第5章:歪みを抱える楽譜
薄暗い朝の光が学院の中庭を横切るころ、ひんやりとした空気が石畳の上にうっすらと立ちこめていた。いつもなら活気に満ちたアリオーソ学院も、音楽祭での一件以来どことなく沈んだ空気をまとい、通り過ぎる学生たちは皆、よそよそしい視線を交わすばかり。噂好きの者たちが面白半分に「Song of Undred」を語り継ぎ、まだ詳しい事情を知らない新入生や外部の関係者にまで、その不穏な名前が伝わりはじめていた。廊下の一角では、「あの曲が原因で人々が具合を悪くしたらしい」「呪われたレクイエムだとか」――そんな声がひそひそとささやかれている。
一方、物語の中心にいるアリア・セレナーデは、人目を避けるように過ごしていた。先日の音楽祭でレクイエム版を演奏し、トラブルを引き起こしてしまった責任感と罪悪感で、彼女はほとんど外へ出ようとしない。代わりに、限られた時間だけ学院の資料室や図書館を訪れ、再び「Song of Undred」の本質を探るべく必死で古文書を読み耽っている。彼女の胸には「もし本来の姿が取り戻せるなら、人々を救えるかもしれない」という一筋の希望がくすぶり続けていた。
そんなアリアを支えているのは、フルート奏者のリディア・ハルモニアだけだ。リディアはできる限りアリアに寄り添い、図書室での調査を手伝ったり、気分転換に外の空気を吸いに連れ出そうとしたりと、あの手この手で彼女を励ましている。自分もあの音楽祭で散々な思いをしたはずなのに、いまだに決してアリアを責めることなく、「私たちで真実を確かめよう」と懸命に声をかけるのだった。
ある日の午後、リディアはメロディア史に関する大判の古書を抱えて資料室へ向かった。学院の奥まった場所にあるその資料室は、ふだん学生たちが足を運ばないせいか、薄暗く埃っぽい独特の空気が漂っている。机の上に古書を広げたリディアの前には、アリアの姿があった。アリアは何冊もの文献を積み上げ、やつれた顔でページをめくっている。
「少し休んだら? もう何時間ここにこもってるか分からないわよ。」
リディアは心配そうに声をかけるが、アリアは首を軽く振るだけだ。開いたページには、「Undred」という表記が古い書体で記されており、その脇には「もとは祝福を司る音色であった」「しかし何らかの理由で歪みを生じた」――そんな断片的な記述が見て取れる。そこに加えて、最近リディアが別の文献で見つけたという単語、「アンドリッド(Andrid)」の名前も散見されていた。
「見て、ここにも書いてある。“アンドリッド”って呼ばれる存在が“Song of Undred”に深く関わっていたらしいって。でも具体的に何をしたのかは不明瞭なの。いろんな資料で示唆されるだけで、核心に触れる記述は見当たらない。」
アリアはため息まじりにページを指し示す。リディアも椅子を引き寄せ、肩越しに文字を追う。かすれたインクで書かれた文章の中に、「アンドリッド」が曲の歪みと同時期に出現したという記述があり、さらに「祝福が呪いへと変質したのはアンドリッドの仕業」とも読める箇所が見つかった。
「もともとは、本当に祝福をもたらす曲だったのかもしれないね。昔の時点では『Song of Undred』は多くの人を癒したり、励ましたりするような、そういう力を持っていたと考えられる。でも、いつのまにかレクイエムへと変貌してしまって――そこにアンドリッドが関わっているってこと?」
リディアがそう推測すると、アリアはうつむいたまま唇を噛みしめる。音楽祭のステージでレクイエム版を披露し、思わぬ惨状を引き起こしてしまった光景が脳裏をかすめる。あのとき感じた悲しみと絶望は、単なる舞台のトラブルだけでは説明しきれないほどの重い空気を伴っていた。「やはり本来はこんな曲ではなかったのかもしれない」と思うと同時に、「私が何とかしなければ」という責任感にも押しつぶされそうになる。
