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第3章:レクイエムへの反発

朝の冷たい空気が、古い校舎の廊下を静かに満たしていた。そこには淡い光が差し込み、石造りの床に長い影を落としている。いつもなら朝早くから響き渡るはずの演奏や声楽の音も、なぜか今日は遠く感じられる。そんな雰囲気の中、ノエル・フォルティスは人気の少ない渡り廊下を早足で歩いていた。うつむきがちに視線を落とし、まるで他人の目を避けるようにすれ違う学生たちをやり過ごす。


彼は一般科目のクラスに在籍し、音楽の授業には顔を出さない。だが、最近になって一部の音楽科の学生が「ノエルはかつて天才と呼ばれていた」という噂を聞きつけ、しつこく接触を図ってくるようになっていた。元はと言えば、ノエルが音楽一家の生まれであり、そして学院の誰もが知るほどの有名な姓「フォルティス」を持っていることが発端だ。最初の頃は「どうして音楽科に進まないのか」といった好奇心程度の問いかけだったが、徐々に「昔の演奏を聴かせてほしい」「ピアノを弾いてくれ」といった無遠慮な要求に変わり始めている。


それを耳にするたび、ノエルの心には激しい嫌悪感と苦痛が生まれた。どうして放っておいてくれないのか。どうして“あの事件”や、忌まわしい過去を蒸し返そうとするのか。彼が音楽を捨てたのは、決して気まぐれではなく、家族を失った恐ろしい悲劇が理由にあった。だが、人々はそうした事情を知らないし、知ろうともせず、単に「元天才少年」を見てみたいという興味だけで近づいてくる。


ある日の朝、ノエルは教室の前で待ち構えていた音楽科の男子学生たちに呼び止められた。彼らはヴァイオリンやチェロのケースを携え、いかにも音楽に情熱を注いでいますという雰囲気を漂わせている。一人の男が無遠慮な調子で口火を切った。


「ちょっと待ってよ。おまえ、フォルティス家のノエルっていうんだろ? 本当に音楽科に行かずに一般科目だけやってるのか? こんな名門学院にいながら、もったいないじゃないか。」


ノエルは言葉少なに通り抜けようとしたが、男たちが道を塞ぐように立ちふさがるため、足を止めざるを得ない。苛立ちを覚えながらも一応返答する。


「……放っておいてくれ。俺は音楽をやるつもりはないんだ。」


すると別の学生が口を挟む。「でも、おまえ、昔は“天才少年”として注目されてたって聞いたぜ? ピアノのコンクールで優勝して、あちこちから将来を嘱望されてたんだろ? それが本当なら、弾かない手はないと思うけどな。」


ノエルは苦々しい表情を浮かべ、目を伏せた。記憶の奥底に沈めていた過去が、まざまざと呼び起こされる。ピアノを前に喜び勇んでいた子供の頃。確かに“天才”と称賛されたことはある。だが、それらはすべて「Song of Undred」との出会い、そして「アンドリッド」と呼ばれる不可解なものによって打ち砕かれた。家族を喪った今となっては、音楽など二度と取り戻したくない。


「悪いけど、俺には関係ない。昔の話だ。」


冷たく言い放つノエルに、学生の一人が食い下がる。「そう言わずにさ、ちょっとピアノを聴かせてくれないか? 学院の皆に自慢したいんだよ、フォルティス家の演奏を聴いたって。」


その言い方にノエルの我慢が限界に近づく。彼は睨むように相手を見つめ、はっきりとした拒絶の意思を示す。


「いい加減にしろ。俺は弾かない。興味もない。二度と話しかけるな。」


男子学生たちが露骨に嫌な顔をして舌打ちし、「なんだよ、その態度。せっかく興味を持ってやってるのに」などと不満を口にする。しかしノエルは一切取り合わず、そのまま教室へ入った。クラスメイトたちは嫌でもその場面を目撃し、気まずい空気が漂う。ノエルは周りの視線を振り切るように席に着いたが、胸の奥には嫌な違和感が残った。


