008 ヤクモ・エクスペリア
笑顔のまま、いつまでも口を開こうとしないナツメ。答える気がないと判断した俺は、何も告げず席を立とうとした。
そのとき、教室の扉が勢いよく開く。白銀の髪をなびかせながら、一人の少年が堂々とこちらに向かってきた。
この世界では珍しい眼鏡をかけたその少年は、俺たちの前に立つと、鋭い視線を向けてきた。どう見ても友好的な雰囲気ではない。
ナツメのせいで不機嫌だった俺は、見覚えのない少年に睨まれ、さらに顔を険しくする。
入学初日から夢は不可能に近いと突きつけられ、訳の分からない女に絡まれる。散々な思いをさせられ、気持ちはざわついたままだ。
そのうえ、この白銀の少年に敵意むき出しの眼差しを向けられ、平静でいられるはずがない。
念のため一度だけ深呼吸してみたが、やはり収まらなかった。俺はゆっくりと席を立ち、その少年に声をかける。
「何の用か知らんが、突然来て無言で睨むとはどういうことだ。何かあれば口にしろ。それに今の俺は機嫌が悪い。言葉は選べよ」
俺よりわずかに背が低い少年は、漆黒の瞳でまっすぐ俺を射抜いてくる。近くで見ると、眉目秀麗な美男子だと分かり、不機嫌さがさらに増した。
その表情を見透かしたのか、少年はわざとらしく肩をすくめ、挑発的に口角を上げて言葉を吐く。
「ふん、さすが不正を働いて学園に入っただけはあるな。この俺に対して不遜な態度を取るとは。まあ、それはいい。学園では身分は関係ない。
それよりもだ――本来、俺たちAクラスの担任になるはずだったリュウゾウ先生を騙し、Eクラスに降格させた。そのことが許せん!」
耳を疑った。たしかにリュウゾウ先生は俺を庇い、その責任を取ってAクラスの担任を辞退した。だが、それは先生自身の意思であり、俺が騙したわけではない。
睨み続ける少年を見返しながら、なぜそこまで俺に怒りを向けるのか理解できず、思わず眉をひそめる。
それに俺は「不正」などしていない。
――もはや、こいつと話す必要はない。そう判断した俺は、この最悪の雰囲気の教室を出ようと背を向け、歩き出した。
扉に手をかけようとしたそのとき、背後から少年の声が突き刺さる。
「なんだ、逃げるのか? さすがキクーチェ領の田舎者だな、礼儀知らずの臆病者が。そんな姿、親が見たらどう思うだろうな。いや――お前の親だ、同じように逃げ出すか?」
その瞬間、頭が真っ白になった。気づけば白銀の少年の襟首を掴み、額を押し付けて睨みつけていた。
◆
いきなり現れた白銀の少年――ヤクモ・エクスペリア王太子に、教室に残っていた生徒たちは驚きの声を漏らした。
ヤクモ殿下は教室に入ると、まっすぐソウガ君のもとへ歩み寄り、一方的に非難を浴びせ、最後には彼の親をも侮蔑する言葉を放った。
普段の殿下なら決してしない言動に、思わず目を見開く。
……さすがに言葉が過ぎると思い、諫めようと口を開きかけたその瞬間、教室を出ようとしていたソウガ君が殿下の襟首を掴み、睨みつけていた。
教室の端から一瞬で詰め寄るその速さに絶句する。規格外の魔法を持つ彼だが、どうやら武術の腕も並ではないらしい。
あの中等部の王都武闘大会優勝者であるヤクモ殿下が、間合いに入られるまで抵抗できず、襟首を掴まれている。
それでもさすがは殿下だ。動揺の色を見せず、睨み返している。一触即発の空気に、私は意を決して声をかけた。
「ヤクモ殿下、それにソウガ君。ここは勉学に励み、心身を鍛える学園です。喧嘩をする場所ではありません。互いに納得できないのなら、きちんとした形で主張し合うべきでしょう」
反応したのは殿下だった。ソウガ君の視線を無視し、こちらに目を向け、続きを促すように目配せする。
「……今日の午後の授業は学年全体の合同授業。そして、その内容は機人での模擬戦です。本来なら会話での決着が望ましいのですが、二人とも、それでは納得しないでしょう。
その試合で勝った者が、相手の申し出を受けるというのは――どうでしょうか?」
ソウガ君は「機人」という言葉に反応し、わずかに眉を上げる。一方、殿下は不敵に笑い、彼の手を払いのけると、襟首を正しながら口を開いた。
「いいだろう、ナツメの提案を受けよう。だがコイツは機人に乗れぬ無能だ。いくら授業とはいえ、俺は王導機人に搭乗して戦う。
まあ、それ以外の機人に乗れないからな。最強の機人と生身の人間――卑怯者のコイツでは勝負にすらならないだろう」
――その言葉に、ソウガ君は唇を噛んだ。
ヤクモ殿下の乗機は『細川三式』。王導機人の中では格下とされる機体だが、それでも他の機人を寄せつけない性能を備えていた。
入試のときにソウガ君が倒した魔導機人『白秋三式』よりも、機動性・魔法砲撃・基本装備・装甲――すべてで凌駕する。
まさに王族だけが搭乗を許される機体。規格外の魔法を持つソウガ君でも、勝てる可能性はゼロに近い。
無謀な提案をしてしまった、と内心で思い、胸がざわめいた。
だが、このまま殿下と衝突すれば、ソウガ君の実家の寄親であるキクーチェ公爵にまで話が及ぶだろう。
殿下の父である現王――コイズミ・クムァモトゥ・エクスペリア陛下と、タケミツ・キクーチェ公爵は犬猿の仲。
下手をすれば、このことがきっかけで内乱が起こりかねない。
それを避けるため、あえて授業中の出来事として処理する必要があった。ソウガ君には申し訳ないが、この不安定な状況で小さな火種すら許せない。
心の中で謝罪しながら、ソウガ君に視線を向けた。
彼は目を閉じていた。だが、大きく息を吸い、ゆっくり目を開くと殿下に言い放つ。
「いいだろう、ちょうどいいハンデだ。次の授業で相手になってやる。それよりもだ。まずは名乗るのが礼儀だろう。
俺はソウガ・アクオスだ。お前も名乗れ。それとも王都では、名前も告げずに他人を罵倒するのが流行りなのか? さすが都会だな。田舎者の俺にはない感性をお持ちのようだ。――ヤクモ・ナニガシ殿下」
家名を間違える――軽い挑発だった。だが殿下は受け流せず、とっさに手を上げて襟首を掴もうとする。
その瞬間、ソウガ君は半身になってひらりと躱し、殿下の眼鏡を奪った。
驚いて目を見開く殿下に、ソウガ君は黙って胸のポケットへ眼鏡を戻すと、胸に手を当て頭を下げ、慇懃無礼に言葉を放つ。
「それでは、そろそろ授業も始まりますので、どうぞお戻りください。ヤクモ・エクスペリア王太子殿下、ご自分の教室へ」
刹那、春一番が吹き込み、桜の花びらが舞い込んだ。
花吹雪が教室を満たし、ソウガ君の漆黒の髪とヤクモ殿下の白銀の髪を乱す。
――それでも二人は視線を逸らさず、互いを射抜いていた。




