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第2章:学院での序曲とライバルたち

朝の光が石造りの校舎を柔らかく照らし始めると、廊下のあちこちから楽器の調律音がこだまする。アリオーソ学院では、音楽科の学生たちが自主練習に励むのが日常風景だ。弦を弾く細やかな音、管楽器の息づかい、さらにはピアノのスケール練習まで、複数の音が入り混じって小さなオーケストラのように響き渡る。一方、一般科目の学生たちはそれほど大きな騒音を好むわけでもなく、教室で静かに勉学や雑談を楽しむ者が多い。両者の温度差は歴然としており、学院内には自然と二つの流れができあがっていた。


ノエル・フォルティスはこの朝も一般科目の教室へまっすぐ向かっていく。廊下の途中では、音楽科の学生たちが立ち話をしているのを見かけるが、できるだけ目を合わせないようにそそくさと通り過ぎる。以前から周囲には「ノエルは音楽一家の出身なのに、なぜ音楽科ではないのか」と不思議がられていたが、その問いに彼がまともに答えたことはない。ひどく鋭い視線でにらむことさえあるため、音楽科のほうでは「フォルティス家に何かあったらしい」程度の噂が立つだけで、これ以上は詮索しないのが暗黙の了解になりつつあった。


机に腰かけてノートを開くと、そこにまた友人が寄ってくる。音楽祭が近いという話は、すでに一般科の学生の耳にも届いていた。普段なら興味を示さないノエルの友人たちも、「今年は留学生がすごい歌姫らしい」「昨年優勝したヴァイオリンの天才がいるらしい」と噂話をして盛り上がっている。ノエル自身はそっけなく聞き流そうとするが、話題のなかに「アリア・セレナーデ」という名前が混ざっているのを耳にし、ほんの少しだけ心が揺れた。


先日、学院の廊下でアリアが模範歌唱を披露した際、ノエルは途中で退散したものの、彼女の歌声が周囲を感動させるほどに素晴らしかったことは知っている。そして、彼女はあろうことか「Song of Undred」を学院で歌い上げたいという野望を抱いている。ノエルにとってそれは受け入れ難い話であり、あの曲が再び演奏される場面など想像したくもない。とはいえ、以前よりもアリアという存在を強く意識してしまっているのは事実だった。


そんな中、昼休みのチャイムが鳴るやいなや、ノエルの座る教室へアリアが訪ねてきた。一般科の学生にとってアリアは、もはや小さな有名人である。周囲の視線が一斉に彼女へ注がれるが、アリアはものともせずノエルの目の前に来て、「こんにちは」と明るい声をかける。そこにいたクラスメイトたちも思わず目を丸くし、軽く道を開けるように離れていった。


「お昼、いっしょに行かない?」


アリアは照れもなくそう言う。ノエルは一瞬息を呑んで、「いや、俺は別に……」と拒否しようとするが、彼女はまったく意に介さない。むしろ、「ここにいても周りが気になるでしょ?」と笑っていて、周囲をそっと見回しながらノエルの腕をちょんと引いた。その仕草に、クラスメイトたちは何やら奇妙な光景を見たかのように一瞬静まりかえり、好奇の目を送ってくる。


「……仕方ないな。」

ノエルはため息交じりに立ち上がり、アリアとともに教室を後にする。普段なら人ごみを避けるため一人で食堂には行かず、パンでも買って適当に済ませるのだが、今日はなぜかアリアの誘いを振り切れなかった。まるで彼女の空気感に流されているようで落ち着かない。


食堂に到着すると、そこにはステージのような空間があり、昼休みになると音楽科の有志が演奏を披露することもある。実際、今日は小編成のアンサンブルが軽やかな演奏をしており、テーブルについている学生たちを和ませていた。アリアはその音楽に耳を傾けながら、「この学院、さすが音楽の街の名門だけあって、雰囲気がいいね!」と目を輝かせる。ノエルは視線を逸らしつつ、できるだけ無関心を装っていた。