休み時間になると、友人が「大丈夫か? なんか絡まれてたみたいだけど……」と声をかけてきた。ノエルは無愛想に首を振るだけで、あまり詳しく語ろうとしない。ただ、ここ数日で音楽科の学生から同様の接触が増えたことは事実だ。彼らに悪気がないにせよ、ノエルにとっては苦痛でしかない。


そんな彼の憂鬱をよそに、学院全体は近づく新人演奏会の話題でにぎわっている。音楽科の学生は皆、練習に熱が入り、廊下を歩けばそこかしこで楽器の音が聴こえてくる。一般科の生徒たちも「今年は留学生のアリア・セレナーデが面白い曲をやるらしい」と噂をしており、たとえ音楽に詳しくない者であっても期待に胸を膨らませていた。


だが、ノエルはそんな熱狂とは無縁の場所にいたいと願っている。ところが、アリアが学院に来てからというもの、否応なく音楽の話題に巻き込まれてしまうのだ。彼女が「Song of Undred」を披露したいと宣言し、あちこちで手がかりを探していることは、すでに少なからぬ学生たちが知り始めていた。そんな噂がノエルの耳に入るたび、嫌な胸騒ぎが走る。


ある日の放課後、ノエルが中庭を横切ろうとしたとき、音楽棟から出てきた学生グループに呼び止められた。今度は先ほどの男子学生とは別の面々で、さらに大人数だ。彼らの背後にはヴァイオリンやトランペットのケースを持つ者だけでなく、楽譜を抱えた声楽専攻らしき姿まである。


「おい、ちょっといいか?」


嫌な予感がしつつも、その場で立ち止まるしかない。学生の中から、一人の大柄な男が前に出る。


「噂は本当だったんだな。おまえ、フォルティス家の息子なんだって? 昔は“ノエル・ザ・プリンス”なんて呼ばれてたって話を聞いたんだが、なんで音楽やめちまったんだ?」


周囲の面々がざわつく。「プリンスって?」「マジかよ」と興味津々の様子。ノエルは内心ため息をついた。過去にそんなあだ名があったのは事実だが、それは幼い頃に周囲が勝手に呼んでいただけであり、本人としては全く嬉しくなかった思い出だ。


「大した話じゃない。もう終わったんだ、音楽には興味がない。」


素っ気なく答えるノエルに、別の女子学生が首をかしげる。「でも、留学生のアリアが『Song of Undred』をやるっていうの、知ってる? あなたの姓を聞いて、もしかしたら何か関わりがあるんじゃないかって話も出てるわ。」


「関わりなんかない。俺は“Song of Undred”なんて曲、大嫌いだ。」


ノエルの口調が強張る。学生たちはそのトーンに気づいたのか、視線を交わし合う。どうやら噂の一端には「ノエル・フォルティスは“Song of Undred”に深く関与した過去があるらしい」というような憶測が流れているらしく、それを直接確かめにきたのだろう。


一瞬、沈黙が落ちる。ノエルがその場を立ち去ろうとしたとき、先ほどの大柄な男がじろりと睨むようにして言った。


「おまえ、もし本当に才能があるなら、正々堂々と音楽科で勝負すればいいじゃないか。逃げてるだけにしか見えねえよ。『Song of Undred』を恐れてるんだろ? どんな曲か知らないけどさ。」


ノエルの胸に怒りがこみ上げる。だが、彼はそれを爆発させず、「勝手に言ってろ」と吐き捨ててから背を向けた。学生たちは背後でまだ何か言っていたが、ノエルにはもう聞く耳などなかった。早足で校門を出ていくその姿は、まるで音楽が渦巻く学院から逃げるようにも見えた。


