第7章:学院内の盟友たち
朝の鐘が鳴りやむころ、アリアはいつものように学院の中庭を横切っていた。曇り空の下、肌寒い風が吹き抜ける。もともと人通りの多い場所だが、この日はなんとなく落ち着かない空気が漂っているようにも感じられた。先日の逆行カノンの手応えが大きかったためか、アリアの胸には期待と不安が入り混じり、足取りが自然と早くなる。
小ホールに向かう途中、久々に声をかけてきたのは音楽科の友人ラシェルだった。ピアノを専攻する彼女は物静かな性格だが、演奏となると確かな技術を見せる実力者である。
「アリア、ちょっと話してもいい?」
切り出し方がどこか遠慮がちだったので、アリアは立ち止まって振り返る。「いいよ、何かあったの?」と尋ねると、ラシェルは周囲の視線を気にするように言葉を選びながら続けた。
「あなた、今『Song of Undred』を逆行させるとか言って頑張ってるって本当? 私、ちょっとだけ興味があるの。もし迷惑じゃなければ、手伝わせてほしい。」
意外な申し出だった。アリアは思わず目を丸くする。ラシェルは大勢の人前で目立つことを嫌うタイプで、過去に華やかな舞台を断ったこともあると聞く。それがなぜ今、「Song of Undred」の取り組みに興味を示すのか。
「もちろん、ぜひ。私たち、まだ人手が足りないと思ってたところだし。どうして急に?」
アリアが尋ねると、ラシェルは気まずそうに微笑んだ。
「急ってわけじゃないの。ずっとあなたのことを見てたから、レクイエムをあえて逆行カノンで変えようとするなんて、普通じゃ考えつかないし……本当にそれが成功すれば、すごい曲が生まれるんじゃないかって思えてきたの。」
「ありがとう。私も手探り状態だけど、一緒に音を合わせてみようよ。ちょうどピアノが欲しいと思ってたの。」
ラシェルは少し頬を染めながら「ええ、喜んで」とうなずく。もともと音楽科の中でも指折りのテクニックを持つと言われる彼女が加わってくれるのは、アリアにとって朗報だった。ノエルだけではなく、もう一人ピアニストがいるなら、さまざまなアレンジや伴奏の可能性が広がるだろう。それにノエルのトラウマを少し軽くする助けにもなるかもしれない。
ほどなくしてリディアと合流すると、彼女はすでにヴァイオリンを抱えた少年を連れていた。名をエトワといい、華奢な体格ながら鋭い感性を持つと言われる音楽科のホープだ。エトワは短く挨拶したあと、「噂には聞いてるよ、逆行でレクイエムを変えるってやつ」と興味深そうに笑う。
「僕でよければ弦のパートを合わせるよ。もともとヴィヴァルディやバッハの謎解きカノンが好きだったし、そういうパズル的な音楽は嫌いじゃない。むしろ燃えるかもね。」
リディアはにこやかにアリアを見やった。「私、エトワとは去年の演奏実習で一緒だったの。すごく耳がいいから、足りない和声や音程を細かくチェックしてくれるはず。」
アリアも嬉しそうに微笑む。「心強いよ。ここ数日で、仲間がこんなに集まるなんて思わなかった。」
こうしてリディアのフルートに加え、ヴァイオリンのエトワ、そしてピアニストのラシェルも手伝うことになった。「Song of Undred」を祝福の形で復活させようという話は、学院のごく一部の学生の間で徐々に共有され、興味を持った者が「自分も参加していい?」と声をかけてくるようになっている。以前、音楽祭で悲惨な失敗があったにもかかわらず、それでもなおこの曲に新しい可能性を感じている人が少なからずいるのだ。
やがて数日後、放課後のある日、アリアたちは小さな教室を借りて「非公式の演奏会」を開くことにした。学内で正式に申請したわけではないが、指導教員の中には彼女らの活動を密かに応援している者もいて、使用許可を得るのは難しくなかった。そこへ駆けつけたのはフルート奏者リディア、ヴァイオリンのエトワ、ピアノのラシェル、さらにクラリネットやチェロを演奏する生徒まで加わり、ちょっとした「小楽団」と呼べるほどの人数になっていた。
「まさか、こんなに集まるなんて……。」
アリアは緊張気味に譜面をチェックする。この非公式の演奏会は、あくまで逆行カノンの断片を試奏するための場であり、大々的に宣伝したものでもない。にもかかわらず、噂を聞きつけた仲間たちが「自分も一度音を合わせてみたい」と意気込んでいる。
教室の隅には椅子がいくつか並べられ、そこにノエルの姿もあった。もっとも、彼はまだ演奏に参加するつもりはないようで、腕を組んだまま淡々と状況を見守っている。アリアが「一緒にやらない?」と声をかけても、「今日はいい」と首を横に振るばかりだが、そこに嫌悪や拒絶の色は薄い。少なくとも彼が姿を見せてくれただけ、以前よりは前向きだと言えるだろう。
「それじゃあ、ちょっとだけ合わせてみましょうか。全部は無理だけど、冒頭から2ページ分くらいの逆行メロディをやってみる。」
リディアが音頭を取り、参加者たちはそれぞれ譜面台の前に立つ。アリアが準備したコピー譜には、レクイエムを逆行させて少しずつ再構成した音符が並んでおり、ところどころに「要検証」と書かれた注釈がついている。チェロ担当の学生は「これ、表のレクイエムと全然違う音程になってるね」と驚きの声を上げ、ヴァイオリンのエトワはすでに興奮気味に指ならしをしていた。