「あのとき、私が無理にレクイエムとして歌ったことで、周りの人たちを悲しみに巻き込んでしまった。もし“Song of Undred”が本来、祝福の曲だったのなら、私のやったことは正反対だったのかも……ごめんね、リディア。あなたにも迷惑をかけた。」
アリアは申し訳なさそうに頭を下げる。リディアは首を振って、「そんなこと言わないで」と即座に応じる。
「私こそあのときは何もできなかった。フルートを吹いてたけど、不安に負けて音を外してしまったし……。だけど、もし祝福の形が本当にあるなら、見つけたい気持ちは私も同じ。あなた一人が背負い込む必要はないよ。」
二人は一瞬だけ微笑みを交わすが、その背後には「アンドリッド」という名前の影が重くのしかかっていた。何者なのか、どんな正体で、どうやって“Song of Undred”を歪めたのか。曖昧な記述ばかりが増えていき、真相に近づくどころか謎は深まる一方だ。
その頃、ノエル・フォルティスは学院の屋上で風に吹かれていた。音楽祭での一件から日にちが経ち、表向きは普段どおり授業に出ているものの、周囲にはどこか殺気立った雰囲気を漂わせているせいか、誰も近づいてこようとしない。音楽科の学生たちも一時期よりは落ち着いてきたが、彼を呼び止める理由もないと悟ったのか、距離を取る者が多くなっていた。
「やっと放っておいてくれるか。」
ノエルは一人つぶやき、柵にもたれかかる。遥か下の中庭では、学生たちが行き交っているのが見えるが、音楽祭ほどの熱狂はもう感じられない。あのレクイエム騒ぎは一時的に学院を混乱に陥れたが、日常はすぐに形を取り戻すのだろう。ノエルにしてみれば、そのまま“Song of Undred”も学院から忘れ去られてくれればどんなに楽だろうかと思う。
だが、トラウマはそう簡単に消えてはくれない。彼は思い出す。幼い頃、父と母が熱心に楽譜を解析していたこと。「祝福の欠片を取り戻せば、大きな奇跡が起こる」と、はしゃぐ母の姿。ノエルは当時、その理由も意味も知らず、ただ両親が嬉しそうに演奏する姿を見て微笑んでいた。しかし、あの夜を境にすべてが崩れ去った――“アンドリッド”という得体の知れない名前が浮上し、家族は惨劇に巻き込まれた。
「もし、あのとき親父やお袋が無謀な挑戦をしてなければ……。 ‘Song of Undred’なんてなければ……。」
ノエルは下唇を噛みながら、自分の中に噴出しかける怒りをこらえる。アリアの姿が脳裏にちらつく。彼女の声や涙、「この曲を正しい形で歌いたい」という言葉。そんなものはすべて自己満足だと否定しきりたい自分と、彼女の純粋さを信じたい自分が拮抗している。音楽に背を向けたいのに、どこかで音楽に救いを求めているような矛盾に苛まれていた。
その日は夕刻になると大粒の雨が降り出し、学院の中庭を雨粒が打ちつける音だけが響いた。生徒たちは傘を差して急ぎ足で帰路につく。ノエルはあえて雨に濡れながら門を出て、寂れた街の路地を通り抜ける。濡れたコンクリートの匂いが鼻をつき、古びた外灯が瞬いている。家路へ向かう途中、ふと雑居ビルの一階にある楽器店のショーウィンドウが目に入ると、そこに飾られたピアノがかすかな明かりを受けて映っていた。
「……いらない。」
ノエルは誰に言うでもなく、呟きながらその場を立ち去る。ピアノに触れると幼い頃の自分を思い出すからこそ、彼は楽器そのものを見たくないという思いが強い。音楽が全ての悲劇の根源だと信じてきた。だけど本当に、それだけなのだろうか。アリアが信じるように、“Song of Undred”に祝福の形があるとしたら、自分の考えは一体どこへ行くのか──そんな疑問が、いつも雨のように鬱屈と胸を打つ。
