106 空腹は平等に訪れる――だって人間だもの
けたたましく目覚まし時計のアラームが鳴り響く中、俺は鉛のように重い体を起こし、ベッドから出た。
足を引きずるように窓に近づき、カーテンを開けて外を見る。今は六月下旬――本来は梅雨の時期だが、昨日と同じく快晴だった。
例年より早いが、梅雨明けしたのかもしれない。初夏の朝日を浴びながら、両手を上げて背伸びをすると、鈍い痛みが全身を襲う。
たった一晩で回復するとは思っていなかったが、ここまで疲れが残っているとは思わなかった。
だが、よく考えると武蔵零式はパワードスーツだ。首筋にあるブレインコアでイメージを伝達して操縦するとはいえ、体も動かす。
武蔵零式の衝撃吸収や動作補助が常に働いているが、あの常軌を逸した動きをするのだ――肉体の負担も相当なものだったのだろう。
俺は痛みに耐え、肩を回して筋肉をほぐすと、魔法の練習に加えて、武術の鍛錬にも力を入れようと決意し、食堂へと向かった。
――――――――――――
食堂に入ると、テーブルに目を向ける。そこには昨日、別れ際にナツメから渡された大きなバスケットが置かれていた。
俺はバスケットにかかった布を捲り、中を見る。昨夜かなり食べたはずだが、それでもまだ半分は残っていた。
冷蔵庫から牛乳を取り出し、コップに注いで一気に飲み干すと、筋肉痛で軽い炎症を起こしていた体を内側から冷やしてくれた。
おかげで気分もよくなり、食欲も湧いてきた。夏の湿気は容赦ない――食料が傷むのも早い。
昨夜、疲れて冷蔵庫に入れるのを忘れていた食料をバスケットから取り出し、テーブルに置いていく。
びっしりと並べられたサンドイッチやソーセージ、果物を見やる。これなら、ひとりでも食べ切れる。俺は掌を合わせてナツメに感謝し、食べ始めた。
朝食も残りわずかになったころ、玄関のチャイムが鳴った。すぐに席を立とうとして、テーブルにある二切れのサンドイッチとリンゴを見る。
俺はサンドイッチを二つとも口の中に押し込むと、リンゴを冷蔵庫に入れ、玄関に向かった。
「おはよう、ソウガ。体調は大丈夫?」
扉をあけると、ハンナが大きなバスケットを持って立っていた。いつものツインテールではなく、今日は髪を下ろし、帽子を被っている。
朝だが、すでに日差しは強い。女性にとって日焼け対策は重要だろう。ハンナほどの美少女でもそれは同じらしい。思わず笑みをこぼすと、ハンナが首を傾げた。
「いや、いつもの髪型もいいが、髪を真っすぐに伸ばしたハンナも可愛いと思っただけだ。その帽子も似合っているよ」
笑顔でごまかすと、彼女の顔が赤くなった。その姿も可愛く、子どものころの『ハナちゃん』を思い出した。
――子どものころ、シースイの町で遊んでいたあの少女が、実はキクーチェ公爵家の令嬢だったとは思いもしなかった。そして、まさか俺の婚約者になるとは。
昔を振り返り、笑みを深めると、彼女がずいとバスケットを突き出した。被せた布の隙間から、パンや小さな木箱、飲み物が入った小瓶が見えた。
「……もしよかったら、朝食で食べて」
その言葉に笑顔が消える。すでに朝食は終えて、胃袋は限界だった。ナツメから渡されたバスケットと同じくらい食べ物が入っている。とても食べられない。
笑顔でじっと見つめるハンナ。そんな彼女に何と答えていいか分からず、神に祈った。その瞬間、漆黒の熊神様が頭の中に浮かんだ。
頬を真っ赤に染め、つぶらな瞳でこちらをじっと見つめるクムァムーン様。その愛くるしい姿に両手を合わせて救いを求めると、神託を授けた。
<今は無理でも、いつかは食べられるモン。空腹は平等に訪れる――だって人間だモン!>
厳かにそう告げると、クムァムーン様は片目を瞑り、親指を立てて消えていった。俺は居酒屋のトイレに貼ってある名言みたいな神託を、頭の中で反芻する。
だが、神の意図が分からず、答えは見つからない――だって人間だもの。
なかなかうまいことを言ったと思い、心の中で座布団を一枚、自分にあげると、ハンナが口を開いた。
「……もしかして、もう食べたの?」
寂しげに問いかける彼女に胸が痛む。何か声をかけたいが、思いつかない。必死に頭を回転させると、再びクムァムーン様が脳裏に浮かぶ。
今度は眉を曇らせ、やれやれと肩をすくめながら首を横に振り、すぐに消えた。
いったい、何がしたかったのか――俺は脱力した。最初から神頼みなんかした俺が間違っていた。素直に謝罪しようと頭を下げようとしたとき、心の中に言葉が届く。
<デートに誘うモン。バスケットの中身はお昼に一緒に食べるといいモン>
その神託を受けた瞬間、雷に打たれたような衝撃が走った。
――クムァムーン様を信仰していてよかった。初めて心の底から、そう思えた。俺はすぐにハンナに頭を下げて提案する。
「すまない、ハンナ。もう朝食は済ませたんだ。だけど、もし暇なら今日、付き合ってくれないか。そして、よかったらこれはお昼に一緒に食べないか?」
別にそんな悪いことをしたわけじゃないが、相手の好意を簡単に受け流すほど冷血漢ではない。誠意には誠意で返したい。
俺はゆっくりと頭を上げて、ハンナを見る。そこには満面の笑顔で頷く、シースイの町で遊んだころの『ハナちゃん』の姿があった。
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