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第6章:逆行カノンの手掛かり

灰色の雲が垂れこめる昼下がり、アリアは学院の図書室からこぼれる淡い照明に目を細めながら、大きなテーブルいっぱいに楽譜とノートを広げていた。傍らにはリディアが古ぼけた文献をめくり、必要な箇所に付箋を貼りつけている。二人の背後に積み上げられた分厚い書物からは埃が舞い上がり、少し離れた場所で司書がくしゃみをしていた。


アリアが手にしているのは、少し前に見つけた「Song of Undred」の断片的な楽譜。それ自体は未完成なレクイエムのように見えるが、細かい書き込みや無数の修正跡があり、どうも通常の音楽理論では割り切れない仕掛けが存在するらしい。レクイエムの旋律をひっくり返したり、途中で譜面が交差するような部分があるということは分かってきたが、それを実際にどう活用すれば明るい曲へと変貌させられるのか、確信が持てずにいた。


「ここを逆行させると、確かに違う旋律になるんだけど、途中で不協和音が混ざるわね。たぶん和声の組み換えだけじゃ説明できない手法が使われてるんじゃない?」


リディアは鉛筆を片手にメモを取りながら、アリアの肩越しに譜面を覗き込む。バロック期の音楽には逆行カノンや蟹カノンと呼ばれるパズル的手法が存在するが、この「Song of Undred」はそれらと似ているようで、もっと大掛かりな反転が仕込まれているように思えてならない。


「今の理論じゃ解明しきれない部分があるってことだよね。誰が、いつこんな複雑な仕掛けを加えたんだろう……。」


アリアはペンの先で楽譜の一小節を指す。そこには五線の上に逆向きの音符が書き加えられ、さらに下段には別の旋律が重なるような形で置かれている。見方によってはレクイエムのモチーフだが、ひっくり返して追いかけると確かに明るい進行を示唆している。問題は、ここが完全な形にならずに尻切れトンボで終わっていることだった。


「それに、『アンドリッド』っていう存在が曲の歪みを生んでるとも言われてるでしょう? このメモだと、逆行カノンを完成させることでアンドリッドを封じられるかもしれないって読み取れるの。でも、どうしてレクイエムとセットになってるのかは、いまだによく分からない……。」


リディアが渋い表情で文献を閉じると、アリアは少しうなずいた後、深く息を吐いた。音楽祭のレクイエム演奏が大失敗に終わって以来、彼女はずっと「Song of Undred」の真実を突き止めたいと願っている。悲しみだけを増幅する呪われた曲なのか、それとも逆行によって祝福の旋律を呼び覚ませる曲なのか。今の段階では、どちらの可能性も否定できない。


「とりあえず、もう少し書き込みを整理してみよう。このページとこっちの手記の断片を見比べれば、ある程度つなぎ合わせられそう。」


アリアは机の上の紙をかき分けながら、レクイエムの一節を逆向きに書き換えたノートを取り出した。そこにリディアが指摘した和声の不自然さをメモし、どの部分をどう修正すれば自然につながるか考察していく。すると、物理的に音符を上下逆さに貼り直すアイデアが出てくるほど、パズルじみた作業になってしまう。


やがて二人は、明らかに疲労を感じ始めた。そんなとき、図書室の隅にいた教員が「そろそろ閉館だよ」と声をかけてくる。アリアはもう少し粘りたかったが、徹夜覚悟でこもれる場所でもないため、渋々資料を片付け始めた。ノートと古文書を抱えながらリディアが言う。


「今日は一回、一部だけでも試しに演奏してみる? フルートと歌だけじゃ限界があるけど……どんな音に変化するか、少しでも確認したい。」


「そうだね、やってみよう。ただ、これ全部をいきなりやるのは無理だから、レクイエムの冒頭部分だけ反転させたらどうなるか試そうか。」


二人は急ぎ足で図書室を出て、音楽棟の防音室へ向かった。そこは簡易的な練習室で、ピアノや譜面台が置かれているが、予約を入れていないと使えないことも多い。運よく空いていた部屋を見つけると、中に入って早速譜面を広げた。