アリアは深呼吸をし、「お願いします」と声をかける。するとフルートとチェロ、クラリネットが入り混じった調律音が教室の空気を震わせ、やがて即興的に逆行メロディの冒頭が立ち上がっていく。響きは統一感に乏しく、正直に言えば不安定そのものだ。まだ合わせが浅いから当然の話だが、それでもどこかに清らかな光が差し込むような響きを感じられた。
「……すごい、不思議な透明感があるね。」
ピアニストのラシェルは控えめに伴奏パートを入れながら、そんな印象を口にする。元がレクイエムの音列であることを知っているからこそ、なおさら逆行による明るい流れに驚かされるのだ。すべてのパートが揃っているわけではないし、まだ試作品段階の譜面だが、レクイエムの重苦しさとは別の「抜けるような高揚感」がほんの数小節の間に現れる。
アリア自身も驚いたまま思わず声を出そうとするが、今日のところは純粋に楽器だけで音のイメージを確かめたいという提案があり、彼女はコーラスなしで聴き役に回っている。
「私、まだこのメロディを歌いこなせてないし、みんなの音をちゃんと把握したいから。ごめんね、勝手ばかり言って……。」
しかし演奏者たちは「いいよ」「お互い様だね」と温かく受け止め、集中して楽譜に向かう姿勢を見せる。
教室に響き渡る音は、決して完成度の高い演奏とは言えなかったが、集まったメンバーには不思議な期待が芽生えていた。「本当にレクイエムから祝福へ転ずる音が作れるのかもしれない」と肌で感じられるのだ。やがて演奏が止まると、皆が口々に「今の部分、もう少しブレスが欲しい」「和音が不安定だから、ベースラインを強調してみよう」などと意見を交わし始める。
一方、教室の隅で様子を見つめるノエルは、静かにその音を聴きながら、胸にこみ上げる奇妙な感情を抑えていた。自分が恐れ、忌み嫌ってきた「Song of Undred」が、こんなにも多くの人を巻き込みながら変化している。もしかすると、あの呪われた曲が本当に人を救える形に生まれ変わるかもしれない。そう考えると、ノエルは今さらながら込み上げる複雑な思いで唇を噛む。
「いい感じじゃないか?」
いつの間にか横に立っていたのは、先輩格の生徒ライナーだった。学院の学生指揮者として何度か実績を積んでいる彼は、興味深そうに演奏を聞いていたようだ。
「これ、まだ途中なんだろ? 逆行だけじゃなくて、ほかにも仕掛けがあるって聞いたけど。完成したら面白いことになるんじゃないか?」
ノエルは素直にうなずく。「……ああ、そうかもしれない。あとは歪んでる部分をどう埋めるか次第だ。」
「歪んでる部分」という言葉を口にしたとき、ノエルの脳裏にふと暗い影がよぎる。今まさに人々がこの曲に未来を見いだそうとしているが、同時に“アンドリッド”の存在は消えていないのだ。いや、むしろ曲を完全に再生へ導こうとするほど、アンドリッドの干渉は強まるかもしれない。そう考えた瞬間、彼はぞっとした寒気を感じた。
アリアたちが短い部分の合奏を何度か繰り返すうち、「意外といけるね」と手応えを得たところで、とりあえず第一幕は終了となった。パートを一度確認し直すために、みんなが譜面を椅子に置いて雑談し始めると、そこで突然、クラリネット奏者の少女ステラが声を上げた。
「ちょっと、譜面が……焦げてる?」
見ると、ステラの譜面の角が小さく焼け焦げたように丸まっている。周囲からは「え? まさか誰かがタバコでも落とした?」といった声が上がるが、そんな火気を使っている様子はなかったし、そもそも禁煙の学院でそんなことはありえない。他にもヴァイオリンケースに一部煤のような黒い跡がついているのが発見され、「何この汚れ?」「もしかして暖房が壊れてる?」と騒ぎになる。
不審がるメンバーたちを見回し、アリアは思わずノエルと視線を交わす。二人の脳裏には同じ可能性が浮かんでいた。――これがアンドリッドの妨害ではないのか。曲が祝福に近づけば近づくほど、“歪み”を生む存在が抵抗しているのではないか。以前にも、音楽祭で奇妙なトラブルや混乱が起こったことを思い出すと、まったく無関係とは思えなかった。
だが、この件を大げさに言いふらして動揺を招くのも得策ではない。アリアは咄嗟に「暖房の空調か何かが原因かも」と言って場を収めようとするが、周囲の学生たちは首をひねりつつも「そうかなあ」と腑に落ちない様子だ。エトワやラシェルも「急に焦げ跡がつくなんて、普通じゃないよね」と小声で不審を口にしている。
結局、その日は大きな被害が出ることなく、非公式の演奏会は無事終了したものの、不安が残る形となった。演奏自体が手応えを得た反面、アンドリッドの存在を否応なく意識させられる。撤収を始める中、みんなが「またやろう」「次はもう少しパートを増やして合わせよう」と前向きな話をしているのが救いだった。一方で、ノエルは片隅に立ち、腕を組んだまま険しい顔をしている。
リディアがこっそり近づいて声をかける。「焦げた譜面、やっぱり嫌な感じするよね。もしかしてアンドリッドが、この逆行を邪魔してる?」
ノエルは苦い表情でうなずく。「多分……曲の歪みを正そうとすると、あいつが反応するんじゃないかと思う。昔、両親がこの曲を何とかしようとしていたときも、家の中で妙な現象が起きたってノートに書いてあった。」
リディアの顔が強張る。「でも、このままじゃまた誰かが危険な目に遭うかも。どうすればいいんだろう。」
