猛暑
家を出た途端、熱風。セーラーのリボンが力なくゆれる。もう9月なのよ。暑さは撤退して頂戴。
ゆらゆらと先が揺れる猛暑。まるで夢を見ているかのようだ。
汗がたらたらと顎から首を伝い制服の中へ落ちる。
今の自分は酷い姿でしょう。汗の怪物、全身の毛穴から汗が吹き出し、吹き出物のある頬は紅葉、背筋を伸ばす気力もなく道を泥のように歩く。今写真を撮ったらきっと人間の中で1番醜い絵が映るでしょうね。
信号の赤さえ忌々しい。早く学校へ着いてしまいたい。
私が信号に睨みをきかせながら立っていると、隣に誰かがやってきた。
この時間に同じ道を通る人など今までいなかったはずだけれど。
私はちらと横目でその人物を見る。
その人物は背筋をピンとのばし、ワンポイントも付いていない、真っ白な長めのソックスをきっちりと伸ばしていた。
決して美しい人ではなかった。しかし、私はあることに気付かされる。
彼女はこの猛暑の中、一滴も汗を垂らしていないのだ。頬も紅葉せず、白いまま。朝日を一身にうけ、輝いて見えるほどであった。この醜い化け物のとは雲泥の差。到底叶うこともない人間としての格の違い。
私の、横に太い体に汗で張り付いた白いセーラー服。
彼女の細い体を際立たせるように揺れる白いセーラー服。何が違う?何もかも。なぜなら人間としての格が違うから。いえ、もしかしたら彼女は人間ではないのかも。涼しい山から降りてきた仙女だ。こんな醜い私を励ましにやってきてくださったのかもしれない。
憧れとほんの少しの憎しみ。
憎しみとは、羨ましさから来るものもあると思い知る。
その仙女と目が合ってしまう。
「今日は、暑いですわね。」
仙女の凛とした声。鈴を転がしているかのよう。
いえ、本当は私と変わらぬ普通の声だった。
だが事前の涼し気な神々しさと、声をかけられた時の優しい微笑みで、私は完全に打ち負かされた。
「少し、汗をかかれているようですね。」
仙女は私に桃色のハンカチを差し出す。レースが縁につき、まるで織物のようだった。
「いえ、貴方のハンカチを汚してしまう訳にはいきませんので。」
今の言い方は少し棘があっただろうか。おかしかっただろうか。もしかしたら変な言葉遣いだったかも。
私はカバンからくしゃくしゃの薄っぺらいハンカチを取り出し急いで自分の汗を吹く。ハンカチはたちまち汗で湿ってしまった。なんで仙女は私にハンカチを差し出したのだろう。もしかしてあまりにも見苦しかったからかしら。
これ以上仙女に苦しい思いをさせてはならない。もしかしたら私の近くを歩いて学校に行くことさえ不快かもしれない。人を知らずに不快にさせ、知らないうちに嫌われるのは想像を絶する苦痛。
いつもなら信号を真っ直ぐ行くところだけれど今日は曲がることにする。
信号が青になると同時に1歩を踏み出し、仙女を背にし道を曲がる。仙女はそのまま真っ直ぐ、黒く長い髪を揺らしながら歩いていく。仙女の歩く姿は軽やかで音のひとつもしなかった。きっと仙女の歩く道は雲になるのだ。
その間も汗が吹き出す。あの仙女のことが忘れられなかった。けれど、直接彼女に仙女となんか言ったら吹き出されてしまうかもしれない。
人前で失言をすることは今後の人生に傷をつけるも同然。いつもそのことを頭に据え、恥と一生を付き合うことになる。
「そんなのはだめ、だめ。」
独り言。つい口を出てしまう。余計なことは、言わないのが吉。
翌日もまた猛暑。ニュースの記録的猛暑という言葉を耳にする。
どんな猛暑でも学校はある。私は毎日熱風の中に飛び込むのだ。仙女にはもう会いたくなかった。…私の姿を見て不快にさせてしまうかもしれないから。
望み通り、仙女とはもう会うことがなかった。道でも街中でも。
もしかしたら私の姿を見て不快に思って通学路を変えたのかもしれない。
もしかしたら街中では私の姿をみて気分が悪くなり、避けるように隠れて歩いているのかもしれない。
杞憂なのは分かっているが、これが私の性分。
私の行き過ぎたくだらない妄想癖である。
私は仙女のようになれない。だが憧れを抱くことは自由だろう。私のようなものが憧れを抱くなどおこがましいと思う。しかしその思いを押し殺してまで仙女の真似事をしてみたくなった。
私はカバンの中のくしゃくしゃのハンカチを取りだし、代わりに今日学校帰りに買ってきた、桃色のハンカチを綺麗に畳んでカバンにしまった。
私はあの時の仙女と全く同じハンカチを買ったのだ。
あの時、あんなに汚したくないと思ったハンカチで、私の汚い汗を拭く。
もしこの思いを仙女が心を読み、見ているのなら、心からの謝罪を。この私の気持ちはどうしても抑えられないのです。
ですが、私があなたに憎しみを抱いていることをお忘れなく。いつか、美しい貴方が歳をとり私と同じようになることを祈っております。
あら、これも失言だったかしら。