第9章:迫り来る脅威と演奏準備
澄み切った冬の空気が街並みを引き締めるころ、アリアたちは「カンタビレ・グランドフェス」のオーディションへ向かう準備を進めていた。書類審査を無事に通過できたという連絡が届いたのは数日前のことで、次はいよいよ実技審査が待ち構えている。これを突破できれば、本番の大舞台へ立つ権利を得られるが、逆行カノンをまだ完成させきれない彼らにとって、状況は決して楽観できるものではなかった。
アリアは早朝の薄暗い部屋で譜面をにらみつつ、深く息を吸ってからマイク代わりのスタンドを握りしめる。声を出して試そうとするが、口から出るのは不安定な震え混じりの音だった。レクイエムの暗い旋律を逆行させたはずなのに、どこか底知れない悲哀がまだ抜けきらずに残っている。彼女は心の中で「アンドリッドの妨害が強まっているせいかも」と考え、歯がゆさを覚えた。
今や学院の仲間たちは、一丸となって「Song of Undred」を祝福の曲へ導くプロジェクトに取り組んでいる。ノエルが本腰を入れて鍵盤を弾き始め、リディアがフルートと理論面のサポートを続け、エトワやラシェル、ステラたちも各自の役割を全うしている。けれど、どうしても最後の一押しが足りない。演奏自体は力強くなったのに、逆行カノンの途中で和音が不自然に途切れたり、曲が漂うように彷徨ってしまうのだ。
「あと一歩なのに……やっぱり未完成のまま、オーディションの日を迎えることになりそうね。」
そんな弱音がリディアの口から漏れる。アリアは励ますように微笑んで「大丈夫、少しでも今できることをやってみよう」と返すが、胸には焦りが滲んでいた。審査員たちは当然、完成度の高い演奏を求めるだろう。未完成な逆行カノンがどう評価されるか、不安は尽きない。それでも出場を諦めるわけにはいかない。フェスという舞台こそ、曲を世に示し、アンドリッドの呪いを断ち切るチャンスだからだ。
そうこうしているうちに、オーディション当日の朝がやってきた。審査会場は街の中心部にある大ホールの小スタジオで、同じ日に数多くの応募者が訪れ、それぞれの演目を披露していくことになっている。アリアたちは朝早くから荷物をまとめ、ノエルのピアノパート用の譜面や自作のメモを確認し合いながら、電車で会場へ向かった。
降り立った駅からホールまでは徒歩十分ほど。途中、華やかな店が立ち並ぶ商店街を抜け、大きな噴水広場を横切ると、ガラス張りのモダンな建築が見えてくる。入り口には既に数十人の演奏家や歌手が列をなし、受付で書類を見せている。アリアとリディアは思わず顔を見合わせ、緊張のあまり口数が少なくなってしまう。ノエルは「ま、やるだけだな」とつぶやくが、その声にも硬さが感じられた。
受付を済ませると、楽屋代わりの待機スペースへ案内される。そこにはタレント事務所所属らしき姿や、ソロで華やかに着飾った人、団体で盛り上がる学生など、さまざまな面々が座っている。アリアたちは空いている長椅子を見つけ、譜面を膝に乗せて最後の打ち合わせを始めた。
「今回は導入部から中間部までをメインに弾いて、逆行カノンの魅力を伝える。まだ終盤は不完全だし、強引に詰め込んでも審査員には響かないかもしれない。」
ノエルが低い声で言うと、リディアが頷いて「そうね。逆に中途半端に長い演奏をするより、短くとも完成度のある部分を聴いてもらうほうが印象はいいかも」と同意した。アリアはコーラスや歌詞の扱いについて悩んでいたが、時間が限られているため「なるべく伝わりやすいフレーズに絞ろう」という結論に至る。