その会話を偶然耳にしてしまったアリアは、胸の奥がずきりと痛んだ。自分のせいで、またみんなが傷つくかもしれない。音楽祭の失敗を思い出すと、体が固まってしまいそうになる。それでも、この曲を途中で投げ出せば、歪みは永遠に残るのではないかという恐怖が勝った。だからこそ、曲を完成させてアンドリッドを封じ込めるかもしれないという仮説に、彼女は賭けているのだ。
翌日、学院に登校すると、すでに噂が飛び交っていた。「昨日、音楽科の学生たちが『Song of Undred』を逆行させる演奏をしたらしい」「そのあと譜面がなぜか焼けていたんだって」「また呪いかもしれない」「いや、偶然の事故じゃないの?」など、さまざまな声が行き交い、廊下が落ち着かない。アリアたちはあえて余計な騒ぎを避けようと黙っているが、すでに事態は黙っていても大きくなりそうな雰囲気だった。
朝のホームルームが終わり、アリアとリディアが校舎の渡り廊下を歩いていると、エトワが駆け寄ってきた。
「ねえ、聞いた? 昨日の件が先生方の耳にも入ったみたいで、一部の教員が『危険なことはやめさせるべき』って意見を出してるらしいよ。変な噂が広まって学院の評判が落ちるのを恐れてるんだ。」
「そっか……まあ、そう言われても仕方ないよね。」
アリアが唇を噛む。音楽祭で起こった混乱と同じようなことが再び繰り返されれば、学院の管理側としても見過ごせないはずだ。今のところ公式に禁止されてはいないが、下手をすれば練習そのものを止められてしまう可能性もある。
「でも、気にしなくていいっていう先生もいるみたい。今のところ意見が割れてて、はっきりした結論は出ないんじゃないかな。むしろ今のうちに成果を出してしまえば、逆に認めざるを得ないでしょ。」
エトワはあっけらかんとした口調で言い放つ。彼には怖れやためらいより、「面白そう」という好奇心のほうが強いのかもしれない。そういう人間が集まってくれるのは、アリアたちにとっては大きな助けだ。
さらに数日が経ち、学院内ではアリアたちの活動を支持するメンバーが少しずつ増えていった。理由は様々だ。一部には「刺激的な音楽イベントを体験したい」という軽い動機の者もいるし、「もし本当にレクイエムが祝福になるなら、その歴史的瞬間に立ち会いたい」と興奮する者もいる。とはいえ、皆が真剣に音楽に向き合っていることに変わりはなく、小さな“楽団”が形成されるのは時間の問題だった。
この「楽団」とはまだ呼べない未熟な集まりは、フルート、ヴァイオリン、チェロ、クラリネット、ピアノに加え、打楽器や他の弦楽器など、状況に合わせて臨時メンバーが出入りする形になる。まだ人数が揃わずバランスも悪いが、譜面の研究やアンサンブルの合わせを繰り返すごとに、逆行カノンの断片がまとまり始めている。
そんなある日、廊下でリディアが慌てた様子でアリアを探しているのを見つけたノエルは、「どうした?」と声をかける。リディアは青ざめた表情で譜面を握りしめていた。
「これ……またおかしな現象が起きたみたい。昨日まで普通に置いてあった譜面に、何か焦げ跡みたいなのが広がってて、文字が一部読めなくなってる。しかも変な染みまで……まるで黒いインクをぶちまけたような痕があって……。」
ノエルは表情を曇らせ、「それもアンドリッドの仕業かもしれない」と思わず呟く。二人は急いでアリアのいる部屋へ駆け込んだ。そこではエトワやラシェルも集まっており、焦げと黒い染みが入り混じった譜面を囲んで頭を抱えている。
「これ、ほんの数時間前まではきれいだったのに……誰かがわざとイタズラしたってわけでもないと思う。教室は鍵をかけてたし、入ったのは私たちだけだから。」
ラシェルの言葉に、エトワは眉をひそめる。「何かの超常現象かもね。いや、真面目に言ってるんだよ。アンドリッドとかいう名前を聞くと、そういうのを連想せざるを得ないじゃないか。」
当のアリアは少し震えながら譜面を触るが、そこに熱さや湿り気は感じられない。ただ、紙の一部が黒く変色して穴が開きかけている。まるで酸か何かの薬品をかけられたようにも見えるし、焼け焦げたようにも見える。どちらにせよ普通の現象ではなさそうだった。
「このままじゃ、せっかく書き溜めた逆行の譜面がどんどんダメになっちゃう……。」
アリアは不安げにつぶやく。するとノエルが思い切ったように顔を上げる。「俺、両親のノートをもう少し詳しく調べてみるよ。アンドリッドの干渉を避ける方法みたいなものが書いてあるかもしれない。もし見つかれば、譜面を守れるかもしれないだろ。」
その言葉にリディアやアリア、さらに周囲の仲間たちも安堵の表情を浮かべる。ノエルが自分から積極的に動いてくれるのはありがたいことだ。彼自身も恐怖やトラウマを抱えながらも、曲の完成に向けて前向きに行動している。それだけ状況が切迫しているとも言えるが、仲間が増え、やる気が高まるほどにアンドリッドの妨害も激しくなっているらしい。事態を放置していれば、また誰かが大怪我をしたり、大規模な混乱が起こっても不思議ではない。
こうして新たに集ったメンバーが協力し、各々が持つ得意分野で「Song of Undred」の再生に力を貸していく。譜面を共有して逆行カノンを部分的に構成したり、新たな和声を提案したりする者もいれば、全体の調整役となる学生指揮者ライナーが指示を出したりもする。アリアは歌手としての視点から「この旋律なら歌いやすい」と意見を述べ、リディアやエトワは演奏家の立場から細かい運指や表現を検討する。