「ここがレクイエムの始まり。それを逆向きに読み解くと、音程はこんな感じ……。」


アリアは修正したノートを指しながら、低い声で歌い始める。いつものレクイエム進行なら最初の数小節ですでに陰鬱な響きが漂うはずだが、逆行しているためか、不思議と明るい光が差すような旋律が見え隠れしている。まだぎこちない音程の上昇と下降を繰り返すだけだが、アリア自身が「これ、いつものレクイエムと違う」とはっきり感じるほど、曲調が変化しているのが分かった。


リディアもフルートを合わせてみる。最初は戸惑いながら指を動かしていたが、アリアの声と絡むうちに少しずつ噛み合い、やがて短いながらも明るい旋律が形をなしていく。


「……これ、確かに暗さが薄まってる。一瞬だけど、希望を感じる和声が出てきたね。」


リディアは目を丸くして、楽譜をもう一度見返した。まだ未完成で、途中の音程が不安定だったり、続くはずのパートが見当たらなかったりするが、それでもレクイエムにない高揚感がそこに存在している。


「すごい……本当に曲が反転してるんだ。私、こういうのは理論の本で読んだことはあるけど、実際にやってみてここまでガラリと印象が変わるとは思わなかった。」


アリアは胸が高鳴るのを感じた。もし最後まで逆行カノンを完成させれば、レクイエムを完全に祝福の曲へ転じさせる可能性があるのではないか。もちろん、そんなに簡単ではないし、足りない楽器やパートも多い。だが、手応えは確かにある。


一方、ノエルはその日の夕方も学院に残らず、家に戻っていた。自室の机には埃をかぶった小さな箱が置かれており、中には古いノートや書き込みだらけの譜面、さらに両親の写真などが雑然と入っている。長らく封印してきたものを、今こそ見るべきではないか。アリアが逆行のヒントを掴んでいるなら、自分も何か手伝えるかもしれない。


しかし、蓋を開けてノートを取り出そうとすると、あの日の惨劇がフラッシュバックする。夜の暗い部屋で、「Song of Undred」を巡って両親が言い争う声。どこからともなく感じた不気味な影の存在。自分は何もできないまま、気づけば全てを失っていた。そうした記憶が襲いかかってきて、ノエルは何度も呼吸を整えようとするが、なかなか落ち着けない。


「くそっ……。」


ノエルは衝動的にノートを机に放り出しそうになったが、そこに書かれた文字が目に止まった。「歪みを正すには逆行に加え、欠けた和声を補う必要あり」とある。父親か母親の筆跡かは定かではないが、どうやら両親も単純な逆向き演奏ではなく、別の要素が必要だと考えていたらしい。それがまさに、今アリアたちが手詰まりを感じているポイントかもしれない。


「もし、あいつらに見せてやったら……。いや、でもまたあの悲劇が繰り返されるかもしれない。」


ノエルは頭を抱えながら、ノートをめくる。そこにはいくつもの楽譜が貼り付けられており、ところどころ書き直しや赤ペンでの修正が目立つ。さらに端のほうに「欠落した三つの鍵」「一つ目は扉を開き、二つ目は……」という不可解なメモまである。これが歪みを正す具体的な方法を示しているのか、それともただの走り書きなのか判別がつかない。


夜になってもノエルはノートをにらんだまま動けず、ベッドに倒れ込むようにして目を閉じた。心の奥では「アリアに伝えたい」と思う反面、「また誰かを傷つけるかもしれない」という恐怖が渦巻いている。結局、その日は何も決断できないまま朝を迎えることになった。


一方、アリアとリディアは翌日も引き続き逆行カノンの研究を続けていた。まずは実験としてレクイエムの冒頭部分を完全に反転し、無理やりつなぎ合わせる形をとったところ、不協和音が頻発しながらも、新たなメロディラインが浮き彫りになり始めている。二人は「あれ、ここだけやけに澄んだ響きになった」「この小節のつなぎがどうしても変」などと試行錯誤を繰り返し、少しずつ演奏に慣れてきた。