夕暮れの街を急ぎ足で歩く間も、ノエルの頭にはあの曲のことが離れない。両親が何を思って「Song of Undred」を研究していたのか、そしてなぜあの惨劇に巻き込まれたのか――結局、はっきりした答えは得られないまま、苦しみだけが残っている。もし、このままアリアがその曲を極めようとするなら、再び同じような悲劇が起こるのではないかという不安がつきまとった。


そんな彼の様子を察するかのように、幼馴染のリディア・ハルモニアも心配していた。翌日の昼休み、彼女はノエルを中庭の隅に呼び出し、少し険しい表情を浮かべる。


「最近、音楽科の子たちがノエルを探してるっていうのをよく耳にするの。しつこく絡まれてない?」


ノエルは短くうなずく。「まあな。天才だのなんだの言われて、うんざりだよ。」


「ごめんね。たぶんアリアが『Song of Undred』をやるって知って、その裏でノエルの名前が目立ってしまったんだと思う。フォルティスっていう名前は、音楽の世界じゃ無視できないくらい有名だから。」


リディアは本当に申し訳なさそうだ。しかしノエルは首を横に振る。「リディアのせいじゃない。俺の問題だ。あいつらは勝手に噂をかぎつけて、俺の事情なんか考えずに騒いでるだけだからな。」


それでも、リディアは心配が拭えないようで、言葉を探すように視線を落とす。すると、ノエルがぽつりと切り出した。


「アリアは、どうしてる? 相変わらず“Song of Undred”の練習をしてるのか。」


リディアは少し眉を下げながら答える。「うん、かなり熱心にやってる。学院の資料室や図書館にこもって古い楽譜を調べてるし、先生方にも聞き込みしてる。だけど、まとまった情報はほとんど見つからないみたい。」


「そりゃそうだろうな。あの曲は封印されたかのように、ほとんど正確な記録が残っていないはずだ。」


ノエルは苦々しい声でそう言いつつ、内心複雑だ。もしアリアがこのまま曲を深掘りしていけば、いつか“アンドリッド”という名前にたどり着くかもしれない。それこそがノエルにとって最大の不安要素だった。あの存在はただの伝承や迷信ではなく、家族を失ったノエルにとっては現実の脅威でしかない。


リディアはさらに言葉を続ける。「実は私も、図書館の古文書コーナーを調べていて、奇妙な記述を見つけたの。『アンドリッド』という呼び名がところどころに出てくるんだけど、内容が断片的で、何を指しているのかはっきりしない。でも、“人々の魂を歪める”とか、“深い悲しみの中に身を潜める”とか、そんな物騒なフレーズが目立つ。」


ノエルの背筋に冷たいものが走る。思わずリディアの顔を見ると、彼女も言いにくそうな表情だ。二人とも、おそらく同じことを考えている。アンドリッドとはいったい何なのか。ノエルの家族が巻き込まれた事件との関連性は。ひょっとすると「Song of Undred」の呪われた部分はアンドリッドそのものが原因かもしれない――。


「アリアは、その名前にはまだたどり着いてないんだな?」


ノエルがそう確かめると、リディアは首を振った。「今のところは。ただ、あの子の探究心はすごいから、時間の問題かも……」


二人の会話はそこで途切れ、長い沈黙が落ちる。ノエルの目には迷いと不安が渦巻き、リディアはそんな彼を心配そうに見つめていた。やがてチャイムが鳴り、授業の時間が迫っていることを告げる。リディアは軽く息をつき、「無理しないでね」とだけ言い残して走り去った。ノエルは一人、中庭に取り残される形で立ち尽くす。


午後の授業を終えた頃、アリア・セレナーデは図書室の奥まったスペースで古い楽譜や文献を山積みにしていた。埃の積もった装丁を丁寧に開き、一枚一枚ページをめくっては「Song of Undred」に関する手がかりを探している。どうしてこれほどまでに必死なのか――周囲には理解できない者も多い。けれど、アリア自身には確固たる理由がある。かつて、どこかの国の小さな資料で「Song of Undredは本来、人々の心を浄化する名曲だった」という一文を見たとき、強い直感が働いたのだ。