ほどなくしてスタッフが名前を呼びに来た。「フォルティス・ノエルさん、アリア・セレナーデさん、リディア・ハルモニアさんのグループ、準備をお願いします。」その声に三人は立ち上がり、楽譜と楽器を手に審査用の小ステージへ向かう。エトワら他の仲間も来たいと言っていたが、オーディション会場に大量のメンバーを連れて行くのは難しく、今回は最小限の構成で臨むことになった。
小ステージは広くはないが、ピアノが一台置かれ、簡易的な照明がセットされている。三人が入室すると、正面に審査員らしき人物が五、六名並び、その背後にスタッフ数名が控えていた。中央に座る年配の男性が腕を組みながら「書類によれば、独自アレンジの鎮魂歌……となっていますね?」と話し掛けてくる。アリアは軽く頭を下げつつ「はい、そうです」と返事をするが、内心はドキドキが収まらない。
「では、自己紹介と曲の概要をお願いします。」
男性審査員の一人が促すと、アリアは深呼吸をしてマイクに近づく。
「私たちは、学院の仲間とともに“Song of Undred”という鎮魂歌を再構築し、祝福の響きに変えようとしています。今回は、レクイエムの冒頭と中間部を逆行カノンに置き換えた形で演奏します。まだ完全ではありませんが、どうぞお聴きください。」
不思議な表現に審査員たちが顔を見合わせる。「逆行……カノン? 珍しい手法だな。」と小声でささやく者もいる。続いて「では演奏をどうぞ」の合図を受け、三人は一礼して定位置へ向かった。ノエルはピアノの椅子に座り、両親が遺したメモを読んだ譜面をちらりと確認する。リディアはフルートを握りしめ、アリアはスタンドの前に立って声を整える。
「やるか……行くぞ。」
ノエルの小さなつぶやきとともに演奏が始まった。まずはノエルの左手が低音を暗示するようなコードを短く刻む。続いて右手がレクイエムの動機を逆さに追いかけて、ぎこちなくも神秘的なメロディを浮かび上がらせる。リディアのフルートがそこに静かに寄り添い、アリアの声が重なる。まだ試行錯誤の段階だが、短い導入部ですら不思議な透明感を生むことに成功していた。
審査員たちは最初、首を傾げるような表情をしていた。「レクイエムじゃなく祝福曲? どういうこと?」と感じているのだろう。しかし、進むにつれその稀有な音使いと反転する旋律に惹きつけられる様子が見て取れる。アリアの歌声は鎮魂と救いの狭間を漂うような響きで、レクイエム本来の悲哀を残しつつも、そこから抜け出そうとしている。
「ふむ……。」
中央の男性審査員が腕を組み直し、目を細めた。まだ曲は始まったばかりだが、耳を奪われるものがあるようだ。ノエルは鍵盤を震える指で必死に支え、フラッシュバックの痛みをこらえながらもミスタッチを極力減らしていく。レクイエムが希望へ変わる道のりを、この短い数十小節に凝縮して示すには限界があるが、とにかく今の全力を出す以外にない。
やがてアリアとリディアがアイコンタクトを交わし、新たなセクションへ移行する。中間部の一部を切り取ったわずかなパートだが、そこにこそ逆行カノンの妙味が詰まっている。レクイエムの動機を上下逆さに組み替えることで、普通ならあり得ない流れが生成され、それが聴き手に新鮮な衝撃を与える。審査員たちの表情が明らかに変化し、「ほう」と声を漏らす者もいた。
不安定な部分は否めず、どうしても途切れ途切れの印象を与えてしまうが、それでも「演奏中に妨害が起こらなかっただけでも幸いだ」とノエルは思う。実際、ここ数日の練習では突発的なアンドリッドの干渉で譜面が焦げたり、音が乱れたりすることが続いていたが、いまのところ小さなハプニングもなく弾けている。まるでアンドリッドが様子をうかがっているかのようだ。