「やっぱり欠けてるパートがあるんだよね。フルートと歌だけじゃ、絶対に埋まらない空白がある気がする。ピアノか他の伴奏が必要なのかな?」


リディアがつぶやくと、アリアは小首をかしげた。「ピアノならノエルが弾けるけど、今の彼が弾いてくれるかどうか……。それに、たぶん楽器を増やすだけでは解決にならないと思う。」


楽譜を見つめると、一部の記号や音符のつながりがどう考えても半端なところで途切れているのが分かる。まるで誰かが途中まで書きかけて放置したか、あるいは意図的に欠落させているようにも見える。いわゆるパズル音楽なら、回答がどこかに用意されていてもおかしくないが、彼女たちはいまだにそれを発見できずにいた。


それでも、部分的に「明るいメロディが確かにある」ことを確認できたのは大きな成果だ。レクイエムとしての暗いテーマを反転させて生まれる希望の音。二人がこれを知っただけでも、アリアが再び「Song of Undred」に取り組む意義を見出すには十分だった。


その夜、リディアは一人でフルートの練習をしていた。学院の音楽棟はもうほとんど誰もいない時間帯で、廊下に足音が反響するほど静まり返っている。リディアは先ほどアリアと一緒に試した逆行メロディを少しでも洗練させようと、頭の中で音程を組み立てつつ、慎重に指を動かした。


「……本当に、なんだか明るい。レクイエムと同じ音列なのに、こうも違うのか。」


彼女は半信半疑だったが、吹いてみるとやはり不思議な感覚に包まれる。ただ、途中で「あれ?」と音が空転するような箇所があり、そこで先へ進めなくなる。きっとこのあたりに足りない音やコード進行があるのだろうと推測できるが、それが何なのかはわからない。リディアは楽譜に書き込まれた空白を見つめ、思い切って自分なりに補完する音を吹いてみたが、どうにも合わない。


「ここの空白が埋まれば、曲が繋がる気がするのに……。」


もどかしくなって首をひねっていると、誰かが廊下を歩く気配がした。慌てて戸を開けてみると、そこに立っていたのはノエルだった。彼もまた、こんな夜更けに学院に来ている理由は分からないが、気まずそうにリディアを見ている。


「……おまえ、こんな時間まで?」


「うん。逆行メロディを何とか形にしようとしてた。アリアは体調を考えて先に帰ったけど、私はどうしてももう少しだけ試してみたくて。」


リディアが素直に答えると、ノエルは複雑な表情で視線をそらした。何か言いたげな雰囲気を滲ませているのに、口を開かない。リディアは意を決して、そっと問いかけた。


「ノエル。あなたはピアノを弾く気はないの? 今のアリアと私だけじゃ、限界がある。もし本当に祝福のメロディを完成させたいなら、あなたの力が必要なんじゃないかと思うの。」


その言葉にノエルは苦しそうに唇を噛んだ。過去の惨劇のせいでピアノが弾けなくなったわけではない。技術的にはまだ十分弾けるだろう。むしろ、幼い頃に天才と呼ばれたほどの腕前を持っていた。しかし、あの音に触れるたび、家族の思い出が蘇り、心を締めつける痛みが襲ってくる。それを再び味わうくらいなら、弾かずにいた方がましだ。そう思い込んできた。


「正直、怖いんだ。俺がピアノを弾いたら、また何か悪いことが起こるんじゃないかって。家族を失ったのは“Song of Undred”のせいだと思ってるから、なおさら……。」


弱々しい声でそう漏らすノエルを、リディアは責めなかった。むしろ同情や理解を示すように穏やかな眼差しを向ける。


「わかるよ。でも、もし本当に“Song of Undred”を歪ませているのがアンドリッドの力なら、それを正せるのはノエルの才能かもしれない。あなたの両親が未完成のまま残した手がかりを、今こそ引き継ぐときなんじゃないの?」


