第一話 風
森は、村を抱いていた。
広葉樹の葉が朝の光を透かし、風が通るたびに鳥の声と葉擦れの音が重なって、まるで森が息をしているようだった。
村は、川の支流がゆるやかに曲がる場所に築かれていた。
その流れは棚田の骨格となり、稲の根を潤す血管のように村を巡っていた。
傾斜を巧みに利用した棚田は、水を逃がさず、光を受け止め、風を通す。
それは、自然と人が長い時間をかけて交わした約束のようだった。
村の周囲には、大きな水濠がめぐっていた。
川の分流を引き込み、土を掘り、水を絶やさぬように工夫された環濠は、村の境界であり、守りであり、豊かさの象徴だった。
水面には小魚が泳ぎ、羽根を落とした鳥が水浴びをし、子どもたちは濠の縁で泥をこねて遊んだ。
水が絶えないことが、この村の命だった。
モリヒコは、ここハネサトで暮らしている。
親はおらず、長の世話になり育った。
十五となり成人した折、風と交流する役割を長より託された。
それは、祈りの器を守る者——風の通り道を記録し、季節の声を聞く者としての務めだった。
朝の祈りを終え、モリヒコは濠の水に羽根を浮かべる。
それは、季節の巡りと水の恵みに感謝する儀礼だった。
羽根が風に乗り、水面を滑る。
すべては、風と水と土の声に従っていた。
「モリヒコ、終わった? フナを獲りに行こう」
声をかけたのはサネヒコ。
彼もまた親を持たず、長のもとで育った。
手先が器用で、なんでも作り、なんでも獲れる。
少し単純なところはあるが、物静かなモリヒコとは不思議と気が合っていた。
モリヒコは、風の向きを確かめるように目を細めた。
今日もハネサトには、良い風が吹いている。
そう感じながら、サネヒコの後を追った。
──静かな霧が立ち込める早朝。
澄んだ金属音が響いた。カネの音だった。
その瞬間、霧が晴れ、太陽が広場に差し込んだ。
モリヒコは羽根をまとい、矢羽根状の冠をかぶり、顔にはくちばしを模した仮面をつけていた。
胸元には、シカの文様が刻まれている。
それは、地霊を抱き、穀霊に力を授ける——鳥のシャーマンの姿だった。
シャーマンの後ろには長が続き、そのあとに村人たちが並ぶ。
手には鳥形の木製品、腰には小さなカネ。
広場では皆が輪になって回り始める。
音が鳴るたびに空気が渦を巻き、不思議と水鳥たちが田に舞い降りる。
その音は、語りではなく、命を呼ぶ儀礼の響きだった。
やがて輪が止まり、広場の中心でモリヒコが静かに語る。
「ここに穀霊を宿す。
カネの音が風に乗り、穀霊を運ぶトリを呼ぶ。
クラとタを行き来し、やがてタに命が芽吹く。
糧となるシカを増やす」
村の者たちは、静かに声とカネの音を発し始める。
その響きは徐々に大きくなり、広場全体を包み込んでいく。
誰もが、ただ音に身を委ねていた。
風が通り、カネが鳴る。
それは、祈りのかたちだった。
風の器は、今日も静かに、村の記憶を運んでいた。