最後にアリアがマイクを握り、低い声から高音へ向かうわずかなパッセージを歌い上げて終了。レクイエム由来の悲壮感と、わずかに射し込む光を掛け合わせたような余韻が場を包む。曲が終わると同時に、ノエルは「ふうっ……」と長い息を吐き、鍵盤から手を離した。リディアもフルートを下げ、アリアは全身の力が抜けたように肩を落とす。これでオーディションは終わったわけではなく、審査員のコメントを待たなければならないが、三人ともまずはやり切った安堵感が大きかった。
「なかなか興味深い。レクイエムと言うから重苦しいのかと思ったら、独特のアレンジで明るい要素が見え隠れするね。まだ未完成の印象はあるが、これはどう仕上がるのかな……。」
中央の男性審査員が評価を口にすると、周囲の他の審査員も小声で「悪くない」「新鮮だ」といった感想を漏らす。もちろん否定的な言葉も出るだろうが、この場で即座にダメ出しをされる空気ではなさそうだ。アリアたちが息をのみながら結果を待っていると、審査員の一人が「次はどのように完成させるつもりか?」と問いかけてきた。
「はい。逆行カノンを全編にわたって適用し、レクイエムの悲しみを完全に祝福へ変えることを目標にしています。今日お聴きいただいたのはまだ一部ですが、本番までにはより完成度を上げ、全体を通して祝福の響きを示すつもりです。」
アリアが毅然として答えると、審査員らは「そうか、期待してるよ」と頷き合い、これで終了だと合図するようにパラパラと控えめな拍手が起こった。成否のほどは後日に伝えられるらしく、ここで詳細な評価は下されない。退場を促され、三人はややほっとした表情でステージを後にする。
「終わったね……。どうかな、意外と悪くない手応えだったと思うけど……。」
袖へ戻る廊下でリディアが話しかけると、ノエルは「まあ、思ったよりミスは少なかったんじゃないか」と小声で返す。アリアも「うん、最後まで演奏できてよかった。審査員の反応も悪くなさそうだったし……」と安堵の笑みを浮かべる。これで出場許可を得られれば、フェス本番への道が見えてくる。
ところが、オーディションを終えて帰ろうとするアリアたちの耳に、街から怪しげな噂が届き始める。駅の改札を出るころ、周囲の人々が「この辺で行方不明者が出た」「急に理由もなく自殺未遂が増えている」「なんだか陰鬱な気分になる」などとひそひそ話しているのだ。特に「レクイエムを聴いた覚えもないのに夜になると悲しくなる」とか、「黒い影を見た」とか、不穏な発言が続出している。
「まさか、アンドリッドが街で暗躍してる……?」
リディアが青ざめた表情でつぶやく。ノエルは荷物を抱えながら、「あいつはレクイエムで世界中を悲しみに巻き込みたいらしいからな。フェスが近づいて、俺たちが逆行を完成させようとしてるから、余計に焦ってるのかもしれない」と推測した。
アリアも胸をかきむしりたくなるほどの不快感を覚える。自分たちが頑張るほど、アンドリッドは悲しみを拡散して抵抗してくるのではないか。街中に漠然とした不安が広がるほど、「Song of Undred」の呪いが強まる可能性もある。もしこのまま放置すれば、本番前に大混乱が起きかねないだろう。
そんな状況に追い打ちをかけるように、いよいよフェス本番まで残り二週間というタイミングで、オーディション結果の通知が届く。アリアが震える手で封筒を開けると、そこには「出場許可を与えます」とはっきり書かれており、日程と会場でのリハーサル予定が詳細に記されていた。思わずアリアが「やった……!」と声を上げると、リディアやノエルも安堵の笑みを浮かべる。
「これでフェスに出られるんだね……。でも、あと二週間しかないんだ。急いで準備を進めないと。」
リディアが時計を見ながら落ち着かない様子を見せる。アリアも同感だが、その一方で高揚感も押さえきれない。呪われたレクイエムを祝福へ変える音楽が、大舞台で注目を集めるかもしれないという事実が嬉しくて仕方ないのだ。