ノエルは返事ができないまま俯く。自分の持つ才能に期待が集まるほど、皮肉にも彼のトラウマは強くうずく。過去の苦しみから目を背けるように「無理だ」と言いたい反面、アリアの真摯な姿を見てから、心の奥に小さな灯がともっているのを否定できない。あの曲が本当に祝福に変わるなら、自分を救ってくれるかもしれない――そう思い始めている自分に気づいてしまう。


結局、ノエルは何も言わずにリディアの前を通り過ぎ、廊下の先へ去っていった。リディアは追いかけもせず、フルートを握りしめたままその背中を見送る。足音が遠ざかり、静寂が戻ると、不意に胸がざわつく。彼が決断するまでには、まだ時間が必要なのだろう。それでも、きっとノエルはこのまま曲に背を向けていられないはずだ。そんな確信にも似た予感が、リディアの心に芽生えていた。


翌朝、アリアが音楽棟の小ホールへ行くと、入り口にノエルが立っていた。彼は気まずそうに頬をかきながら、「ちょっと試したいことがあって……」と呟く。アリアは目を丸くした。ノエルが自分から音楽に関わろうとするなんて、最近では考えられない行動だ。心臓がドキリと高鳴る。


「試したいことって……もしかしてピアノを?」


「そこまではわからない。でも、昨日家にあった両親の手記をもう少し読んでみたら、逆行カノンに関するヒントみたいな書き込みを見つけてさ。それをアリアたちがどう活かせるかわからないけど、とりあえず話しておこうと思って。」


ノエルはそう言いながら、鞄から古びたノートを取り出す。アリアは思わず息をのんだ。ノエルが進んで両親の遺した物を持ち出し、彼女に見せるなんて想像もしなかったからだ。


「ありがとう。見せてもらってもいい?」


「まぁ……このページだけなら。」


ノエルはしぶしぶといった様子でノートを開き、紙の隅を指差した。そこには音符がぎっしりと書き込まれ、赤と青の色鉛筆で矢印のようなラインが何本も引かれている。「ここをこう辿れば、レクイエムが反転し始める。だが、このままでは和声が足りない……」そんなメモが走り書きされ、さらに「鍵盤が必要か」「消えた声部を探せ」とも付け加えられていた。


「鍵盤が必要って……やっぱりピアノとかオルガンのパートが必要なのかもしれないね。」


アリアは納得するように頷く。両親が到達しかけた逆行カノンは、最低でも三声か四声のパートを要する複雑な構造になっているらしい。フルートとボーカルだけでは無理があるのだろう。そこにキーボード系の楽器が加われば、多声を保管できる可能性が高い。


「弾けるのはノエルしかいないと思う。ごめん、プレッシャーかけるようで申し訳ないけど……私たち、どうにもそこを埋められなくて。」


アリアの目にはやはり期待の色が滲んでいたが、ノエルは苦い顔をしたまま何も答えない。しかし「試したいことがある」と言って来たからには、多少の覚悟はあるらしい。二人は小ホールの中へ足を踏み入れ、ステージ脇に並ぶピアノを見やる。そこには黒く光るグランドピアノが一台鎮座しており、弾く者を静かに待っているかのように見えた。


「……もし弾くとしたら、ここなら誰にも邪魔されない。練習中の人もあまりいない時間帯だし。」


アリアがそう勧めると、ノエルは戸惑いつつもピアノの前に近づいていく。鍵盤の手前に立つと、明らかに手が震えていた。彼は恐る恐る椅子に腰を下ろし、指を鍵盤に置く。


「あのとき以来、まともに弾いたことがないんだよ……。」


声が弱々しく震える。あの日――家族を失うきっかけとなった惨劇以来、彼がピアノに触れるのはほぼ初めてだろう。アリアも黙って見守るしかない。ノエルは意を決して一つの鍵を押した。低いCの音が小さく鳴り、ホールの空気を振るわせる。何の変哲もない単音なのに、ノエルの中では波紋のように記憶が揺さぶられる。


「だめ……いや、まだ……。」


彼はぐっと目を閉じ、手を離そうとする。しかし、そのとき何かが背中を押した。ここで逃げたら、何も変わらない。アリアが掴みかけている手がかりも無駄になるかもしれない。家にあった両親の書き込みだって、決して意味のないものじゃないはずだ。