(あの曲はただの鎮魂歌じゃない。まだ知られていない本当の姿があるはず。そして、それは多くの人を救う力を持っているかもしれない。)


しかし、学院の資料を漁っても具体的な記述は非常に少なく、大半が「不吉な曲」「謎めいた鎮魂歌」という断片的な説明にとどまる。アリアは何度目かのため息をつき、手元のノートにメモを書き込んだ。そこには「最初は祝福の歌として作られた可能性」「古い写本には逆行カノンの形跡がある?」といった自分なりの推測が走り書きされている。


すると、隣のテーブルで黙々と勉強していた音楽科の女子学生が、アリアに声をかけてきた。「ねえ、そんなに“Song of Undred”にこだわるなんて、やっぱり何か特別な目的があるの?」


アリアは微笑んで、「ただ、誰もやらないなら私がやりたいと思ったの。それに、この曲を正しい形で歌えば、もしかしたら人を傷つけることなく、救うことができるんじゃないかって。そう信じてるの」と答えた。女子学生は興味深そうな顔をしていたが、同時に「でも、ノエルが嫌がってるって噂もあるし、無理しないほうがいいんじゃない?」と言葉を添える。アリアは一瞬表情を曇らせるが、「わかってる。ノエルの過去に何があったかはよく知らないけど、あの曲を嫌う理由はきっと重大なんだろうね」と呟いた。


そのまま、アリアは閲覧室の奥へ歩いていく。そこには滅多に利用者がいない古文書コーナーがあり、時代がかった資料が雑然と並んでいた。ライトの色も薄暗く、まるで異世界のような雰囲気だ。アリアは棚を端から順番に見て回り、「U」の項目あたりで立ち止まる。すると、埃まみれの本の背表紙に「Undred」という文字がかすかに見えた。背筋がすっと伸びる感覚を覚え、アリアはそっと本を引き抜く。


そこに書かれていたのは、楽譜というより物語のような文章だった。人々の間に広がる悲しみを宿した曲があり、それを演奏すると幽霊のような影が現れる――そんな伝承が断片的に記されている。アリアは真剣な表情でページをめくるが、途中から文字が薄れて読めず、さらに破れた痕跡まである。結局、決定的な情報は得られないまま、本を棚に戻そうとしたとき、ページの片隅に「Song of Undred」と書き添えられているのを見つけた。その下には「ひとたび音が歪めば、人の心に大いなる嘆きを与える。されど正しく奏でられしとき、すべての魂は浄化される」という一節。


「やっぱり、浄化……」


その言葉を復唱した瞬間、アリアの胸に一筋の希望が灯った。やはり「Song of Undred」は浄化の力を秘めている可能性が高い。レクイエムとして歪められた今の姿は本来の姿ではないのかもしれない。そう確信しかけたところで、古文書がぱたりと閉じ、埃が舞い上がる。アリアは目を細めながら本をしまい、「必ず完成させてみせる」とつぶやいた。


一方その夜、ノエルは学院に残って遅くまで資料を閲覧することはなく、早々に帰宅していた。だが眠りにつこうとすると、例の“アンドリッド”にまつわる悪夢に苛まれる。幼い頃の記憶が鮮明に甦り、瞼を閉じるたび血の気が失せた白い部屋と、どこからともなく響く不吉な音、両親の叫び声が混ざり合った。ノエルはうなされるように布団を蹴飛ばし、苦しげな呼吸を繰り返す。


朝になり、疲れがまるで取れていないまま学院に向かう道中、ノエルはまたしても嫌な噂を耳にする。先日絡んできた音楽科の連中が、街中で「フォルティスの息子はビビって逃げてる」という内容の陰口を叩いていたらしい。ノエルは苛立ちと自己嫌悪がないまぜになり、歩きながら小さく舌打ちをした。