しかしアリアは遠慮なくその演奏についてノエルに話を振る。「どう? この曲、リズムがすごく独特で面白いと思わない?」


「さあ、知らないね。興味もないし。」


ノエルは素っ気なく答えようとするが、彼女がこちらをまっすぐ見つめるため、気まずさが募る。アリアは「嘘だ」と言わんばかりに微笑をたたえ、少しだけ首を傾げる。その仕草がどこか挑発めいて感じられ、ノエルは視線を落としたまま肩をすくめた。


「そうそう、近々『新人演奏会』が開かれるんだって? 先生たちからも誘われてるんだけど、出場しようと思うの。私がメインで歌う曲は、やっぱり『Song of Undred』がいいんじゃないかって。もちろん、まだレクイエムの形しかわからないけど……」


アリアがさらりと言ったその一言に、ノエルはまるで心臓を鷲づかみにされたような感覚に陥った。新人演奏会は学院の若手演奏家たちが腕を競う登竜門的なイベントであり、注目度が高い。それゆえに演奏の題材や完成度は厳しく評価される。「Song of Undred」をそんな公の場で披露するなど、彼にとっては考えられない行為に思える。


「あんた、正気か? あの曲を舞台でやるなんて、どうかしてる。」


ノエルは思わず声を荒らげる。アリアは一瞬驚いたように目を丸くするが、すぐに落ち着いた表情に戻り、「私、どうしても確かめたいんだよね」と静かに返す。


「確かめる……?」


「うん。あの曲が本当に人々を苦しめるだけのレクイエムなのか、それとも別の姿を秘めているのか。この学院なら、曲の資料も揃ってるし、協力してくれる人もいる。もし本来の姿が見つかったら、ぜひステージで披露したいと思ってるの。」


彼女の言葉には、ノエルの拒絶感を打ち砕くほどの熱量がある。ノエルは唇を噛みしめ、ざわざわと湧き上がる嫌悪と動揺を抑えようとする。


「でも、俺は反対だ。間違いなく危険だし、あの曲にはろくな思い出がない。それに、もしあの曲を舞台で演奏したら、何が起こるかわからないだろ。」


「だからこそ、ちゃんと向き合わなきゃいけない。ノエルにとっては辛いことだと思うけど、私はあきらめたくないの。」


アリアは視線をそらさずに言い放つ。周囲のテーブルから一瞬視線が集まり、食堂がざわつく雰囲気になる。ノエルはこれ以上話を続けると感情が爆発しそうで、握り拳を作ったまま立ち上がり、「帰る」とだけ言い捨てて歩き出す。アリアは軽く肩を落とすが、反発するノエルの様子を見ても決して怯まず、むしろ自分の決意をさらに固めたかのような表情をしていた。


そんな二人のやりとりがあった翌日、学院の音楽科の棟では、新人演奏会にエントリーする学生たちの顔ぶれが掲示板に貼り出される。そこにはアリアの名も記載されており、その演目欄には堂々と「Song of Undred(仮)」と書かれていた。この一報は瞬く間に音楽科の学生たちの間に広がり、彼女の大胆さを称賛する者もいれば、眉をひそめる者も現れる。何しろ謎の多い鎮魂歌をメインにするなど、型破りすぎる挑戦だからだ。


やがて楽器別に優秀とされる上級生たちや、すでに実績を残してきた学生たちまでもがざわつき始める。中でも強い反応を示したのが、ヴァイオリンの天才と名高いファビアン・アークレインと、ピアノの名手として有名なローザ・ヴァイス。この二人は新人ながらずば抜けた演奏技術を持ち、学院の誇りとも呼ばれる存在だった。


ファビアンはすらりとした長身の少年で、栗色の髪と整った顔立ちを持ち、自信家としても知られている。新人演奏会では毎年上位の成績を収め、昨年は審査員特別賞を受賞した。彼は掲示板に貼られた「Song of Undred」の文字を見つけると、鼻で笑うように呟いた。