翌日、リディアはアリアを連れて学院の小ホールに向かった。特に用事はないと言えば嘘になる。実はここのピアノに古い楽譜が保管されていると聞きつけ、管理担当の教員に許可を取って弾き込み室を開放してもらったのだ。アリアはやや無気力そうな表情を浮かべていたが、「わずかな可能性でもいいから探したい」という執念にも似た感情が、彼女を行動へ駆り立てている。
小ホールの裏手には、埃をかぶった譜面棚があり、そこには過去の公演で使われた楽譜や音楽祭のプログラムが無造作に放り込まれている。リディアが一枚一枚チェックしていると、やがて一冊の薄い冊子を見つけた。それは「Song of Undred」と直筆で表紙に書かれていて、中を開くと複数の修正跡が残る楽譜のコピーが挟まっている。
「これ……レクイエムじゃない?」
アリアが目を見開いて楽譜に触れる。確かにレクイエム特有の重苦しい和音の連なりが記されているが、要所要所で別の音符が付箋のように貼り付けられており、その上から薄い鉛筆書きで「Reverse?」というメモが走り書きされていた。
「逆行させるっていう意味かもしれない。昔から、バロック音楽とかには逆行カノンの概念があるし、ここの譜面を書き換えた形跡があるように見える。」
リディアが手がかりを指し示すと、アリアは無言でペンを取り、必死にその部分を写し取っていく。もしかすると、これがレクイエムを祝福へと反転させるヒントになるかもしれない。そう思うと心が少しだけ浮き立つ。しかし、同時にページの片隅には「Andrid」の文字がこすれたように残っており、「歪みをもたらす力」「浄化を妨げる存在」という不穏な言葉も読み取れる。
「アンドリッド……やっぱりこの名が付いて回るんだね。」
アリアは思わず声に出してしまう。リディアも唇を結び、「あの音楽祭の日、どこかで“あれ”が暗躍していたのかもしれない」と背筋を寒くする。結局、二人はその古い楽譜を丁寧に模写し、元の場所に戻した。管理教員には「古い譜面の一部を研究したい」とだけ伝え、詳しい内容には触れずに済ませた。自分たちが余計な噂を広めていると誤解されれば、また面倒なことになる。
いっぽう、ノエルはその日の夕方、職員室へ向かっていた。ある先生に呼ばれたのが理由だが、何となく嫌な予感がしてならない。案の定、着いてみると音楽科の教師数名が集まっており、その中にはノエルの親を知る人物もいるようだった。年配の男性教員が声をかける。
「ノエル・フォルティス。おまえは音楽科にこそ行くべき才能だという話を昔から聞いていたが、今は一般科だそうだね。少しばかり話がしたいんだ。」
ノエルは警戒を強める。「……すみませんが、急いでいるので手短にお願いします。」
すると教員は怪訝そうな表情を浮かべるが、構わず続けた。「先日の音楽祭であのレクイエム騒ぎがあったが、フォルティス家と“Song of Undred”に何らかの縁があるという噂を耳にしてね。アリア・セレナーデの子とも関わりがあるのではないかと思うんだが、どうかな。」
「別に……僕は何もやってません。巻き込まれただけです。」
ノエルはそっけなく答える。すると隣にいた別の女教師が口を挟む。「ただ、あなたのご両親は“Song of Undred”を研究していたという記録が学院の資料に残っているわ。もしアリアさんがあの曲の本来の姿を追い求めているなら、あなたが協力してあげれば事態が好転する可能性もあるのでは?」
ノエルは思わず声を荒らげそうになったが、何とか抑え、「そんなもの、僕には関係ありません」とだけ返した。教員たちはあまり強く引き止める様子もなく、彼を見送る。ノエルは職員室をあとにするや否や、やり場のない苛立ちを抱えたまま廊下を突き進んだ。