こうして新たに集ったメンバーが協力し、各々が持つ得意分野で「Song of Undred」の再生に力を貸しはじめた。譜面を共有して逆行カノンを部分的に組み立てたり、新たな和声を提案したりする者もいれば、全体の調整役として学生指揮者のライナーが曲の進行を客観的にチェックしてくれるようになった。アリアは歌手としての視点から旋律の流れを確認し、リディアやエトワは演奏家としての意見を伝える。ラシェルはピアノ伴奏に加え、音域のバランスを見つつコード進行を補完する——寄せ集めのメンバーではあるものの、彼らは「祝福の形で“Song of Undred”を復活させる」という共通の目標の下に集い、小さな“楽団”として活動を始めていた。
もっとも、すべてがスムーズに進んでいるわけではない。以前のレクイエム演奏によって生じた混乱や、曲自体に漂う不穏な噂のために、学内では「やめておいたほうがいい」と冷静に忠告する学生も少なくない。特に音楽祭の惨状を目の当たりにした者たちからは、「あの曲は呪いだ」と言わんばかりに敬遠されることもあって、アリアたちが教室を借りて練習していると、周囲がざわめくこともしばしば起こる。
それでも、「曲の歪みを正そう」という熱意に共感する者は着実に増えていた。もともと音楽が好きで、「危険と噂されても、新しい挑戦ならやってみたい」と思う好奇心旺盛な生徒は、どの時代にも一定数いるものだ。ヴァイオリンのエトワだけでなく、チェロやクラリネット、ファゴットなどの管弦楽器、さらにパーカッション担当を買って出る者まで現れた。音楽科の一部には「そんなことに首を突っ込んで大丈夫か」と心配する声もあるが、あえて刺激を求める若者たちは次々と「Song of Undred」の稽古へ顔を出す。
アリアたちは、最初は五、六名で始めたが、じきに十名近い規模へと膨れ上がっていった。そこで彼らは、学院の空き教室を借りて「非公式の演奏会」と称するセッションを開き、進捗を共有しながら少しずつ逆行メロディを組み立てるようになった。最終的な完成形など見えていないが、とにかく手探りで合わせてみて、どこに欠落や不協和音があるのかを探っていこうというわけだ。
そんなある日の夕方、アリアとリディア、そしてエトワやラシェルらが中心となって、またしても教室の一角で小さな演奏会を開いた。今回の参加者は十名を超えており、珍しさも手伝って十数人ほどの見学者まで集まっている。その中にノエルも姿を見せたが、やはり自分から演奏に加わる気配はない。腕を組んで壁際に立ち、冷静な視線を楽団に注いでいた。
「それでは、みなさん。今日は短めのパートを二つ用意しました。まずは先日まで完成していた導入部の逆行メロディをもう一度合わせてから、新しく逆行させた中間部分に進んでみましょう。」
学生指揮者のライナーが指示を出すと、参加者たちは楽器を構え、譜面台を確認する。アリアは歌ではなくハミングで旋律を重ね、リディアはフルートを、エトワはヴァイオリンを、それぞれ音合わせしていく。ラシェルはピアノに腰を下ろし、低めのパートを受け持つチェロやコントラバス担当の生徒とアイコンタクトを取った。
「せーの…」のカウント代わりに小さく指揮棒が振られると、逆行されたレクイエムの導入部が静かに始まる。もともと暗く沈んだ旋律が逆向きに流れ出すと、奇妙な明るさと不安定さが共存する不思議な音の連なりを生み出す。参加者たちの演奏技術にはばらつきがあるが、それでも合奏が進むにつれて空間に透明感が漂いはじめる。
「やっぱり、なんだか心が洗われる感じがあるな…」
小声でそうつぶやいたのはクラリネットの少女ステラだ。彼女は以前の演奏会で譜面の角が焼け焦げるトラブルに見舞われ、一度は怯えたものの、どうしてもこの曲の不思議な力を確かめたいと参加を続けている。そんな彼女の耳にも、レクイエムの面影を残しながらも光が差すようなメロディは魅力的に映るようだ。
続いて新たに取り組んでいる中間部分へ移ろうとすると、途端に合奏がバラバラになり始めた。まだ不確定な部分が多く、書き込みにも空白や「要検討」のメモが散見されるため、パート同士の噛み合わせがうまくいかないのだ。アリアが苦笑いを浮かべながらハミングを止め、「ここ、音程ずれてるね。私とエトワが逆方向に行っちゃってるかも」と指摘し、ピタリと合奏が止まる。
「ああ、なるほど。その小節は本来、チェロがメインの進行を引っ張る形にしてるんだっけ。私が弾いてたヴァイオリンの音程がかぶって干渉してるんだな。」
エトワが譜面を見ながら肩をすくめる。さらにラシェルが「ピアノもまだ途中のコードしか記してないし、どう繋げるか検討中よ」と補足する。やはり完成形にはほど遠いが、みんなの意見を出し合いながら徐々に修正していく作業は、なんとも充実感がある。
見学している生徒たちも興味津々で、「あれって逆行カノンなんだよね? 本当にレクイエムを変えられるの?」「まだ音が不安定だけど、すごくきれいに感じる箇所もあるね」などとひそひそ話している。ノエルは壁にもたれたまま、真剣な表情で楽譜と演奏を行き来するように視線を動かし、時々なにかをノートに書き込んでいた。
その合奏を二回、三回と繰り返していくうち、ようやく中間部の最初の4小節くらいが形になりかけた。全員が「ここをこう弾くと、案外うまく繋がるんだな」と納得したところで、アリアが声を張り上げる。
