014 婚約者
目の前に、私の英雄――ソウガお兄ちゃんがいる。眩暈を起こしたのか、急にふらついて地面に膝をついていた。
そんな彼を見つめながら、私は昔を思い返す。
――初めて会ったのは八歳のころ。父に連れられてシースイの町を訪れたときだ。私は本名を隠し「ハナ」と名乗って町へ出た。
そこで偶然出会った黒髪に金色の瞳をした少年は、まだ十歳にも関わらず、大人顔負けの魔法を発動してみせた。
本人はどこか不満そうだったが、初級の魔法とはいえ、あれほど大きな火球は見たことがなかった。それに詠唱も驚くほどスムーズで早かった。
その魔法を見た瞬間だったと思う。私が恋心を抱いたのは。
けれど、幼い私はそれが分からなかった。気になって別れたあとも、こっそりと後をつけた。
そして目撃してしまった。お兄ちゃんが巨大なワイバーンを一撃で仕留める瞬間を。蒼炎が迸り、一瞬で討ち取ったのだ。
今でもはっきりと覚えている。山の向こうに落ちていくワイバーンを見つめる、その横顔を。
――あのとき、胸に秘めた想いが恋だと確信に変わった。
魔力枯渇したお兄ちゃんに駆け寄ろうとしたとき、いつの間にか現れたお父様に止められた。
肩に置かれた手を見つめると、お父様はかすかに震える声で告げた。
「ハンナ、このことは秘密だよ。彼の魔法が知られたら世界は混乱する。何より彼が不幸になる。絶対に知られてはいけない。……誰にも言わないと約束してくれるかい?」
その言葉には、怯えか畏敬か分からない響きがあった。
私は力強く頷くと、お父様は優しく頭を撫で、微笑んでくれた。私たちは黙って、力なく帰路につく彼の背中を見送った。
その後、公爵家に戻った私は、ソウガお兄ちゃんの魔法に少しでも追いつこうと努力した。
まだお兄ちゃんには及ばないが、火魔法なら学園内で一番だと胸を張れるほどにはなった。
けれどヤクモ殿下との戦いを見て、まだまだだと思い知らされた。
だからこそ、私は決意して、あの戦いのあとに手紙を贈ったのだ。お兄ちゃんに追いつき、傍で支える――その覚悟を伝えるために。
なのに、お兄ちゃんは来なかった。昨日は心臓が張り裂けそうなほど緊張して待っていたのに。
――もし迷惑なら、はっきりと告げてほしかった。私の想いを断るにしても、ちゃんと会って伝えるのが筋だと思った。
恥ずかしさよりも怒りが勝った。気づけばEクラスに乗り込み、お兄ちゃんに詰め寄っていた。
昨日からのことを思い返しながら、膝をついたまま動かないお兄ちゃんを見つめる。
ふと、そのままではいけないと思い、手を伸ばそうとしたとき――ナツメさんが割り込んできた。
「大丈夫、ソウガ君! いきなり婚約者にさせられて混乱しているの? それとも嫌なの? なら私に任せて。子爵家とはいえ王家とのコネもあるから、きっと破談にしてあげる!」
私とお兄ちゃんの問題に勝手に入り込んできたナツメさんを睨む。何をほざいているのか。これは両家の親が決めたことだ。
それにお兄ちゃんも、私が「ハナ」と分かった瞬間に満面の笑みを浮かべてくれた。この学園に来てから一度も見せたことがない笑顔を。
それだけで答えは出ているようなものだ。はっきり言って「自称彼女」が入り込む余地はない。
いまだに笑顔を崩さないナツメさん。その余裕を浮かべる表情に、私は鋭い眼差しを向けた。そのとき、静かにお兄ちゃんが立ち上がった。
◆
地面を見つめながら、便箋に書かれた言葉を反芻する――婚約者?
そんな方言はなかったはずだ。もしかすると読み間違えたのかもしれない――「蒟蒻じゃ」あるいは「今夜、臭しゃ」。
――これなら方言っぽい。意味はないけど。
現実逃避したところで何も進展しない。だが、いきなり婚約と言われても困る。ハナちゃんのことは覚えているが、付き合いは二か月程度。
しかも六年前のことだ。嫌いではないが、あまりに突然すぎる。まだ学生だし、親父との夢もある。
それに、ハナちゃんほど美人で才能のある女性と自分が釣り合うとは思えない。悔しいが、ヤクモくらいの器量がなければ難しいだろう。
なぜタケミツ様は俺との婚約を認めたのか。それに両親はなぜ黙っていたのか。
そこが分からない以上、婚約を受ける気にはなれなかった。
とにかく少し考える時間がほしい。そう伝えようと立ち上がると、ハナちゃんが心配そうに声をかけてきた。
「大丈夫、ソウガお兄ちゃん。気分でも悪いの?」
いきなり「お兄ちゃん」と呼ばれて驚く。確かにあのころはそう呼んでくれていたが、六年ぶりに言われると妙にこそばゆい。
「もし体調が悪いなら、私が医務室まで連れて行ってあげるよ。さっ、肩に手を回して」
ナツメが寄り添ってきた。相変わらず図々しいやつだと思い、半目で睨むが、笑顔を返されると何も言えない。
「ナツメさん、大丈夫です。お兄ちゃんの面倒は婚約者の私が見ますので、帰ってもらって結構です」
今度はハナちゃんが歩み寄り、俺を支えようとする。ツインテールの髪が頬をかすかに撫で、むず痒い。
「何か言った、ハンナさん? ソウガ君はまだ婚約者になるなんて言ってないと思うけど。それに大丈夫、今週中には破談になるから」
ナツメが強引に俺の腕を掴み、胸元に頭を突っ込んだ。二人は胸の前で睨み合い、俺は案山子のように両肩を支えられて身動きがとれない。
「ナツメさん、寝言は寝て言ってください。両家の親が決めたことです。覆ることはありません。それにようやくお兄ちゃんは、この学園に安らげる存在を見つけたのです。それを奪うとでも?」
確かに知り合いがいない俺にとって、ハナちゃんは数少ない幼馴染だ。できれば仲良くしたいし、コテツ君の話でも盛り上がりたい。
でも、それは婚約者じゃなくても友達でいいはずだ。もちろん、そんなことを言う気はない。睨み合う二人が怖すぎるから。
それからも二人は口論を続け、一歩も引かない。
決闘場に冷たい風が吹き込み、日暮れを告げる。春なのに寒さが身に染みる。このままでは埒が明かない。
深く息を吐くと、かすかに白く煌めいた。俺はいまだ言い争う二人に向かって魔法を発動する。
「……せからしか」
その瞬間、沈黙が広がる。声を出しているのに耳に届かないことに驚いたのか、二人が一斉にこちらを見上げた。
俺は二人の肩から手を外し、一人で立ち上がると告げた。
「ちと、ひとりにしてはいよ」
それは魔法ではなく、心の底からあふれた本音。意味が分からない二人は同時に首を傾げる。
だが、思わず笑顔が消えた俺の顔を見て、二人は口を閉ざした。俺は鞄を拾い上げ、ハナちゃんの手紙をそっと収めた。
そして魔法を解除し、一人足早に決闘場を後にした。
追う足音は、来なかった。
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