その日、授業が終わった後、ノエルは教室から飛び出し、人があまり通らない旧校舎のほうへ向かった。音楽科の建物から最も離れた場所で、古い書庫や使われなくなった練習室が点在するエリアだ。そちらへ行けば少なくとも耳をそばだてる連中には会わずに済むだろうという狙いがあった。


薄暗い廊下を歩き、扉の壊れた教室の前を通りかかる。そこはかつて音楽の実技室だったようで、壁にかけられた黒板は楽譜の線が消えかかった状態で残されている。ノエルは何気なく中へ視線を投げると、一瞬、暗がりの奥に何かが動いた気がした。人の気配にしては淡く、霧のような、影のような――はっきりとした形をもたないもの。


「誰かいるのか?」


思わずそう問いかけるが、答えはない。むしろ静寂が深まり、ノエルの鼓動が高まっていく。まさか“アンドリッド”という存在が、実際にここにいるはずは……と理性では否定したいが、あの時の惨劇を思い出すと、思考が崩れていきそうになる。ノエルは足早に廊下を進み、人気のない階段を駆け下りて旧校舎を出た。


外に出ると、夕暮れの光が視界を染めている。ノエルは息を整えながら空を見上げ、心がざわついて仕方がない理由を考える。あの暗がりで見たものは単なる見間違いか、あるいは疲労が生み出した幻かもしれない。だが、彼の直感はそうは言い切れない何かを訴えていた。胸の奥に、冷たい手が伸びてきているような不安感がこびりついて離れない。


次の日、ノエルは普段どおり一般科の授業を受けていたが、落ち着かない様子だった。昼休みになり、屋上で風に当たりながらぼんやりしていると、アリアが息を切らしながらやってくる。どうやらノエルを探していたらしい。彼女はまだ呼吸を整えきれないまま、手にしたノートを差し出した。


「聞いて。昨日、資料室で見つけたの。『Song of Undred』はもともと人々の心を浄化する力があったって話を示唆する記述を。もうレクイエムっていうより、祝福の歌だったんだと思う。」


ノエルは表情を強張らせながらノートを一瞥する。彼女の手書きのメモには「浄化」「祝福」「歪み」という単語が並んでいる。それらを見ただけで嫌な予感が増幅する。


「それだけじゃ、はっきりわからないだろ。結局、確証はないんじゃないのか?」


アリアは苦笑いしつつもうなずく。「まあ、そうなんだけどね。でも、どうしても引っかかる。レクイエムとしての『Song of Undred』が、もともとは違う形だったのなら、逆行カノンとかを使えば本来の旋律を取り戻せるかもしれないって思ってる。……だけど、どうしても決定的な資料が見つからないの。」


言葉の端々から、彼女の焦りが伝わってくる。新人演奏会も刻々と近づいており、アリアは何としてでも“曲の完成”に向けて大きな一歩を踏み出したいのだろう。ノエルは無言のまま視線をそらす。背徳感と罪悪感が入り混じり、胸が苦しい。自分が持っている両親の手記を見せれば、きっとアリアにとっては有益な情報が得られるかもしれない。だが、それを渡すことはノエルにとってトラウマの再確認でもあり、何より“アンドリッド”という最悪の存在へ近づかせる可能性を高めることになる。


「俺が言えるのは……あまり深入りするなってことだけだ。もし本当に危険な何かが潜んでいるなら、アリアは傷つくだけだ。」


そう絞り出すように告げたが、アリアの瞳にはしっかりとした意志が宿っていた。「ありがとう。ノエルが心配してくれてるのはわかる。でも、私はもう引き返さない。『Song of Undred』を本来の形で歌うって決めたの。」