(どうして皆、俺に“Song of Undred”を押し付けようとするんだ。家族を失ったのはこの曲のせいだっていうのに。)
その足でノエルは旧校舎の廊下に向かう。人気のない場所に行くと心が落ち着く──そう思いたかったが、そこには薄暗い光が差し込むだけの静寂が横たわり、むしろ不安が増幅する。幾度となく感じた“アンドリッド”の影を思い出し、ノエルの胸はざわざわと騒いだ。
すると、廊下の奥のほうで誰かが倒れ込むような気配がした。慌てて駆け寄ると、そこにはアリアがうずくまっていた。どうやら資料探しの帰りに身体の調子を崩したらしい。リディアの姿が近くにいないのは、きっと先に用事で別れたのだろう。
「アリア、おい……大丈夫か?」
ノエルは戸惑いながらも声をかけ、彼女の肩を支える。アリアは顔色が悪く、目にうっすらと涙を浮かべていた。しばらく呼吸を整えたあと、かすれ声で答える。
「ノエル……ごめん、なんだか急に体が重くなって、立っていられなくなったの。私、最近ずっと無理をしてたかもしれない……。」
ノエルは何も言わず、アリアをそっと支えながら近くの木製のベンチへ誘導した。彼女を座らせ、自分は隣に腰掛ける。先日の音楽祭以来、ほとんど顔を合わせなかった二人だが、その距離がわずかに縮んだようにも感じられた。
「おまえ、まだ“Song of Undred”を諦めてないのか。」
ノエルは当たり障りのない質問に逃げたつもりだったが、アリアははっきりと「うん」と答える。悲しみに潰されそうになりながらも、なお曲の真実を追い求める決意は揺らいでいないようだ。
「もし、この曲が本当に祝福をもたらす存在だったとしたら、私はなんとかしてそれを取り戻したい。いまは歪んでレクイエムになってるけど、本当は……」
そこでアリアの言葉が途切れ、彼女はノエルの瞳をじっと見つめる。ノエルは一瞬視線をそらしたくなったが、逃げずに受け止めようと覚悟を決めた。するとアリアが言葉を続ける。
「ノエルは“アンドリッド”って名前を嫌ってるよね。過去に何かあったんだろうって、察しはつく。でも、もしかしたら“アンドリッド”こそが曲を取り戻すカギになるのかもしれない。私はそう思うの。だから、あなたの力が必要……と言ったら、迷惑かな。」
ノエルはぐっと唇を噛む。彼女の訴えは、まさに彼が避け続けてきた痛みの核心を突いてくるものだった。けれど、アリアの瞳には以前と違った強さと悲しみが共存しているように見えて、冷たく突き放すことができない。
「俺だって……この曲がただの呪いじゃなく、本当に祝福を取り戻せるものであれば……救われるかもしれないと、どこかで思ってるのかもしれない。でも、信じた先にあるのが失望と絶望だったら、どうするんだ。おまえが傷つくだけだ。」
思わず本音がこぼれ出た。アリアはその言葉を聞き、ゆっくりと首を横に振る。
「もう十分、私は傷ついたよ。でも、傷ついて終わりにしたくない。もし私が逃げたり諦めたりしたら、この曲はずっと不幸と悲しみをまき散らすだけの存在になってしまうかもしれない。レクイエムとして歪み続けるかもしれない。そんなの嫌なの。」
ノエルは黙り込むしかなかった。遠くから外の風が吹き込み、埃っぽい廊下をかすかな気流が駆け抜ける。二人はそれを感じながら、しばし言葉を交わさないままの時間を過ごす。アリアの身体が少し安定してきたのを確認し、ノエルは半ば無意識に彼女の手を握った。アリアが驚いた顔をするが、ノエルもまた不思議なほど自然に感じる。
「……わかった。大きなことはできない。だけど、少しだけなら力になってやってもいい。」