「私たちが成功すれば、きっと“Song of Undred”はもうレクイエムじゃないって、みんなに信じてもらえるよね。」
アリアの瞳が輝く。ノエルは苦笑いしつつ「そう簡単にはいかないかもしれないけどな」と言葉を返すが、その声にも確かな自信が宿りつつある。
ところが、焦る彼らをさらに追い込むニュースが飛び込んできた。街のあちこちで不可解な事件が相次ぎ、新聞やテレビでも「謎の集団幻覚」「駅周辺で突発的なうつ症状が多発」などと報じられ、治安当局が調査に乗り出しているというのだ。明確な被害状況が把握できないだけに、民衆の不安は急激に高まっている。噂好きの人々は「幽霊の仕業だ」「謎の感染症だ」と騒ぎ立てるが、アリアやノエルの目には「アンドリッドの暗躍」としか思えなかった。
実際、街の空気は明らかにおかしい。夕方になると、通行人の多くがやけに沈んだ表情を見せ、「なんだか気分が落ち込む」と言って足早に帰宅する。夜には無関係な喧嘩やトラブルが急増し、警察が呼び出される回数も増えている。まるで人々の心が不安と悲しみで満たされているようだ。ノエルは旧校舎の廊下で仲間たちに向かってこう警告する。
「アンドリッドはレクイエムの力で世界を悲しみで満たそうとしてる。俺たちが逆行カノンを完成させる前に、街全体を暗い感情に飲み込ませれば、誰も“Song of Undred”の真の姿に興味を示さなくなると思ってるのかもしれない。」
メンバーは顔を見合わせる。エトワは拳を握りしめ、「じゃあ、なおさら急いで曲を完成させなきゃダメじゃないか。フェスで成功させれば、少なくとも人々の耳に新しい響きを届けられる。アンドリッドの悲しみなんて打ち破ってやるよ」と勢い込む。アリアも「そうだね。逃げるわけにはいかない」と強くうなずいた。
しかし、決定的な問題が一つ残っている。逆行カノンを最後まで組み上げるために必要な「もう一つのパート」や「特定のコード進行」がいまだに見つからないのだ。ノエルは両親の遺したノートを読み返しながら、何度も最後のページを確認していたが、そこには意味深な言葉が走り書きされているだけ。
《欠けた声部——三重の和声——鍵は “Andrid” の狭間に眠る——》
書き手は母親かもしれないが、詳しい解説はどこにもない。ノエルはため息をつきつつ、アリアやリディアに「これ以上のことは書かれていない」と報告する。どうやらあと一つ、何か重大な仕掛けが必要らしいが、その内容が不明なまま。しかもリスクが伴うという示唆もある。万が一、レクイエムの負の要素を呼び寄せてしまうような鍵だった場合、破滅の可能性も否定できない。
「まいったわね……せっかくオーディションを通って、フェスに出られるのに、曲の完成度がこれでは……。」
リディアが唇を噛む。アリアも落ち着かない様子で足を動かし、「あと二週間で見つけられるかな」と焦る。ノエルは沈黙し、ノートを握りしめたまま天井を見上げるしかなかった。どうすれば真相にたどり着けるのか。自分が避けてきた家族の遺品や記憶をさらに探る必要があるのかもしれない。
「……俺、もう一度家を全部ひっくり返してみるよ。あの夜に燃え残った書類が、どこかに隠されているかもしれないから。」
ノエルが決意を表明すると、アリアとリディアは顔を見合わせて小さくうなずく。危険を伴う行為だが、もはやそんなことを言っている場合ではないだろう。フェスでの本番までに逆行カノンを完全な祝福へ導くためには、あと一つの手がかりがどうしても必要だ。もしそれが見つからなければ、本番でアンドリッドに妨害されるリスクが格段に高くなり、街の混乱もさらに拡大してしまうかもしれない。