「よし、ちょっとだけ休憩を挟もう。これ以上やると耳が混乱しちゃうから、一旦クールダウンしたほうがいいよね。」
やりきった達成感に包まれながら、それぞれが楽器を置いて一息つく。そのとき、ふと気づくと教室の隅の空気がやけに重たく感じられた。次の瞬間、一人の生徒が「うわっ」と声を上げ、尻もちをつきそうになる。彼が弾いていたコントラバスの弓に、黒いシミが浮き出るようにして広がっていくのが目に入る。
「なんだよ、これ……インクこぼした?」
あわてて手でぬぐおうとするが、ぬるりとした嫌な感触が残り、しかも弓の木の部分が焦げたように変色しはじめる。周りのメンバーが「ちょっと、それ危ないよ」「離したほうがいい」と叫ぶ中、彼は弓を放り出した。床に落ちた弓はじゅっと音を立て、黒い液体のようなものがしみ出している。
あまりにも異様な光景に、その場の全員が息をのむ。アリアは真っ先に走り寄り、何とか事態を収拾しようとするが、どう対応していいのか分からない。ただ、先日の譜面が焼け焦げたときと同じような嫌な空気を肌で感じる。これはアンドリッドの仕業ではないか……そう直感せずにはいられなかった。
「……やっぱり、アンドリッドが邪魔してるんだよね。」
震える声でそう言ったのは、フルートのリディア。彼女は譜面を抱えて後ずさりし、怯えた目をしている。参加メンバーの中にはまだアンドリッドという名前を本気で信じていなかった者もいるが、この光景を見て「何かおかしいことが起きている」と認めざるを得なくなったようだ。
「どうして……せっかく曲が少しずつ形になってきたのに……。」
アリアは悔しそうに唇を噛む。そのとき、演奏を聴きに来ていた観客の一人が真っ青な顔で叫んだ。
「もうやめたほうがいいよ! この曲、おかしいよ。下手したら大火事とか大事故が起こるかもしれないじゃないか!」
動揺が広がる中、ノエルが静かに前へ出た。彼もまた不安げな表情ではあるが、つとめて冷静に口を開く。
「焦るな。落ち着いて、まずは弓を触らずに道具箱か何かで安全を確保しよう。それで後で確認したらいい。……誰か、備品を管理してる先生を呼んできてくれないか。」
複数の学生が教室を飛び出していく。ノエルの指示は的確だったが、その声の奥にわずかな震えが感じられた。やはり両親を亡くした惨劇の記憶がフラッシュバックしているのかもしれない。アリアはノエルの横顔を見つめながら、「無理をしているのでは」と胸が痛んだ。しかし、こういうときこそノエルの冷静な判断はありがたいし、いまはそれにすがるしかない。
結果として、コントラバスの弓には奇妙な黒い痕と焦げ跡が残り、部分的に木が変質したようになっていた。学院の備品係の先生が調べるも、「熱で焼けた形跡とも薬品のしみとも言えない」と首をかしげる。結局原因は不明のまま、「何かの怪奇現象ではないか」「アンドリッドの呪いだ」と囁く学生が続出し、ますます不穏な空気が学内を漂うことになった。
その日の夜、アリアは自室でノエルから教えてもらったメモを見返していた。アンドリッドの干渉をどうやって防ぐのか、彼女自身も必死に考えざるを得ない。歪みを正そうとすればするほど、こうしたトラブルが起きるのではないか——それを放置すれば、いずれ大惨事に発展する可能性もある。
「曲を完全な形で奏でれば、アンドリッドを封じられるかもしれない……。」
ノエルの両親が遺した手記には、そんな趣旨の記述があると聞いている。だが、逆行カノンを通してレクイエムを祝福へと変える手がかりはまだ未完成だし、練習は進むたびに不可解な妨害を受ける。このままでは仲間たちが離れていくかもしれないし、何よりも学院から厳しく止められる日が来るかもしれない。アリアは不安で胸が押しつぶされそうになる。
翌朝、アリアとリディアが教室へ向かうと、エトワやラシェルらが集まって何やら話し込んでいた。どうやら昨夜のうちに、皆で「どうすればアンドリッドを封じられるのか」という議論になったらしい。
「結論としては、やっぱり曲を最後まで完成させるしかないんじゃないかって。そうしないと、中途半端な逆行メロディじゃ歪みが増すのかもしれない。」
そう語ったのはヴァイオリンのエトワ。彼は一歩も引く気配がなく、「むしろ徹底的にやろう」と意気込んでいる。ラシェルや他のメンバーも頷き、「曲を投げ出すのは嫌だ」と口々に言う。
「だけど、また何か起きたらどうするの? 昨日の弓みたいに、もっと危ないことが起きるかも……。」
ステラは不安そうな声を上げる。しかし、その言葉にエトワやリディアたちは心を痛めつつも、「止まっても同じじゃないか」「いずれにせよ曲の正体が分からない限り、こんな不可解な現象は繰り返されるかもしれない」と返す。
そこへノエルが姿を現した。目の下にクマができているのは、昨夜もほとんど眠れずに資料を調べていたからだろう。彼は壁にもたれて腕を組み、「みんな、よく聞いてくれ」と小さく息をつきながら口を開く。
「俺も、中途半端に終わらせるのは危険だと思う。曲の再生が成功すればアンドリッドの妨害を封じ込めるかもしれないし、失敗すれば—…正直、ヤバいことになるかもしれない。覚悟のある人だけで続けよう。」