その言葉を聞いたアリアは、目にうっすらと涙をためて微笑んだ。彼女の顔には確かに疲れや悲しみが残っているのに、その表情には一瞬、確かな光が差し込んだように見える。ノエルの胸にはズキリとした痛みが走るが、それはひょっとして希望の痛みなのかもしれない。
夕闇が近づくころ、リディアは図書室で見つけた手がかりを整理していた。逆行カノンの仮説や、レクイエムの音列を上下逆さにする考え方、そこに「アンドリッド」の存在がどう作用するのか。書き出されたメモは複雑で、どこから手をつけていいのかすら分からないほどだ。しかし、最後の行には力強くペンで走り書きされた言葉がある。「必ず見つける:祝福の旋律」。リディア自身、アリアの熱意に触発されて、いつしかこの曲の“本来の姿”というものを心の底で信じはじめていた。
一方、ノエルの中にも小さな変化が芽生えつつあった。長い間封印していた家族の手記や楽譜を、少しだけ見返してみようかという気になっている。もちろん、そこには恐ろしい記憶が蘇る危険があるが、アリアがあれほど必死に求めている“祝福”がどんなものなのか──それを自分なりに確かめてみたいという思いが生まれていたからだ。トラウマの傷は深いが、彼女の真剣さはノエルの心を少しずつ動かしはじめていた。
こうしてそれぞれが揺れる思いを抱きながら、“Song of Undred”の本当の姿を取り戻すための道のりを模索していく。リディアは古文書のさらに奥深くへ手を伸ばし、アリアは体調を整えつつ練習方法を探す日々を続ける。ノエルは家に戻ってから埃をかぶった箱を開き、かつて父母が残した楽譜の断片に手を伸ばす。そこには赤いインクで書かれたメモ書きがあり、“Reverse Canon”“Blessing Shift”といった単語が散乱していた。
「本当に、これが歪みを直すヒントになるのか……。」
ノエルは自分の胸が高鳴るのを感じ、同時に強い不安も襲ってくるのを抑えきれない。成功すれば祝福を取り戻せるかもしれないが、失敗すれば再びレクイエムの負の力に飲まれるかもしれない。その先に“アンドリッド”が待ち構えているとすれば、どんな結果が待ち受けるのだろう。考えすぎて頭が痛くなる。
それでも、かすかながらに光は見えている。以前のノエルなら、「曲なんて捨てればいい」と一蹴していただろう。けれど今はアリアの必死な姿が脳裏にちらつき、どこかで自分も救いを求めていることを認めざるを得ない。祝福の旋律がもし本当にこの世に存在しているなら、彼はそれを自分の手で確かめたいと思い始めているのだ。
そして“アンドリッド”──多くの謎を孕んだこの存在は、曲の歪みとともに不可解な足跡を残してきた。リディアが調べた文献には、「魂の悲しみを糧にする」という一文もあり、音楽祭で起こった不気味な現象がアンドリッドの仕業ではないかと疑う者も増えていた。もしこの存在を排除しない限り、レクイエムは鎮魂歌のまま人々を蝕むかもしれない。だが、どう排除し、どう曲を元に戻すのかは、まだ誰にも明確な答えが見つからない。
アリアの想いは、日を追うごとに強くなる。「もし本来の姿を取り戻せれば、人々を救うどころか、新しい音楽の可能性さえ切り開けるかもしれない」という期待。かつて音楽祭で迷惑をかけてしまった申し訳なさ。そしてノエルやリディア、周囲の仲間たちが犠牲になるかもしれないという恐怖が、彼女の胸でせめぎ合っている。それでも、「やらなければ何も変わらない」と自らを奮い立たせるしかなかった。
学院の鐘が夕刻を告げるころ、リディアは図書室のテーブルいっぱいに広げた資料を閉じて、アリアに声をかける。
「ねえ、一度しっかり休もう。明日からまた手分けして調べようよ。あまり根を詰めすぎると体を壊すわ。」