こうしてアリアとリディアは、ノエルが実家を再調査するのを手伝うことを申し出た。しかしノエルは「できれば一人でやりたい」と言う。そこには彼なりの覚悟があった。両親を失ったあの惨劇の現場と、自分一人で向き合わなければ踏み出せない何かがあるのだろう。二人はそれを尊重し、代わりに何かあったとき連絡できるよう準備だけはしておくことにした。
翌日、ノエルは週末を利用して昔住んでいた家へ向かう。今はもう他の親族が管理しているため、めったに足を踏み入れないが、事前に話を通して鍵を借りてきたのだ。バスを乗り継いで着いた場所は、やや郊外の閑静な住宅街。そこにある一軒家は、事件以来ずっと人の住まない廃屋同然となっていた。外観の塗装は剥がれ、庭も荒れ放題で雑草が生い茂っている。
「……帰ってきちゃったな。」
ノエルは門の前で足を止め、古い記憶がまざまざと甦るのを感じた。子供のころは両親の仕事の関係で大きな屋敷に引っ越し、ここはアトリエ兼音楽部屋として使われていた場所だと聞く。だが、あの夜、レクイエムが流れたあとに家は燃え、両親は帰らぬ人となった。正確には完全に焼失しなかった一部が残り、再建もされないまま放置されている。
鍵を開けて中に入ると、室内はひどい湿気と埃の匂いが漂い、床は軋むたびに薄暗い埃が舞う。ノエルは顔をしかめながらも、懐中電灯を頼りに部屋を順番に見て回った。両親の書斎や音楽室、物置などを隈なく探すうちに、取り壊し予定だった壁の奥に小さな収納スペースがあるのを発見する。扉は半ば焼け落ちていて、かろうじて中身が見える状態だった。
「ここに何かあるのか……?」
彼は埃を払い、懐中電灯を差し込んでみる。すると、奥まった場所に古い木箱が置かれていた。焼け焦げた跡が一部に残りつつ、蓋だけは鍵がかかったまま手つかずのようだ。心臓がどくどく音を立てる。まさかこんなところに両親の遺品が隠されているとは思わなかった。
幸運にも鍵穴は壊れかけており、手でこじ開けるとすぐに蓋が外れる。中には真っ黒に煤けた紙束が無造作に詰め込まれ、ところどころに楽譜の切れ端が混じっているのが見えた。ノエルは息をのみ、震える指でそれを取り出す。「……これ、両親の字だ。」部分的に焼失して判読不能なところもあるが、書き込みの形式はノートで見た筆跡に近い。
《三重和声……門を開く鍵……祝福の反転……》
断片的な単語が飛び込んできて、ノエルの頭は混乱する。一方で、今までノートにはなかったような具体的なメモもある。そこには「最終手段——生贄か代償が必要?」という恐ろしげな文言まで書かれていた。まさか逆行カノンを完成させるために誰かが犠牲を払わねばならないのか——そんな嫌な予感が脳裏をかすめて、ノエルは吐き気を覚える。
「冗談じゃない……そんな方法でしか完成しないっていうのか?」
声を震わせながら紙をめくると、さらに奥から曲の最終ページらしき楽譜が現れた。歪んだ音符と赤い字で書かれた注釈が入り乱れ、読み取るのは難しいが、どうやら逆行カノンの終着点を示すもののようだ。レクイエムの主旋律を完全に裏返しにして、そのうえで特定の三重和声が重ねられている。もしこれが成功すれば、暗い鎮魂が祝福へ昇華するという理屈らしい。
「これだ……でも、危険すぎる。」
ノエルは紙束を抱え、ふらりと立ち上がった。外の光が差し込む廊下へ戻ると、足がもつれるようにヨロヨロと歩を進め、埃まみれの床に膝をつく。大切そうに紙を抱きしめながら、混乱と絶望と希望が入り混じった思いに頭を抱える。どうやら確かにあと一つの要素がこれらの文献に記されているらしいが、それは生やさしい手法ではない。三重和声をかけ合わせるだけで達成できるのか、それとも何か「生贄」めいた行為が必要になるのか?