「ふん、あんな得体の知れない曲を弾くなんて、酔狂にもほどがある。まあせいぜい観客の前で醜態をさらさないことだな。学院の名を汚すようなまねはやめてほしいものだ。」


彼の周囲には取り巻きと思しき学生たちが何人かいて、同調するようにうなずいている。ファビアンは音楽祭に向けてヴァイオリン協奏曲の華やかな難曲に挑もうと準備しており、自分の演目こそが最高だと信じて疑わない。アリアやその周囲がどんな曲を披露しようが、結果的に脚光を浴びるのは自分――そんな自負があるようだ。


一方、ローザ・ヴァイスは漆黒の髪をシニヨンにまとめたクールな印象の少女で、ピアノの演奏技術は学院でもトップクラスだといわれている。幼い頃から厳格な音楽教育を受けて育ったため、その演奏には欠点がないと評される。彼女は掲示板を見上げながら、アリアの名を指先でなぞり、「Song of Undred……なにを狙っているのかしら」と小さくつぶやく。


「レクイエムの曲なんて、コンクール受けは悪そうだけど……まさか、本当に鎮魂歌を披露するつもり?」

ローザは半ば呆れ、半ば興味深げだ。自分が選んだリストの名曲で観客を圧倒してみせるという自信に満ちている一方、突拍子もない挑戦をする留学生の動向が気になるらしい。


二人の動向は音楽科の学生にとって話題になりやすく、自然とアリアの名前も絡めて噂が広がる。こうして、新人演奏会は例年以上に“波乱含み”だとささやかれ始め、学院内の空気が高揚していく。誰もが注目する舞台になるのは間違いなく、その裏で「Song of Undred」をめぐる小さな火種が徐々に大きくなりつつあった。


そんなある日の放課後、アリアはリディア・ハルモニアに声をかけて、空き教室を使わせてもらえないかと相談した。リディアはフルートの練習があるにもかかわらず快く了承し、自分もいっしょにその曲を試奏してみたいと言い出す。早速二人は古い譜面を持ち寄り、誰もいない教室にピアノと譜面台をセットする。


「やっぱり、まだ全体像がつかめないのよね。レクイエムとしてのパートは何とか弾けるけど、それだけじゃ暗すぎるし……逆行すれば少しは違った曲調になりそうだけど、そこをどう繋ぐのかが問題。」

アリアは譜面を指先でなぞりながら首をひねる。リディアは隣に立ち、フルートを構えているが、パートの割り振りや伴奏のバランスなど、不明点が多すぎる。


「このままじゃ、どこがサビなのかも曖昧で、聴く人を惹きつける旋律になるかどうかも微妙かも。だけど……何かあると思う。まだ見えてないだけで、本来の姿がどこかに隠れてるんじゃないかって気がするの。」

アリアは譜面をしばらく見つめたあと、小さく息を吸い込み、ポツリとつぶやいた。


「できればノエルに助けてもらえたらな……なんて。」


するとリディアは苦笑いしつつ、「彼は頑固だからねえ。でも、あなたの歌声が何かのきっかけになればいいと思う」と楽譜を少しだけめくる。ノエルが元々持っていた“旋律を読み解く力”をリディアはよく知っていた。幼い頃のノエルは、あらゆる曲の構造を瞬時に理解し、みずからピアノでアレンジしてしまうような才能を発揮していた。だからこそ、もし彼が一緒に取り組んでくれれば大きな力になるのだろうと、リディアも痛感している。


二人がしばらく模索しながら試奏を繰り返していると、廊下から弦楽器の響きが徐々に近づいてきた。それは音楽科の学生が通りかかっているのだろうと察したが、どうも一人ではない様子で、何やら話し声が聞こえる。やがて教室の開いたドアから姿を現したのは、ファビアンとローザ、そしてその取り巻きらしき学生たちだった。


「ここを使ってたのか。ふーん、なるほど。『Song of Undred』の練習でもしてるのかな?」

ファビアンが嫌味っぽく言う。彼はヴァイオリンケースを脇に抱え、アリアとリディアを見下すような視線を送る。ローザも「噂通り、本当にやるつもりなのね」と呟き、あからさまに冷たい笑みを浮かべた。