かつては曲そのものを否定していたノエルの言葉とは思えないほど、彼は真剣だった。アリアは心が熱くなるのを感じ、同時に「ああ、ノエルは本当に踏み出そうとしてるんだ」と胸を打たれた。自分だけではなく、仲間たちの思いを無駄にしたくない。そして、両親の遺志を継ぐという意味でも、もう逃げるわけにはいかないのだろう。
そうして確認した結果、「今こそ曲を完成させるんだ」という意志がメンバー全員で共有された。ステラを含め、怖いと思いつつも「ここで止めるくらいなら、最初からやらなかったほうがマシ」と開き直った者が多いのが現実だ。もともとある程度“挑戦”を好む気質だからこそ、呪われた曲を逆行カノンで変えたいなどというプロジェクトに関わろうというのだから、逆境にも強いのかもしれない。
もちろん、学院の教員たちもこの動きを把握しつつある。むしろ“協力する先生”と“止めようとする先生”が真っ二つに分かれ、意見が対立しているという噂も耳に入ってくる。アリアがある日の放課後、廊下で指導教員と鉢合わせした際、「あまり大袈裟にするなよ。学院としても困るから」と警告されてしまった。彼女は一応「はい」と返事をしたが、内心では「もう後には退けない」と意気込んでいる。
やがて、メンバー間で「もっとちゃんとした場所を用意しよう」という話になった。空き教室では狭くなってきたし、トラブルが起きるたびに騒ぎになるのも避けたいという思いがある。するとライナーが「旧校舎の音楽室を使おう」と提案してきた。そこはすでに老朽化が進み、本来なら立ち入りが制限されている区画があるものの、一部の部屋はまだ使える状態らしい。
「ただ、あそこは人が来ない分、ちょっと不気味な雰囲気があるって聞くけど……。」
ラシェルがしぶしぶ口を開くと、エトワが楽しそうに笑う。「それこそアンドリッドとやらが出やすいかもしれないね。でも、場所をしっかり選べば人目を気にせずに合奏できるだろ?」
結局、この提案は賛否両論の末、あえて人目を避けるために採用されることになった。近いうちに一度見に行って、使えそうな部屋があればそこで大掛かりなリハーサルをしようという段取りだ。
そんな流れの中で、ノエルは一人、旧校舎へ足を運んでいた。日が暮れかけた静かな時間帯で、人影もまばら。廊下は薄暗く、窓際には埃が堆積している。ノエル自身、この校舎には悪い思い出がある。以前、謎の影を見かけたのもここだった。けれど、今はむしろ「もう逃げるわけにはいかない」という気持ちが勝っている。
「……ここなら、確かに大きな音を出しても気づかれにくいな。」
ノエルは使われていない音楽室のドアをそっと開け、中を覗き込んだ。埃っぽいが、意外とグランドピアノが一台放置されたまま残っている。椅子や譜面台も古いながらそこそこ揃っており、少し掃除すれば合奏に使えそうだ。問題は“アンドリッド”がうごめいているかもしれないという不安が拭えないこと。だが、完璧な環境など求めていられない。
ノエルが部屋の中央まで進むと、急に背後で鍵盤が鳴った気がした。びくりと振り向くが、誰もいない。ピアノの蓋は閉じられたままで、床に落ちた譜面が風もないのにかすかに揺れている。
「……やっぱり、ここは危険か?」
内心でそうつぶやきながらも、ノエルは「それでもやるしかない」と自分に言い聞かせる。もし本当にアンドリッドの妨害なら、いずれどこにいても安全ではないだろう。むしろ人目がある場所よりも、仲間たちだけで落ち着いて演奏に集中できる空間が必要だ。
翌日、ノエルはアリアとリディア、そしてライナーやエトワら主要メンバーを連れて旧校舎を下見した。やはり皆少し怖がっていたが、部屋の広さやピアノの状態を確認すると、「ここなら十分に練習できそうだ」という結論になった。大規模なコンサートは無理でも、10名ほどの楽団が入るには充分だろう。結局、「掃除をすればなんとかなる」という判断を下し、次の練習をここで行う計画を立てる。
ただ、肝心の“歪み”が強まるかもしれないという懸念は消えない。あの焦げや黒いインクのような染みが、いつどこで再発するか分からないし、今回のように古い建物なら火事が起きたとき逃げ道が少ないというリスクもある。それでも、メンバーたちは「やりたい」という思いを崩さない。むしろ互いに励まし合い、「私たちが曲を完成させるんだ」という意志を固めた。
そして数日後、ついに“旧校舎での初リハーサル”が行われることになった。日曜の午後、学院はほとんど人が少なく、かつ先生たちの目も行き届かない時間帯が狙い目だ。アリア、リディア、エトワ、ラシェル、ステラなどの主要メンバーに加え、新たに加わった打楽器担当の男性や、コーラスとして興味を示した女子学生など、十数名が集まった。ノエルは最後にふらりと姿を見せ、「オレも一応ピアノを弾く」とだけ呟く。これにはアリアとリディアが目を潤ませながら喜びをあらわすが、ノエル自身はどこか浮かない顔だ。
薄暗い室内にライトを点け、一同が楽器を準備する。埃やクモの巣を払う作業はすでに済ませており、何とか合奏ができる程度の清潔さは確保した。古いピアノの鍵盤を試しに弾いてみると、音は濁りがちだが調律が完全に崩れているわけではない。いずれは調教師を呼んで整える必要があるが、とりあえず今日のところはこれで十分だろう。
「じゃあ、始めましょうか。今日は導入部と中間部を一気に繋げて演奏してみよう。まだ完成度は低いけど、音の流れを感じたい。」