あまりの衝撃にノエルはしばらく動けなかったが、やがて「仲間に見せなきゃ」と決意し、紙束を慎重にバッグへしまう。そして、家を出る前に一度振り返る。かつての平穏だった暮らしは、すべて崩れ去った。両親の志も途中で途絶えた。それを今、自分が継ごうとしている。足元が震えるのを感じながらも、ノエルは「もう逃げない」と心の中で繰り返す。
この日、夕暮れ時にノエルが学院へ駆け込んできた姿は、アリアとリディアをはじめ仲間たちを驚かせた。彼は埃まみれの服のまま音楽棟の練習室に姿を現し、誰にも何も言わずピアノの上に紙束を広げる。エトワやラシェルも顔をしかめるほどの煤臭さが漂い、「何があったの?」と口々に尋ねるが、ノエルは聞こえないかのように楽譜を睨んでいる。
「おい、ノエル……。」
アリアがそっと肩に手を置くと、ノエルはやっと顔を上げて、「これ……たぶん最後のパートだ」とかすれ声で言った。焦げている紙を一枚ずつ見せながら、「三重和声が必要……でも、もし間違えばとんでもないリスクがあるかも」と伝える。そこには「最終手段——生贄か代償が必要?」の文字を含む衝撃的なメモも挟まっており、メンバーたちは言葉を失った。
「生贄って、いったいどういう……。」
リディアが震える声を上げる。ラシェルやステラも顔を歪ませ、エトワは眉をひそめて「冗談だろ」と呟く。ノエル自身も「そんな馬鹿なことあるかよ」と否定したい気持ちが強いが、両親のメモにははっきりそのようなニュアンスが書かれているのだ。もしかすると、アンドリッドを封じるためには莫大なエネルギーが必要で、それに誰かが命なり心なりを差し出さねばならないのかもしれない。
「だけど、これはまだ“可能性”の一つであって、必須条件とは書かれてない。三重和声とやらを正しく合わせれば、回避できる可能性もあるんじゃないか。」
ノエルは自分自身を納得させるようにそう言葉を継ぐ。確かにメモには「生贄」とは書かれているが、詳細は分からない。もしかすると象徴的な比喩であり、実際には「覚悟を持った演奏者がすべてを懸けて弾かなければならない」といった意味かもしれない。あるいは、レクイエムの負の力を打ち消すほどの強い意志が必要だという暗示とも取れる。
「フェスの本番まであと二週間。俺たちはこの三重和声を習得し、逆行カノンの終局を完成させるしかない。そうしないとアンドリッドは封じられないし、街の混乱も止まらない……。」
ノエルの決意に、アリアは眼を潤ませつつも強く頷いた。「うん、やるしかない。たとえリスクがあっても、ここで怖じ気づいたら何も変わらないもんね。」リディアも不安そうな表情のまま「そう……私たちでやるしかない」と呟く。周囲の仲間も押し黙っているが、「撤退」という案を口にする者はいなかった。
そして数日後、アリアたちは再び練習を行う中で、今回のメモをもとに新しいコード進行を試し始める。導入部と中間部はそこそこ形になってきたので、終盤で三重和声を導入してレクイエムの負のエネルギーを逆行で包み込むようなイメージだ。ノエルが鍵盤でその一部を弾いてみると、確かに強い光を放つような響きが得られる瞬間があるが、同時にどこか刺々しい痛みを感じる不協和音も混ざる。
「うわ……耳が痛い。でも、その奥に一瞬だけ……すごく綺麗なハーモニーが出たね。」
リディアが耳を抑えながら言うと、ノエルは「紙一重ってことか」と苦笑する。アリアは少し離れたところで歌のタイミングを測っているが、入ろうとすると訳の分からない倦怠感や頭痛に襲われる場面があり、演奏が途切れてしまう。まるでアンドリッドが曲の完成を必死に阻んでいるようだ。
「こんな調子で本番までに完成するかな……。」
アリアがぼやくと、ノエルは「必ずやるんだよ」と青ざめた顔のまま応じる。メンバーの誰もが限界ぎりぎりの精神状態だったが、フェスという締め切りがある以上、引き延ばすことはできない。それでも、その背水の陣が逆に彼らの結束を強めているのかもしれない。街では相変わらず不可解な事件が続き、人々の不安が膨れ上がる中、彼らは命を削るように練習を重ねていく。
「大丈夫、私たちならできる。街を悲しみから救うためにも、曲を完成させるんだ。」