アリアは特にひるむことなく、「そうよ。私はこの曲で新人演奏会に出ると決めてるから」とすんなり答える。その態度に、ファビアンとローザの取り巻きたちが「強気だな」などと口々にささやき、やや挑発的な空気が漂う。


「ねえ、あんたたち、本気であんな気味の悪い曲を完成させられると思ってるの?」

ファビアンはヴァイオリンケースを置き、少し威圧するように近づいてくる。アリアは動じずに彼の姿を見つめ返し、「あきらめない限り、可能性はあると思ってる。資料を集めれば、レクイエム以外の形が見えてくるはずだから」ときっぱり言い放つ。


「へえ、まあ勝手にすればいいさ。でも、その暗い曲を人前で披露するなら、それなりの覚悟がいるよ。新人演奏会は遊びじゃない。俺は俺で、最高のヴァイオリン協奏曲を完成させるつもりだし、客の目当てはこっちだろうさ。」

ファビアンは自信に満ちた表情で語り、取り巻きの学生が拍手や喝采を上げる。彼らからすれば、まるでアリアは天才であるファビアンに挑む無謀な挑戦者という図式に見えているらしい。


ローザも横から口を挟む。「私もピアノソロで有名なリストの曲に挑戦するつもりだから。レクイエムなんて弾いたら会場の空気が重くなるでしょ? あなたの歌声がどんなに綺麗でも、その曲自体の評判が悪いんじゃ、勝ち目はないと思うけど?」


その言葉に、リディアは少し憤りを感じ、口を開こうとしたが、アリアが落ち着いた声で言い返した。


「私が目指してるのは“勝ち負け”じゃないの。『Song of Undred』の本当の姿を伝えたいし、もしそれが人を救う曲なら、その力を舞台で示したい。変だと思われても構わない。私は私のやり方でやる。」


アリアのまっすぐな視線は、ファビアンとローザの横柄な態度をまるで気にしていない。むしろ二人の挑発を一蹴するように、堂々と胸を張っている。そんな様子を見たファビアンは眉をひそめ、ローザは呆れ顔でため息をついた。


「勝手にしろよ。まあ、せいぜい足掻けばいいさ。新人演奏会で恥をかくのはあんた自身だからな。」


ファビアンはそう捨て台詞を残し、取り巻きとともに去っていく。ローザも最後に「見せ物としてはちょっと興味あるかもね」と呟いてから廊下へ消えていった。教室には嫌な空気が残ったものの、アリアはさほど気に病む様子はなく、リディアに「ごめんね、気分を悪くさせちゃった?」と微笑みかける。


「ううん。私こそ何も言い返せなくて悔しい。それにしても、あの二人は学院の中でも実力があるから、ああやって強気に出てくるんだろうね。でも……」

リディアはフルートを握りしめたまま続ける。「アリアの歌声は、絶対にそれらに負けないと思う。今はまだ曲が不完全だからどうなるかわからないけど、それでも私たちが納得いく形に仕上げられたら、ファビアンやローザにだって負けないはず。」


アリアはリディアの言葉に感謝の笑みを浮かべ、「ありがとう。私もそう思う。まずは資料を探したり、先生や先輩たちから情報を集めたりしながら、どうにか形をつくっていくしかないね」と頷いた。二人は再び譜面に目を落とし、細かな音の繋がりを探し続ける。レクイエムの鍵盤進行を逆行させたとき、一瞬だけ明るい和音が浮かび上がる箇所があるのだが、そこをどう主旋律と絡ませるかが最大の焦点だった。


一方その頃、ノエルは一般科の教室でノートを開いたままぼんやりしていた。周囲からすれば彼はぼんやりしているだけに見えるが、頭の中では「Song of Undred」のことが離れない。アリアが本気であの曲を舞台に乗せようとしていると聞き、ただ否定するだけでは済まされない気がしている。なぜなら、あの曲の裏には“アンドリッド”という存在が深く関わっている可能性があるからだ。ノエルはその名を思い出すだけで胸が締め付けられる。


やがて昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴る。ノエルはノートを閉じ、席を立とうとしたところでリディアが現れた。彼女は少し焦った様子で、「ごめん、ちょっと話せる?」と声をかける。ノエルは渋々廊下へ出ていき、壁際で二人並んで立つ。