ノエルは胸が締めつけられる思いで、返す言葉が見つからない。そんな二人の様子を、たまたま通りかかったリディアが心配そうに見つめていた。彼女は声をかけずそっと立ち去る。アリアの決意とノエルの不安、それぞれがすれ違うように学院の時間が過ぎていく。


さらに数日が経ち、夜になっても学院に残って練習をする学生が増え始める。新人演奏会が間近に迫り、皆が少しでも完成度を上げようと躍起になっているのだ。そんな喧騒を避けるように、ノエルは人が立ち寄らない旧校舎のほうへ足を運んだ。誰もいない場所で一人になると、彼は何とか心の均衡を保てるような気がしていた。


しかし、薄暗い廊下を歩くたびに、以前感じた奇妙な影の存在が頭をよぎる。奥の方から響いてくるのは、風の音か、それとも誰かの足音か。ノエルは不安に駆られながらも、なぜか惹きつけられるように足を進めた。かつて使われていた音楽室の扉は外れかけており、内部は闇に包まれている。踏み込むと、埃臭い空気が肺に入り込み、思わず咳き込む。


そこにある古いピアノは、鍵盤がいくつか外れ、弦が錆びついて音がまともに出ない状態だった。ノエルは昔の自分を投影するように、そのピアノを見つめる。血の気が引いていくような感覚が身体を支配し、思い出したくない映像がちらつく。夜の闇の中で奏でられたレクイエム、両親の姿、“アンドリッド”という不気味な気配――。


「うっ……」


突然、背後で物音がして、ノエルは振り返った。そこにはまたしても霧のような影が揺らめいている気がする。暗がりに目をこらしてもはっきり見えないが、確かに人の形をしているようにも見えた。思わず後ずさりすると、影は床に溶け込むように消えていく。その一瞬だけ、冷たい視線を感じたような錯覚が、ノエルの心を震え上がらせる。


「誰だ……?」


震える声で呼びかけるも、静寂だけが返ってくる。ノエルは居ても立ってもいられず、その場を飛び出した。廊下を駆け抜け、夜風が吹き込む窓のそばへたどり着くと、心臓が激しく鼓動しているのを感じる。あの影は、果たして自分の幻覚だったのか、それとも――。


学院を後にする道すがら、ノエルは携帯端末を取り出して時刻を確認する。時間はすでに遅く、門限を過ぎそうだった。街灯に照らされた路地を歩きながら、背後に誰かがついてくるのではないかという恐怖が消えない。まるで“アンドリッド”が夜の闇から姿を見せ始めたように思えてならなかった。


翌朝、リディアはノエルの顔色を見てすぐに何かあったと察した。ノエルはむしろいつも以上に無口で、落ち着かない表情をしている。リディアが問いただすと、彼は旧校舎で感じた影の話を小声で打ち明けた。


「気のせいかもしれない。でも、どうしても幻とは思えないんだ。あのピアノ室に入った途端、息が詰まるような感覚と視線を感じて……俺はやっぱり、“あれ”が学院に近づいてる気がする。」


リディアは深刻そうに唇を噛み、周囲に人がいないことを確認しつつ、「それって、やっぱり“アンドリッド”のこと?」と尋ねる。ノエルは、何も言わずに首を縦に振った。


「アリアには、まったく話してないけど、あの子が“Song of Undred”を探求すればするほど、何かが引き寄せられるんじゃないかと思う。もしそうなら……もう時間がないかもしれない。」


リディアはかすかに震える手でフルートケースを抱きしめる。「どうするの? アリアが危ない目に遭うなら止めなきゃいけないけど、でも彼女はきっと聞かないよ。あなたが『Song of Undred』の資料をもっとはっきり示せば、余計に突き進むかもしれない。」


「わかってる。でも、だからって黙って見ているわけにも……。俺はどうすればいい?」


その問いにリディアは答えられなかった。二人とも手詰まりのまま、不安だけが募っていく。すぐそばには新人演奏会を楽しみにする学生たちの賑わいがあり、ファビアンやローザといった実力者たちの名前も華々しく話題に上っているというのに、この二人にとってはそれどころではない。まるで誰にも気づかれないところで、見えない脅威が迫っているような焦りが高まる。