アリアは微弱にうなずき、目元をこすった。確かに夜になれば館内は閉まるし、これ以上閲覧を続けるのも限界がある。二人は互いの荷物をまとめ、重い扉をそっと閉めた。廊下を歩くと、窓の外には茜色の夕空が広がっている。いつの間にか雨は上がり、湿った空気がどこか涼しさを運んできていた。
「リディア、ありがとう。あなたがいなかったら、私、もうとっくに心が折れてたと思う。」
アリアは弱々しく微笑む。リディアは首を横に振り、「私だって、あなたがいたからこそ、フルートを吹く意義を見失わずにいられるの」と返す。その言葉に救われるように、アリアは少しだけ顔を上げた。
二人が昇降口へ向かうと、そこには珍しくノエルが立っていた。どうやら帰り際にバッタリ会ったらしい。三人は気まずい空気に沈黙したが、ノエルが先に口を開く。
「……あれから、少し考えたんだ。 ‘Song of Undred’を逆行させる方法があるかもしれないって話、俺の家にも資料があるかもしれない。」
リディアは「本当?」と目を輝かせる。アリアも思わず胸が高鳴るのを感じた。ノエルが具体的な協力の姿勢を見せるのはこれが初めてかもしれない。
「ただ、俺も怖いんだ。昔のメモとか楽譜を見返せば、あの事故の記憶が甦るかもしれない。どんなことが書いてあるかも、まだ全部は把握してない。でも、おまえらが本気で祝福の形を見つけたいって言うなら……俺も向き合ってみようかと思う。」
その言葉を聞いて、アリアは涙ぐみそうになる。リディアもまた胸がいっぱいになった様子で、そっとノエルの肩に触れ、「ありがとう」と言葉をかける。三人の間には、今まであった微妙な亀裂と葛藤が渦巻いているにもかかわらず、その一歩が確かに新しい局面を開くかのように感じられた。
外はすっかり夕闇に包まれ、学院の門を出るころには街灯がともり始めている。アリアとリディアは連れ立って帰路につき、ノエルは別の方向へ足を向けた。深い秋の夜風が吹き抜け、どこか遠くで小さな虫の声が聞こえる。
“Song of Undred”の楽譜は歪みを抱えたまま、なおも人々を惹きつけ、同時に苦しめている。けれど、その闇の向こうには祝福の光があるのかもしれない。確かに、アンドリッドという得体の知れない存在が絡みつくせいで、簡単にはたどり着けないのだろう。だが、アリアの想い、リディアの探究心、そしてノエルの葛藤が交わり合うとき、歪みを正すための道筋が少しずつ見え始めるのではないか――三人は心のどこかでそう信じていた。
雨上がりの舗道を一人で歩きながら、ノエルは夜空を見上げる。雲の切れ間からわずかに星が顔をのぞかせている。その瞬間、ふと幼い頃に父と母が話していた言葉が胸をよぎった。「音楽はいつも光と影を抱えている。だからこそ、人を感動させたり、あるいは悲しませたりできる。でも、その本質はきっと優しく尊いはずなんだ――。」
今のノエルにとって、それは現実味のない幻想かもしれない。しかし、“Song of Undred”の祝福を取り戻せるとしたら、両親が追い求めたものがいったい何であったのか、少しだけ近づけるかもしれない。そして、あの日失ったものを取り戻せるのかもしれない。そう思うと、胸の傷がずきりと疼く一方で、不思議な希望がほんの少しだけ疼きを和らげるように感じられた。
足音だけが響く夜道を、ノエルはゆっくりと進んでいく。アリアとリディア、そして自分――三人が揃えば、もしかしたら歪みを正す鍵が見つかるかもしれない。先は見えないが、ほんの少しの光が見え始めた気がしてならなかった。そして、その光がいつか強くなるとき、この歪んだ楽譜は祝福へと蘇るのだろうか。それとも、さらなる悲劇が待ち受けるのだろうか。答えはまだ誰にもわからない。けれど、足を止めずに進む決意を抱いたことだけは、確かな一歩だとノエルは信じたかった。