「アリア、すっかりやる気よ。『Song of Undred』の資料を集めて、何とか完成形を探そうとしてる。」

リディアがそう切り出すと、ノエルは心の中で予想した通りだと感じたものの、「あいつ、馬鹿なんじゃないか」ときつめの口調で答える。リディアはため息をつきながら、少し考えるような素振りを見せたあと、思い切って口を開いた。


「ねえ、ノエル。もし危険だとわかってるなら、逆にアリアを手伝ってあげたらどうかな?」


「はあ? 俺が? ふざけるな。」


ノエルは即座に拒否するが、リディアは言葉を続ける。「でも、今のままじゃアリアが一人で突っ走って、何かあっても防ぎようがないわよ。あなたは昔から音楽理論に詳しかったし、両親が『Song of Undred』を研究していた時期もあったんでしょう? 少しでも何かわかることがあるなら、教えてあげてほしい。」


彼の脳裏には幼い頃の情景がちらつく。両親が残したメモの断片や、燃えかけた楽譜の一部……アリアが求める手掛かりがそこにあるかもしれない。そう頭ではわかっていても、あの悲劇を思い出すたびに背筋が凍る。自分が再び音楽に手を染めるなど、到底考えられない。


「……無理だ。あの曲に関われば、ろくなことにならない。アリアがどうなろうと俺の知ったことじゃない。」


ノエルがそっけなく言い放つと、リディアは少し悲しそうな顔をした。「そう……でも、私まで見捨てるつもり? 私はあなたが辛いのをわかってるけど、それでもアリアや私が困っていたら手を差し伸べてくれる人だと信じてるの。」


「……期待しないでくれ。」


ノエルはそう答えるのが精一杯だった。リディアはそれ以上何も言わず、静かに踵を返して去っていく。取り残されたノエルはその場に立ち尽くしたまま、何度目になるかもわからないため息をついた。


日が暮れる頃、学院の中庭は夕焼け色に染まり、音楽科の学生たちの練習音がどこからか聞こえてくる。ヴァイオリンのはっきりした音、ピアノの優雅な音色、さらにはコーラスの声まで入り混じっている。まさに音楽の都カンタビレらしい光景だが、ノエルにはどこか苦々しさが残る。


このままでは、新人演奏会でアリアが「Song of Undred」を披露しようとしているのを止められそうにない。ファビアンやローザのようなライバルたちも、アリアの動向を注視し、場合によっては妨害や嫌がらせすらするかもしれない。ノエルは彼女の熱意がどう転ぶのかを思うと、不安と苛立ちが混ざった気持ちに苛まれる。


しかし同時に、アリアのあの歌声やリディアの真摯な姿を目にすると、少しだけ救われるような思いもある。自分はずっと音楽から逃げてきたが、彼女たちは真っ向から立ち向かおうとしている。両親を奪われた過去がありながら、もっと違う形で向き合えなかったのか……そんな後悔が頭の片隅をよぎるたび、ノエルは強く目を閉じる。


翌日、学校の掲示板には新人演奏会の予選スケジュールが貼られていた。参加希望者は個別にオーディションを受け、本選に進めるかどうかが決まる仕組みだ。アリアはもちろんエントリーしており、その演目の箇所には仮題として「Song of Undredレクイエム・アレンジ」と記入されている。周囲の学生たちが「あれ本当にやるのかな……」とひそひそ囁いているのを、ノエルは遠巻きに聞きながら複雑な思いで横を通り過ぎる。


ファビアンもローザも、まだアリアには直接絡んでこない様子だが、水面下では熱心に練習を積んでいると噂されていた。彼らは技術力に加え、見栄えや表現力もズバ抜けているため、審査員受けも抜群だ。アリアが仮に独自の「Song of Undred」を完成させたところで、この二人を上回るだけのインパクトを出せるのか――ノエルは考えたくなくても、その点が気にかかる。