さらに日が経ち、アリアは自分の探し出した断片的な楽譜をもとに、新しい旋律の試験的な練習を始めていた。学院の隅にある小さな音楽室で、レクイエムのフレーズを逆行させ、明るいメロディに変化させようと試みている。だが、音が合わない箇所が多く、どうしても途中で破綻してしまう。そんなもどかしさを抱えながらも、アリアはめげずに声を出し続ける。


ある晩、彼女は遅くまで残ってその練習をしていた。夜の帳が下り、外はしんと静まり返っている。人の気配がなくなると、建物はわずかな物音でも大きく反響する。アリアは譜面台をのぞき込んでは微調整をし、少し歌っては止まりを繰り返す。そのうち、廊下のほうで何かがこつ、こつ、と歩く音がしたように思い、首を傾げた。


「誰かいるのかな?」


昼間であれば他の学生か教員がいても不思議ではないが、この時間はほとんど全員が帰宅しているはず。アリアは念のためドアを開け、廊下に顔を出してみるが、薄暗い先には誰の姿も見当たらない。代わりに、不意に寒気が彼女の全身を包む。締め切ったはずの窓から風が吹き込んでいるのか、長い髪がさらりと揺れた。


「おかしいな……」


気のせいだろうかと首をかしげつつ、部屋に戻ろうとしたとき、背後でかすかな気配を感じた。振り向いてもやはり誰もいない。胸の鼓動が早くなるのを抑えようとしながら、アリアは扉を閉め、鍵をかける。妙な不安を覚えながらも、「こんな時間まで練習してるから、神経質になっちゃったのかも」と自分に言い聞かせるしかなかった。


こうして、学院のあちこちで“アンドリッド”のような不穏な気配がささやかに広がる中、ノエルは日増しに追い詰められていた。音楽科の生徒からの干渉も、収まるどころか激しくなる一方だ。「あの留学生アリアがやる曲は本当はノエルが仕上げてるんじゃないか」という根拠のない噂まで立ち始めており、それを聞いた者たちが次々とノエルに近づいてくる。彼の平穏は完全に崩されてしまった。


ある朝、教室で身支度をしていると、廊下のほうでざわめきが起こった。どうやら誰かがノエルを呼び出そうとしているようだ。友人が「ノエル、また音楽科の連中が来てるっぽいぞ」と耳打ちしてくる。ノエルはげんなりした気持ちを抱えながら廊下へ出ると、そこには見慣れない女子学生が立っていた。彼女は丁寧にお辞儀をし、それから遠慮がちに切り出す。


「あの……あなたがノエル・フォルティスさん、ですよね? 私、声楽科の一年なんですが、先輩から噂を聞いて……いきなりごめんなさい。どうしても歌のアドバイスをもらいたくて……」


ノエルは思わず眉をしかめる。声楽のアドバイス? 自分はもう音楽に関わらないと何度も言ってきたし、そもそも彼女が期待するような指導ができる心境でもない。だが、女子学生の瞳には切実な願いが宿っているのがわかる。学院内には実力のある先輩や先生が大勢いるだろうに、それでもノエルに頼るというのは一体なぜか。


「悪いが、俺は音楽科じゃない。助けになれないよ。」


「でも、フォルティス家の血筋なら、幼い頃に相当なレッスンを積んでいたんじゃないかって先輩が……本当に迷惑を承知でお願いしています。今度の新人演奏会の最終選考までに、どうしても上達したくて……」