「……そうだな。やってみるしかないか。」


覚悟を決めたようにノエルは息を吐き出し、もう一度鍵盤に指を落とす。今度は左手と右手で和音を作ってみた。古びた記憶が指を動かし、わずかながらスムーズなコード進行が浮かぶ。歪んだ記憶だけでなく、かつての天才少年だった頃の身体感覚も蘇ってくるようだった。アリアが隣で固唾をのんで見守る中、ノエルは短く何小節かフレーズを弾いてみる。


「まだ指が動くんだな……意外と覚えてるもんだ。」


声には驚きが混じる。もちろんブランクはあるが、完全に失ったわけではない。彼は恐る恐る、両親のメモにある逆行カノンの導入部を思い出そうとする。細かい音の進行は曖昧だが、幸いアリアの修正した楽譜がある。それをちらりと見ながら、左手で低音を刻み、右手でメロディをなぞり始めた。


ひとつ、ふたつと小さなミスが出るものの、レクイエムの出だしを逆転させた不思議なメロディが形を取り始める。アリアはわずかに息を飲む。フルートや声だけでは埋められなかった空白を、ノエルのピアノが補っているのを感じたからだ。


「そう、そこ……すごくいい感じ! 待って、私も合わせてみる!」


アリアは声を弾ませ、その場で思い切って歌詞なしのハミングを入れる。すると、ノエルの鍵盤とアリアのハミングが重なり合い、先日リディアと部分的に試したメロディよりもはるかに輪郭のはっきりした旋律が生まれてきた。低音で奏でるコードが支えとなり、高音域で反転したレクイエムが上昇するたび、かすかな光が差し込むような感覚がホールに広がっていく。


「これ……本当に、重苦しさが薄れてるね。」


ノエルも思わず弾きながら声を漏らす。呪われた曲だと思い込んでいたレクイエムが、少なくとも冒頭部分だけは明るく切り替わりそうな兆しがある。胸の奥にこびりついていた恐怖が、ほんのわずかだけほどけていく気がした。だが同時に、まだ何かが足りないという予感も拭えない。和音が濁るような箇所や、妙に不安定な転調が見受けられ、先へ進むのを戸惑わせている。


「でも……ここで止まるか。」


指を動かしているうちに、不自然な休止を挟まないと先に行けない小節にぶつかる。音が宙ぶらりんになり、アリアのハミングも続けようがない。この先の繋ぎをどうするか、楽譜にもはっきりした答えは記されていない。ノエルは鍵盤から手を離し、顔をしかめた。


「やっぱり欠けてるパートがあるってことか。それに、もしかするとフルートとか他の楽器も合わせないと完全にはならないのかもしれない。これだけだと無理矢理音をつないでるだけだし。」


「うん。でも、ここまで音が繋がっただけでも大きいと思う!」


アリアの声には明るさがある。彼女はノートにささっと書き込みをし、「ノエルが使ったコード進行」のメモを残した。こうした小さな成果を積み重ねれば、いずれ逆行カノン全体を組み立てられるかもしれない。レクイエムという暗い面をひっくり返すだけではなく、足りない要素を補ってこそ、真の祝福が生まれる可能性がある。


そのとき、扉の外からリディアが顔をのぞかせた。どうやら二人の演奏に気づいて寄ってきたようだ。彼女は楽しげな驚きを含んだ眼差しで、「何か進展があったの?」と尋ねる。アリアが「ノエルが少しだけピアノ弾いてくれたの!」と答えると、リディアは目を丸くしてノエルを見やる。


「本当? すごいじゃない……。ノエル、よく頑張ったね。」


「別に、ちょっとだけだよ。」


ノエルは照れ隠しのように目をそらすが、リディアは嬉しそうに微笑んだ。これだけでも大きな一歩だ。まだ完全に過去を乗り越えたわけではないにせよ、ノエルが再び音楽に触れようとした事実そのものが、彼自身やアリアにとって救いになるかもしれない。リディアは二人を交互に見ながら、先日試したフルートのパートとの合わせを思い描いた。