放課後、ノエルは校舎の外へ出るとき、ふと音楽棟の窓からアリアの歌声が漏れ聞こえてくるのに気づいた。どうやら彼女は教室にこもって練習をしているらしい。聞きたくもないはずの歌声に足を止めてしまい、ノエルはしばし立ち尽くす。かすかなメロディはやはり美しいが、どこか物足りない。レクイエムだけをなぞっているようでは、本来の姿には程遠いという印象を受ける。


「……何やってるんだろ、俺は。」


ノエルは自嘲気味につぶやき、その場を離れようとする。すると、ちょうど教室から出てきたリディアと目が合った。彼女はフルートケースを肩にかけ、扉を閉めるところだったようだ。ノエルが逃げるように足を速めようとすると、リディアは小走りで追いかけてくる。


「お願い、もう少しだけ付き合って。アリアが今、試しにレクイエムの一部をキー変してみてるんだけど、やっぱり行き詰まってるの。」

リディアの瞳には切実な思いが浮かんでいる。ノエルは視線をそらしながら、「俺にできることなんてない」と答えようとするが、リディアは首を振った。


「あなたにはあるの。ご両親の遺した譜面やメモを少しでも覚えていない? 何かヒントになるようなフレーズとか、逆行の和音の組み合わせとか。私たち、手探りでやってるから限界があって……」


そこまで言われると、ノエルは心が抉られるような痛みを感じる。家にある古い書類や譜面を開くことは、彼にとって過去を直視する行為に他ならない。それでも、アリアがこのまま突き進めば危険な目に遭うかもしれないという思いもある。リディアの瞳の奥には真剣な訴えがあり、ノエルは沈黙を続けながらも頭の中で葛藤していた。


やがて、溜め息まじりにノエルはぽつりと言う。「もし、仮に俺が何か知っていたとしても……それを教えたら、あいつはますます突っ込んでいくだろ? 無謀に首を突っ込んで、取り返しのつかない事態になるかもしれない。」


リディアはかすかに微笑み、「あなたは本当に優しいんだね」とつぶやいた。「でも、アリアはもう止まらないわ。それなら少しでも正確な情報を伝えて、危険を回避できるように手を差し伸べるほうがいいと思う。私一人では限界があるし、あなたがいてくれたら、ずっと心強いのに……」


その言葉にノエルは息を詰まらせる。優しいかどうかなど自分で判断したことはないが、少なくともリディアを失望させたくないという思いが心に湧く。彼女は幼馴染であり、常にノエルを支えてくれた存在だ。だからこそ、リディアの願いを一蹴するのは心苦しい。


「……少しだけ、考える時間をくれ。」


それだけ言い残してノエルは歩き出す。リディアは追いかけず、背中を見つめたまま小さくうなずいた。すでに日は沈みかけており、学院の塔が赤い夕陽を浴びて長い影を作っている。ノエルはその影の中を歩きながら、頭の中で幾度となく「あの事故」のことを思い出す。両親が研究していた「Song of Undred」のメモには、“アンドリッド”という単語が頻繁に出てきた。あれは人ならざる存在なのか、あるいは曲そのものが具現化した何かなのか――真相を知るのは怖いが、黙っていてはアリアの運命がどう転ぶかわからない。


翌朝、ノエルは家を出るときに引き出しの奥を開け、古い冊子を一つ取り出した。両親が残した数少ない手記の一部で、そこにはレクイエムの譜面と逆行の書き込みが混在している。文字が薄れて読みづらい部分も多いが、いくつかメモのような注釈が書き込まれていた。ノエルは嫌悪感を抑えながらそれを鞄に入れ、学院へと足を運ぶ。


この日も一般科の授業が淡々と進み、昼休みに入る。ノエルは人気の少ない渡り廊下に移動し、静かに俯きながら手記を取り出す。ページをめくると、不思議な記号や音階の上下が示されている箇所があり、そこに「逆行で祝福へ転じるか…?」という母らしき筆跡が見える。