必死の形相で頭を下げる彼女に、ノエルは複雑な感情を抱え込む。自分の音楽的知識や才能は、もう捨て去ったはずなのに、それを他人に求められるのは皮肉でしかない。


「すまないが、俺は協力できない。アドバイスなら、先生やほかの上級生に頼んでくれ。俺に構わないでくれ。」


ノエルが突き放すと、彼女は悲しげな顔をして身を引いた。周囲にはそのやり取りを見つめる学生たちがおり、さまざまな表情を浮かべている。中にはノエルを「冷たい奴だ」と非難する視線も感じられたが、彼はただ苦々しい思いを抱くだけだった。


それから数時間後、日が暮れかけた頃、ノエルはカバンを抱えて学院を出ようとしていた。すると、旧校舎のほうから微かなフルートの音が聞こえる気がして足を止める。これはリディアかもしれない――彼女はよく、人気のない場所で練習していることがあるのだ。ノエルは思わずそちらへ足を向ける。


入り組んだ渡り廊下を抜け、旧校舎の中庭へ出ると、確かにリディアがフルートを吹いていた。だが、その曲はどこか不安定で、いつものように伸びやかさを感じない。彼女の表情にも疲労の色が浮かんでいる。


「リディア……どうしたんだ? そんな暗い曲、吹いてるのか?」


ノエルが声をかけると、リディアは驚いたようにこちらを振り返る。「ごめん、変な音になってたかも。少し気分が落ち込んでて……」


彼女はフルートを下ろし、静かな声で続ける。「アリアのことで、ずっと考えてたの。あの子、本当に『Song of Undred』を完成させようとしてるけど、限界を感じてるみたいで。逆行の譜面がうまく繋がらなくて、レクイエム部分と祝福部分の橋渡しができないらしいの。私も手伝ってるけど、専門が違うからどうしても理論的な組み立てがわからない。」


ノエルは胸に痛みを覚えた。自分なら少しは理論的な助言ができるかもしれない。幼い頃に培った知識や耳が、アリアを救う手がかりになるかもしれないとわかっていても、踏み切る勇気が出せない。


リディアはそんなノエルの沈黙を察してか、苦笑いを浮かべる。「ねえ、あなたが話してくれた“アンドリッド”のことだけど、本当に存在するのか、私にはまだ確信が持てない。でも、あなたが感じる恐怖や過去のトラウマを否定する気はないわ。だから、どうしたらいいのか……私もわからない。」


二人は夕闇に包まれる中庭に佇み、それぞれの思いを抱えながらどうにも動けずにいた。遠くのほうから他の学生の笑い声がかすかに聞こえる。華やかな音楽祭ムードに浮かれる学院と、そこに潜む暗い影。“Song of Undred”に秘められた力、そして“アンドリッド”という正体不明の存在。ノエルの過去の傷は、否応なく再び開きかけている。


やがて夜の帳がすっかり降りると、リディアはフルートをケースにしまい、「もう帰ろう。ここにいても気が滅入るだけ」と言う。ノエルも無言で同意し、二人は学院を出るために歩き出した。その背後には、見えない悪意が忍び寄っているのかもしれない。ノエルは背筋を寒くしながら、ふと旧校舎の窓を振り返る。そこには先ほど彼が感じたような影は見えないが、ガラス越しに歪んだ月の光が差し込み、不気味な陰影を作り出していた。


こうして、それぞれが思い思いの感情を抱えながら日々を過ごすうちに、時間だけが無常に過ぎていく。ノエルは音楽科のしつこい干渉に苦しみ、心を閉ざすばかり。アリアは「Song of Undred」の本当の姿を確かめようと奔走し、少しずつ手がかりを見出しているが、核心にはまだたどり着けていない。そしてリディアの見つけた古文書が示唆する“アンドリッド”の謎は深まるばかりだ。学院の奥深く、あるいは夜の闇の底で、ほんのかすかな歪みが広がっていることに、多くの生徒はまだ気づいていない。だが、やがて来る新人演奏会の舞台で、すべてが交差しようとしている――ノエルはその予感を振り払えずにいた。

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