって都合がいい。風が火を受けて、強くなる。
火は思い通りにはいかない。そもそも、支配できるものじゃない。
火と対話することで、うまく働いてくれる。風は、その助けになる。」
ナオヒコは、父トモリの言葉を思い出していた。
「風が導くって……バカなと笑った。でも、火を扱い、ようやくわかった気がする。」
カネハラは、ナオヒコをちらと見て、視線を戻すと、薪の位置を少しずらした。
「火が暴れるのを避けるために風を読む。風を感じると身体が勝手に動くんだ」
ナオヒコは頷いた。
「風と火は、共にあるものだ。思い通りにしようとせず、対話する。親父が正しいのか……」
二人は、風の通り道に合わせて炉の配置を調整した。
その手つきは、祈りに似ていた。
工房の奥では、ツカサが図を広げていた。
設計通りに物事を進めることが秩序だと信じていた。
だが今、彼の目は風の流れを追っていた。
「ここは風が抜ける。何かあるのか?」
その言葉に、モリヒコが答える。
「この場所は、ヤマノカミと祈りを交わす場所だった。
風が田へ命を運ぶ道。風の道を守ってほしい」
ツカサはしばらく黙っていた。風の音に耳を澄ませる。
やがて、人を呼び指示を出す。
しばらくして、工房の板壁がひとつ外された。
「その地には、その地の秩序があるのだな」
ツカサの小さな呟きは、風が運び、カシの木へと向かったモリヒコに届いた。
羽根をカシの根元にそっと置いた。
その羽根は、風に揺れていた。
「風が共にあるなら、争わずに済む。」
ツカサは、かわらず風の音に耳を澄ませていた。
それは、対話の中で妥協点を見出す者の姿だった。