ライナーの合図で、メンバーたちは身構える。ノエルは後ろのピアノに腰を下ろし、譜面を睨むようにして呼吸を整える。目の前には父母が残したメモをもとに補完した和音が書き込まれており、逆行メロディに合わせてそれをどう押さえるか考えなければならない。
アリアはステージの手前に立ち、マイクこそないが声楽スタイルの姿勢で深呼吸する。「今日こそ私も歌うわ。ハミングやコーラスではなく、本格的にメロディとして合わせてみたい。」そう宣言した彼女に、リディアは笑みを返してフルートを上げる。
「負けないように頑張るね。いつアンドリッドが邪魔してくるか分からないけど、これ以上怯えても仕方ないし……私たちが音で打ち消そう。」
カウントが始まり、全員が静かに弓を構え、または管をくわえ、鍵盤に指を置く。やがて、逆行カノンをベースとした繊細な音が部屋の隅から滲むように始まる。低音を支えるチェロやコントラバスが少しずつ音階を上昇させ、そこにピアノのシンプルなコードが絡む。重苦しさをはらんだレクイエムが、逆さに動くことで曇天の雲を割るような光を射す。
アリアは勇気を振り絞り、最初の小節から本気の発声を入れる。言葉ではなく母音や簡単なラテン語のフレーズを試し、レクイエム特有の哀切を帯びた響きを逆方向に放ちたい——そのイメージを思い描いていた。すると、どうだろう。まだ調整不足であちこちに雑味はあるものの、レクイエムのダークな印象が驚くほど薄れ、むしろ厳かな祝福さえ感じる断片が顔を出す。
演奏する誰もが「ああ、これが本来の姿かもしれない」と鳥肌を立てる。その一瞬だけ、アンドリッドの影など忘れてしまうほどの高揚感が教室内を包んだ。ノエルは震える指でピアノを弾きながら、「こんな音が出るなんて……」と胸が熱くなるのを感じる。確かに左手と右手を駆使して逆行メロディを支えると、レクイエムの負のオーラが逆流し、押し流されていくようだ。
しかし、調子が良かったのはそこまでだった。演奏が中間部に差しかかり、「要検討」とされていた部分へ突入した途端、明らかに空気が変わる。まるで視界がかすむような感覚に襲われたメンバーが続出し、指がもつれて音が崩れ始める。アリアも声がふらつき、「あ……」と息継ぎを忘れてしまった。
ガタガタと床が震え、部屋の隅から冷たい風が吹き込むような感触がある。楽器の音がどんどん不協和音を生んで濁っていき、誰がどのパートを弾いているのか分からなくなるほど混乱が広がる。ノエルは必死にコードを支えようとするが、右手がまるで自分のものではないように震え始める。
「くそっ……これが……アンドリッドの妨害なのか……!」
ノエルは悲痛な表情で鍵盤から手を離した。あちこちで悲鳴が上がり、弦が軋む音や管楽器の不気味なビブラートが混在している。やがて誰かが床に膝をついて息を切らし、別の誰かは楽譜を落として叫び声を上げた。まるで空間全体が歪んでいるような感覚が覆いかぶさり、メンバー全員が動揺している。
「やめろ、来るな……!」
チェロ担当の少年が声を震わせているのを見たアリアは、かろうじて踏みとどまって立ち尽くしていた。彼の視線の先には、黒い影のようなものがちらついている気がする。旧校舎の薄暗い部屋と相まって、幻覚なのか現実なのか判断がつかない。ただ、アリア自身も猛烈な頭痛と寒気を感じており、意識が薄れかけていた。
「やめちゃだめ……ここで止めたら負ける……!」
声にならない声でそうつぶやき、アリアはもう一度マイク代わりのスタンドを握りしめる。本当は怖い。だが、ここで演奏をやめればアンドリッドに屈する形になり、「Song of Undred」の再生はまた遠のいてしまう。その思いから、彼女はふらつく足を踏みしめ、無理矢理にでも旋律を続けようとした。
だが、そのときピアノの上に置かれていた楽譜が急に炎を上げたかのようにぱっと赤熱する。周囲が「うわあっ!」と悲鳴を上げるが、不思議なことに火や煙は見えないのに、紙が焦げて穴が開き始めるのだ。ノエルが思わず手を伸ばすが、熱すぎるのか、触れた瞬間に「熱っ……!」と吹き飛ばされるように後退する。
「ノエルっ!」
アリアは咄嗟に声を張り上げるが、既にノエルは机にぶつかって座り込んでしまった。煙もないのに、ピアノ上の譜面がじゅうじゅうと焦げる異様な光景に、誰もが動けなくなる。ついにリディアが「もう無理!」と叫び、フルートを放り出してノエルのもとへ駆け寄った。その瞬間、教室中に耳を裂くような奇妙な音がこだまする。楽器の鳴り響く音とも違う、何か金属を削るような不気味な振動が床を伝う。
「全員逃げろ!」
ライナーが大声で警告を発し、メンバーたちはわっと出口へ向かう。とにかく状況がひどすぎる。一歩間違えば本当に火事や爆発が起きてもおかしくないのではと恐れる者もいて、大混乱の中、椅子を倒しながら教室から飛び出していく。アリアとリディア、そしてノエルも何とか廊下へ出たが、部屋の中では黒い染みが広がるようにじわりじわりと焦げた匂いが漂っている。
廊下へ逃げ出した一同は荒い息をつきながら顔を見合わせた。何がどうなっているのか分からない。アリアは頭を抱え、「私のせいで……」と声を失いそうになったが、ノエルは痛む手を押さえつつ必死で言葉を絞り出す。
「違う、アリアのせいじゃない。アンドリッドが……曲を完成させようとするほど、邪魔を強めてるんだよ。きっと……間違いない……。」