アリアは日々、そんな言葉を仲間にかけながら、自分にも言い聞かせていた。もしここで折れたら、アンドリッドの思うつぼであり、自分たちが音楽祭で掲げた夢も潰えてしまう。フェスで「Song of Undred」を祝福へ導くことこそ、レクイエムの呪縛から解放される唯一の道だと信じていた。
一方、街中では行方不明者や不可解な事件の数が日々増しており、地元のニュースでも連日「人々の不安を煽るような謎の現象が相次いでいる」と報道される。カンタビレ・グランドフェスの主催側も「このままではイベント開催に影響が出るかもしれない」と頭を抱えている様子で、デマやパニックが拡散しないよう必死に呼びかけていた。
「まさにアンドリッドは、悲しみを拡散しようとしてるんだろうな……。やるなら徹底的だ。」
ノエルは夕暮れの旧校舎に集まった仲間にそう言った。みんなも嫌な予感を共有しているようで、誰一人として気楽な顔はしていない。それでも「逃げるか」と問われれば、首を横に振る者ばかりだ。この曲を知らなければ関わる必要もなかったかもしれないが、一度関わった以上、「Song of Undred」が祝福へ変わる瞬間を見届けたいという強い意志がある。
そうして日々が過ぎ、フェスのリハーサル日がいよいよ迫る中、彼らはオーディション合格者向けの事前説明会に参加するため、再び大ホールを訪れた。ロビーには多くの演奏家や歌手が集まり、にぎやかな雰囲気が漂っている。ただ、噂を聞きつけた者の中には「最近この街、不吉だよね」「変な事件が続いて怖い」と口にする人も少なくない。アリアたちは横目でそれを見ながら、焦燥感を募らせていた。
説明会ではフェス本番の流れやステージの使用ルールなどが告げられるが、その際、スタッフの一人が「レクイエムを現代アレンジした演奏もあるんですか。珍しいですね」と声をかけてきた。アリアが「はい、そうなんです」と答えると、スタッフは少し戸惑った表情を浮かべ、「変なことを言うようだけど、あまり暗いイメージにならないように気をつけてくださいね。最近、悲壮感を煽るような演目には敬遠気味の意見が多いので……」と忠告してきた。
(確かに……こんな状況じゃ、レクイエムなんて聴いてる場合じゃないと感じる人がいても無理ないよね。)
アリアは心の中で苦笑する。だが、だからこそ逆行カノンで明るい祝福に変えるのだ、という意志を再確認した。もはや後戻りはできない。街を覆う暗い悲しみを、レクイエムを上書きするような光で打ち破らねばならない。そのためにも、一刻も早く三重和声の謎を解き明かし、アンドリッドの妨害を封じる鍵を手にする必要がある。
説明会の帰り道、三人はいつものように深い溜息をつきつつ駅へ向かった。ノエルが先を歩き、アリアとリディアが並んでついていく。途中、人混みを避けて裏通りへ入ろうとしたとき、背後でざわめきが起こった。「あれは……どうしたの?」とアリアが振り返ると、複数の人々が急にうずくまって頭を抱えている。悲鳴や「苦しい……」という声まで聞こえる。明らかに尋常ではない。
「アンドリッドの仕業か……!」
ノエルはハッとして駆け寄ろうとするが、リディアが腕を引いて「危ないよ、下手に近づいたら君まで巻き込まれる!」と止める。確かに、ここで自分たちがアンドリッドに捕まればフェスどころではなくなる。警察や救急車を呼ぶのが精一杯かもしれない。
「ああ、でも……こうして何もできずに見てるのは、悔しすぎる。」
アリアは唇を噛み、悲しそうにうつむく。結局通行人たちが騒ぎを聞きつけ、自然と人だかりができ、警官もやってきて何とか対処するようだ。しかし、事件が落ち着いたあとも、人々の沈んだ空気は残り、まるで「どうにもならない」と言わんばかりの絶望感が漂う。
その日の夜、アリアはリディアとともにノエルの部屋へ集まり、三重和声の解読を続けた。窓の外では風が強く吹きつけ、街灯が頼りなく瞬いている。時計は深夜を回っているが、一向に先が見えない謎を前に誰も帰ろうとしなかった。紙には「門を開く」「欠けた声部」「生贄」といった物騒な単語が踊っている。
「やっぱり、これ、誰かが命を捧げなきゃならないとかじゃないよね……。そんなの受け入れられないよ。両親はそれで失敗したのかもしれないけど、同じ悲劇を繰り返すわけにはいかない。」