「まさか、本当に……」


ノエルはそこへふと影がかかるのを感じて顔を上げる。アリアだった。どうやらたまたま通りかかったらノエルを見つけたようで、彼女は「なに見てるの?」と首を傾げた。ノエルは慌ててそれを隠そうとするが、アリアがすかさず「それ、もしかして『Song of Undred』の譜面?」と食いついてくる。


「見せてほしい、お願い!」


アリアの瞳は輝いている。ノエルはぐっと言葉を飲み込むが、いつになく強い視線を感じ、しばし沈黙した後、意を決したように手記を差し出した。アリアがそこに書かれた譜面の断片を見て、息を呑む。


「すごい……逆行の線が引かれてる。ここ、レクイエムのラインを逆さに読んで別のメロディを作ろうとしてるのね。それに、このメモ書き……“祝福の旋律”…?」


ノエルは重たい口調で、「両親が残したものだ。詳しくはわからないが、多分、あの人たちは『Song of Undred』を逆行させて新しい曲を完成させようとしてた。でも、結局あの事故で……未完に終わったんだ。」とつぶやく。アリアはその悲しみを察するように眉を下げ、「ありがとう、見せてくれて。これ、すごく大事な手がかりになると思う。絶対に無駄にしないから。」と瞳を潤ませながら手記をノエルに返す。


ノエルはどこか空虚な気持ちで手記を受け取り、鞄にしまう。自分の過去をさらけ出すつもりはなかったが、このまま放っておくとアリアが危険なことに巻き込まれるかもしれないという思いもあり、最低限の情報だけでも与えておこうと考えたのだ。そして、あらためて言葉を続ける。


「俺は協力なんてする気はない。けど、もしその曲が本当に“祝福の旋律”なんてものを持ってるなら……万が一にも、失敗して取り返しがつかなくなるようなことは、しないでくれ。」


アリアは小さく頷いた。「うん、わかった。私だって好き好んで危険を冒したいわけじゃない。ただ、どうしても放っておけない。あなたやあなたのご両親が追い求めた“本当の姿”を、見つけたいの。」


その瞳の中には揺るぎない意志が宿っていて、ノエルは反論の言葉を失う。昼休みの終わりを知らせるチャイムが鳴り、二人はそれぞれの教室へ戻らなければならない。アリアは去り際に「ありがとう、ノエル」と小さくつぶやき、笑みを浮かべた。その笑顔を見たノエルは、わずかに肩の力が抜けたような感覚を覚えつつも、まだ心に重い雲がかかっていると感じていた。


こうしてアリオーソ学院では、新人演奏会に向けた動きがますます活性化していく。ファビアンは華やかな協奏曲の仕上げを急ぎ、ローザは高度なピアノソロの練習に没頭している。周囲の学生たちも、それぞれがコーラスや室内楽などで本選出場を目指して日々努力を重ねている。そのなかでアリアは、リディアや一部の協力者とともに「Song of Undred」の再構築に挑み、レクイエムだけではない旋律を見いだそうとしていた。


ノエルは相変わらず音楽科とは距離を置いているが、手記をアリアに見せたことで心の揺れが大きくなっている。過去の悲劇をもう一度追体験するようで苦しい反面、アリアの純粋な情熱がどこか救いになるような気もし始めていた。反発と期待が混ざり合い、彼の胸に不穏なざわめきを生む。


だがまだ誰も知らない。あの鎮魂歌の真の姿が明らかになるとき、そして“アンドリッド”の名が再び表舞台に浮上するとき、学院の平穏は簡単に覆されるかもしれない。ライバルたちの炎のような対抗心も、アリアの強い願いも、ノエルの痛ましい記憶も、すべてがひとつの舞台に向けて収束していこうとしている。曲が呼び起こす光と影は、まだ誰も予測できない形で学生たちを巻き込んでいくのだ。ノエルは空を仰ぎ、赤く染まり始めた夕暮れを見つめながら、やり場のない思いを抱え続ける。それでも彼は、ほんのかすかな希望を感じずにはいられなかった。アリアやリディアが奏でようとしている新しい旋律、それがもし本当に祝福の音色を宿しているのだとしたら――いつか心の痛みを消し去る奇跡が起こるのかもしれない、と。

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