肩を震わせながら部屋を振り返るアリアは、泣き出しそうな顔をしている。それでも「ここで放り出していいのか」と自問すると、どうしても諦めきれない。両親の遺志を継ぐノエルや、逆行カノンに夢を懸ける仲間たちのことを思うと、逃げても何の解決にもならないと思い知らされる。
この騒ぎで旧校舎が使えなくなるのは時間の問題だろう。下手をすれば学院側から正式に禁止令が出てしまうかもしれない。メンバーの多くも恐怖を覚え、この先一緒に練習するかどうか、迷いが生じているかもしれない。だが同時に、「曲を再生すればアンドリッドを封じられる」と信じたい者も少なくなかった。足を震わせながらも「どうにか続けたい」と呻く仲間たちの声が廊下にこだましている。
その後、なんとか怪我人は出ずに済んだものの、黒く変色して焦げた譜面はほぼダメになってしまった。ノエルも手のひらに火傷のような軽い痕が残り、無理がたたって倒れそうになる者もいた。結局、その日はそれ以上の練習どころか、まともに片付けもできないまま解散することになった。アリアは唇を噛み、仲間たちに平謝りするしかない。誰も責める声を上げなかったが、それが逆に痛々しい。
「……どうすればいいんだろうね。」
帰り道の途中、リディアがアリアにそう話しかける。二人とも涙目で、気力をなくしかけている。けれどアリアは震える声で「やるしかない」と繰り返す。
「完成させて、アンドリッドを封じるしかないよ。じゃなきゃ、もっと大変なことになる。今はこうして妨害されてるけど、いつかきっと……。」
ノエルはそんな二人の会話を聞きながら、心の中で同じ思いを抱いていた。自分の両親が歪みを正そうとしたように、今度は自分たちがその使命を継ぐ。怖いのは確かだが、もう逃げ場などないのだろう。祝福の形を取り戻せるか、それとも再び破滅を迎えるのか——どちらに転ぶにせよ、動かないわけにはいかない。
こうして「学院内の盟友たち」の結束は揺らぎつつも強まっているといえる。呪いの曲と呼ばれるレクイエムを、逆行カノンの手法で祝福へ導くという一大プロジェクト。参加者の多くは既に常識を超えた現象に巻き込まれながらも、覚悟を固め始めていた。次なるステップとしては、これまでの譜面を再点検し、新たな手掛かりを探す必要があるだろう。アンドリッドが何者で、どうすれば封じられるのか。その謎を解くのは容易ではないが、メンバーたちは小さな演奏会の失敗や不可解な出来事を糧に、一歩でも前進しようと誓っていた。
部屋に戻ったアリアは、荒れた心を落ち着けるためにノートを開き、これまで集めた楽譜や手記の断片を改めて眺める。そこには歪んだ音列や逆行の手掛かりだけでなく、アンドリッドに関する不鮮明な記述や、「完全な形で奏でるとき、嘆きと祝福は交錯し、魂は新たな門を開く」という謎めいた文章が書かれている。もしかすると、完成まであともう少しなのかもしれない。だが、その「もう少し」がどれほど遠い道のりか、誰にも分からない。
窓の外を見やれば、夜の闇が忍び寄っている。どこかでフクロウが鳴いているのか、低い鳴き声が微かに耳に入る。アリアは震える手をノートから離し、そっと目を閉じる。仲間が増えたのは確かだが、そのぶんアンドリッドの妨害も激化している。焦げた弓や謎のインク染みが、この先さらに大きな災厄を招く前触れでなければいいのだが……。
そう考えると、不安で眠れなくなりそうだ。それでも明日が来れば、また彼女は学院で仲間たちと顔を合わせるだろう。疲れた表情を浮かべながらも、ひたすら逆行カノンを追求していくはずだ。ノエルもまた負傷しながら譜面に向き合い、リディアやエトワ、ラシェルらがそれを支える。小さな“楽団”は一度や二度の挫折では止まらない。何故なら、それぞれが信じる音楽の力と、「Song of Undred」を変えたいという純粋な願いが確かに存在しているから。
そして、アンドリッドの影は、そんな彼らの背後に常につきまとっている。現状では対抗策が見つからず、完成に近づくたびにさらなる妨害が起きるかもしれない。だが、このまま曲を捨ててしまえば永久に歪みは残り、悲しみから解放される道は閉ざされる。そう思うと、アリアは奥歯を噛み締め、「やめられない」と夜空に向かって小さく呟いた。
薄暗い月明かりの中、どこかから風が吹いてカーテンを揺らす。彼女はベッドに腰を下ろし、今は眠れなくてもいいから少し休もうと考えた。翌日が始まれば、きっとまた嵐のような日々が待ち受けている。それでも、仲間たちの姿を思うと、逃げずに立ち向かおうという気力が湧いてくるから不思議だった。たとえアンドリッドの影が暗く重く、決して楽観はできなくても、確かに希望は灯っている。小さな演奏会は混乱に終わったが、その一瞬だけ垣間見えた祝福の響きが、彼女の中で消えることなく鼓動を続けていた。
こうして「Song of Undred」は、学院内で新たな盟友たちを得て、さらに大きな挑戦へ踏み出そうとしている。焦げ跡や黒い染み、そして不可解な轟音——それらはアンドリッドが警告を発しているかのようにも見えるが、同時に「最後まで演奏すれば真の答えにたどり着く」という確信を深めさせる要因にもなっている。呪いか、救いか。それは、いま曲を奏でる者たちの意志によって決まるのかもしれない。彼らはまだ、次に訪れるさらなる試練を想像することさえ難しかったが、少なくとも一つの思いを共有していた――「ここで立ち止まるわけにはいかない」と。