ノエルは絶望的な気持ちを抑えながら言うと、リディアが「ええ、そうだよ。私たちが生贄になるなんて、絶対にあってはならない」と否定する。アリアも黙って俯き、震える声で付け足した。
「それに……このメモには『生贄』という言葉と同じ行に『代償』という単語もある。もしかしたら、命そのものじゃなく、何か大切なものを差し出す必要があるのかもしれない。たとえば……感情とか、思い出とか……。」
ゾッとする推測だが、あり得なくもない。アンドリッドとレクイエムが人々から生きる希望や笑顔を奪ってきたように、逆行カノンが成功するためには「その対極となる愛や思いを捧げる」必要があるのかもしれない。ノエルは両親がそうした形で命を失ったのでは、と嫌な想像に取り憑かれかけるが、アリアは強く首を振る。
「……何があっても、私は諦めないよ。あなたが命を落としたり、誰かが犠牲になるような完成なら、そんなもの祝福でも何でもない。ただの呪いの連鎖だよ。絶対に嫌。だったら私たちで違う道を探そう……必ずあるはずだから。」
アリアの強い言葉に、ノエルは目を見開いた。彼女にここまで言われると、自分も含めて誰一人死なせない形で完成させるしかないと思える。リディアも力を込めて「そうだね。きっと何か別の解釈や方法があるはず」と賛同した。深夜の重い空気の中、三人はそれぞれの決意を新たにし、何としてもフェス本番で曲を完成させるのだと誓い合う。
その先にアンドリッドのさらなる妨害が待ち受けている可能性は高いし、街の混乱は悪化する一方だろう。だが、演奏を通じて新しい希望を示すことができれば、少なくとも「悲しみしかない」と思っている人々の心に一筋の光が差し込むかもしれない。ノエルの両親が果たせなかった夢を、今度こそ自分たちが実現する時なのだ。
こうして彼らは、迫り来る脅威に立ち向かいながら演奏の準備を加速させる。オーディションに合格し、フェスへの切符は手に入れたが、これはゴールではなく始まりに過ぎない。逆行カノンの完成形を導くために、あとどれだけの努力と苦痛が必要になるのか。そして「代償」や「生贄」という言葉の真意は一体何なのか。闇はますます深まり、あちこちでアンドリッドの悲しみが膨れ上がる中、祝福の音がこの世界を救うことはできるのだろうか。
夜明け前の暗い空を見上げながら、ノエルは鍵盤に手を置き、小さく旋律を紡ぎ出す。レクイエム由来の主題を反転させ、不完全な三重和声を仮に重ねると、一瞬だけ輝くような響きが生まれる。だが、続けようとすると指が痛むような錯覚に襲われ、音が乱れてしまう。アリアはハミングでそれをサポートするが、やはり途中で倦怠感を覚えて中断を余儀なくされる。
「この先に何があるんだろう……。」
アリアが肩で息をしながら嘆くと、ノエルは顔をしかめつつも小さく微笑み、「きっと光があるんだよ」と返す。リディアがタオルを差し出して「息を整えて」と声をかける。三人はまだ音を鳴らし続けたいが、身体が限界に近い。アンドリッドの影響なのか、ただの疲労なのか分からないが、ひとまず休息を取らなければフェス本番まで持たない。
「街の人たちが少しでも明るい気持ちになってくれたら……。アンドリッドがいくら悲しみを広めようとしても、私たちがその上を行く祝福を奏でれば、負けないよね。」
アリアは寝落ちしそうになりながら、そんな願いを口にする。ノエルとリディアも同調し、また音を積み重ねる明日を信じて目を閉じる。途方もない戦いではあるが、それでもフェスの舞台が待っているのだから、やるしかない。
彼らの演奏が間に合わなければ、この街はますますアンドリッドの悲しみに覆われるだろう。フェス自体も開催困難になるかもしれない。それでも、オーディションを突破して与えられたチャンスに賭けるのだ。未完成の譜面と逆行カノンを抱え、ノエルたちは残されたわずかな時間で最後の手がかりを掴もうとしている。三人の絆を中心に、仲間や街の人々を巻き込みながら、運命は加速度的に動き始めていた。奏でられるのは呪いのレクイエムか、それとも祝福の逆行メロディか。答えはまだ闇の中に眠っている。