「今度、私のフルートも入れて三人で試してみようよ。ちょうど、導入部だけなら短いから合わせられるでしょ?」


その提案にアリアは即答で「やりたい!」と答えたが、ノエルは少し考え込む顔をした。それでも、「まあ、少しくらいなら……」という返事を口にするまでに、先ほどほど時間はかからなかった。演奏への抵抗感はまだ残るものの、少なくとも彼が完全に拒否しているわけではないことがうかがえる。


こうして、三人はレクイエムを逆行させる試行演奏を少しずつ進める準備を始める。もちろん、「Song of Undred」は単なる逆行カノンだけで片づくほど単純な曲ではないし、アンドリッドがもたらす歪みがいつどう干渉してくるかもわからない。それでも、互いに補い合い、足りない部分を探り続ければ、いつか本当の祝福へ到達できるかもしれない――そう信じる気持ちが、かすかながら確かに生まれつつあった。


その日の夜、ノエルは帰宅してからもう一度両親のノートに目を通した。逆行カノンという言葉は何度も出てくるが、それだけではなく「三声以上のパートが不可欠」「正と反の統合に鍵がある」「欠落した和音を探せ」といったヒントも散りばめられている。幼いころのノエルは、両親が何をしようとしていたか理解できなかったが、いま少しずつ見えてきた気がした。


「本当に……歪みを直そうとしてたんだな、父さんも母さんも。」


一方で、その歪みの根源こそがアンドリッドである可能性が強い。もし両親がアンドリッドに飲まれたのだとしたら、果たして同じ道を辿ることにはならないだろうか。そうした不安も頭をよぎるが、ノエルは指をぎゅっと握りしめ、目をそらさずノートを読み続ける。もはや後戻りはできない。曲を放置すれば、いずれまた悲劇が起こるかもしれないし、自分自身がトラウマに縛られたまま生きていくことになる。


「アリアやリディアの力を借りながら、少しずつやってみるしかない。」


自分に言い聞かせるようにそう呟いたノエルは、机上に広げた譜面の空白に鉛筆で和音の試案を書き込んだ。幼少期に叩き込まれた音感が、まだかすかに身体に残っている。逆行したメロディをどう支え、どう転調させれば違和感なく祝福へつなげるか。頭の中にぼんやりとイメージが浮かび、それをひとつひとつ形にしていく作業は思いのほか苦痛ではなかった。


その翌日、リディアは音楽科の仲間から一時的に譲ってもらった小さな部屋で、フルートの練習をしながらノエルが書き込んだ和音を試してみる。彼の指示どおりに低音を連想して口笛を吹くと、確かにレクイエム特有の暗さが薄れていく。まだごく断片に過ぎないが、「これを積み上げていけば、完成に近づけるかも」と思えてくる。


アリアもアリアで、反転メロディに自然に乗せられる歌い方を模索していた。歌詞はレクイエムのものをそのまま使うわけにもいかず、旋律に合わせて新たな発音を考える必要がありそうだ。ある意味で曲を再構築している状態と言ってよい。これが簡単な作業ではないことは明白だが、やればやるほど今まで見えなかった光を感じられるから不思議だった。


こうして三人は、欠けているパートを探しながら少しずつ逆行カノンを形づくる作業を進めていく。もちろん、周囲が黙って見過ごしてくれるわけではなく、音楽科の学生たちからは「また『Song of Undred』か? 危険じゃないの?」と冷ややかな視線を向けられることも多い。にもかかわらず、アリアとリディアは堂々と「曲の再生」を目指しているし、ノエルもかつてのように逃げ出すわけではなかった。


学院の夕暮れ時、少し肌寒い風が吹き抜ける中庭で、ノエルは改めてアリアとリディアに向き合った。彼女たちの手には書き込みの増えた譜面があり、ノエルの鞄には両親のノートが入っている。二人は口々に「昨日の合わせで新しい和音が見つかったよ」「ここを乗り越えれば、中盤まで繋げられるかも」などと話し合い、ノエルは頷きながら鍵盤で補うべき音をメモする。


「あまり焦っても仕方ないけど、気づいたらけっこう曲が繋がってきた気がするわ。」


リディアがそう言うと、アリアも「うん、レクイエムとは全然違う印象の部分が増えてきたね」と微笑む。ノエルは照れくさそうに視線を落としつつ、小さく言葉を継ぐ。


「俺も……弾くのが少しずつ怖くなくなってきた。まだ全部を通して弾く勇気はないけど、部分的になら何とかね。」


その変化は、まさに逆行カノンが奏でる明るさとシンクロするかのようでもあった。どこかにまだ暗い影が潜んでいるのは間違いない。しかし、三人が手を取り合えば、少なくとも前に進める。そう確信できるだけの手応えが、各自の中に芽生え始めていた。


もちろん課題は山積みだ。レクイエム本来の悲しみが完全に拭い去られたわけではなく、途中で不協和音が生じる箇所の解決方法も見つかっていない。しかもアンドリッドがいつ、どんな形で曲の再生を邪魔してくるのか分からない。だが、アリアとリディア、そしてノエルの思いが少しずつ交わるように組み合わされていくにつれ、不思議なほど新しい音が形をなしていく。


日は沈み、学院の建物がオレンジ色に染まるころ、中庭で言葉を交わした三人はそれぞれの帰路についた。ノエルは夕焼けを背にしながら、そっとピアノで弾いた逆行メロディを頭の中で繰り返す。「こんな音があのレクイエムから生まれるなんて……。」改めて驚きと、ほんの少しの喜びを感じた。


「もし、最後まで逆行させて歪みを正せたら……あのときの両親が目指していたものを、俺が受け継ぐことになるのかもしれないな。」


そう思うと、これまでにない感情が胸の奥を温めるようだった。まだトラウマが完全に消えたわけではないが、少なくとも彼は“曲の再生”を本気で考え始めている。それこそが、アリアやリディアにとっても大きな希望につながるだろう。


夜の闇が訪れたころ、アリアは自室で譜面を眺めながら静かに笑みを浮かべていた。ノエルの協力によって、いままで埋まらなかった空白が少しずつ埋まっている。彼女自身が長く追い求めていた「Song of Undred」の祝福の旋律に、一歩近づいた気がしてならない。そして、そんな前進が彼自身の過去の傷を癒すことにもつながるなら、こんなに嬉しいことはない。


部屋の窓の外には、わずかな月明かりが差し込んでいる。アリアはふっと息を整え、短く鼻歌を口ずさんだ。逆行メロディのうち、最も印象的な部分だけを思い出してみる。確かに暗さが吹き飛ばされ、自然に微笑みがこぼれるような、不思議な感覚がある。これが全ての小節に行き渡れば、レクイエムは確かに祝福へと生まれ変わるかもしれない。


彼女はノートを閉じる前に、そこに大きな文字で書き込んだ。「いつか必ず完成させる」。自分への誓いのようなものだ。アリアは窓を見上げ、「Song of Undred」の先にある光を思い描く。かすかな月に祈るように、そっと目を閉じた。


窓の外では静かに風が流れているが、その暗闇の奥には“アンドリッド”の影がひそんでいるのかもしれない。逆行カノンの完成が近づくほど、曲を歪ませようとする力が強まる可能性も否定できない。しかし、もう前を向かずにはいられない。レクイエムと祝福がせめぎ合うこの曲を、最後まで弾き切り、歌い切りたいと三人は願っているのだから。


明日になれば、また新しい試行演奏が行われるだろう。リディアはフルートの音色を研ぎ澄まし、アリアは歌い方を微調整し、ノエルはピアノのコードを探る。欠けたパートを一つひとつ見つけ出し、暗闇に差し込む光を積み重ねていくことで、いつか全てが繋がるはずだ。三人はまだ知らないが、その先には運命を大きく動かす出来事が待ち受けているに違いない。そうとも知らず、彼らは「Song of Undred」が持つ逆行カノンの謎に、さらに深く踏み込んでいくのだった。

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