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第10章:フェス当日・歪んだ開幕

(約10,300文字)


 カンタビレ・グランドフェス当日の朝、街は早くからざわめいていた。楽器を抱えた演奏者たちがタクシーや車でホールへ向かい、大通りではスタッフや警備員が忙しそうに走り回る。駅前の広場には観客が続々と集まっており、屋外モニターには「カンタビレ・グランドフェス、本日開催!」という文字が明るく躍る。そんな華やかな雰囲気の中で、アリアたちの胸には言いようのない不安が重くのしかかっていた。


 練習を重ねてもなお、「Song of Undred」の逆行カノンは完成しきっていない。あの三重和声の謎を解明するたびに、わずかに光が見えるものの、「生贄」や「代償」が必要になるのではないかという恐怖が拭えず、最後のパートがうまく繋がらない。しかも、この数日、アンドリッドの干渉が激化しており、街中の人々が謎の悲しみにとらわれる事件が相次いでいた。


「それでも、今日が来ちゃったね……。」

 ホールの楽屋口で荷物を下ろしながら、リディアが深く息を吐く。アリアは頷きつつも、気丈な表情であたりを見回した。建物周辺には多くの出演者やスタッフが行き交い、誰もが急ぎ足だ。ロビーは華やかな装飾で彩られ、受付にはフェスのパンフレットを手にした観客が長い列を作っている。にぎやかなはずの光景なのに、空気の奥底に妙なざわつきがある気がしてならない。


「ねえ、ノエルは? もう先に会場入りしてる?」

 リディアが聞くと、アリアは楽屋のほうへ視線を向け、「うん、さっき着いてすぐピアノの確認に行ったって」と答える。ノエルは最終的に、「自分が弾かなければ“Song of Undred”は救えない」と腹をくくり、このフェスの大舞台でピアノを担当することを決意した。その裏で、彼のトラウマがどれほど疼いているかは想像に難くないが、今はそれを言葉にする余裕はない。


「行こう、私たちも準備しないと。」

 アリアとリディアは奥の楽屋へ向かう。そこには同じように出番を待つ演奏者たちが所狭しと集合しており、ヴァイオリンのチューニング音や声楽のウォーミングアップが絶えず聞こえる。大手事務所に所属するプロのアーティストや、コンテストで名を馳せた学生、海外からの特別招待ゲストなどがひしめく中、アリアたちは明らかに規模が小さく、華やかな経歴もない。だが、「逆行カノンによるレクイエムの再構築」という前代未聞の演目だけが、大きな注目を集めているのも事実だった。


 通りがかりのスタッフがアリアを見かけ、「あ、あなた方が“Undred Re-Birth”でしたっけ? そちらの控室はこっちです」と案内してくれる。アリアは「ありがとうございます」と答え、小さな控室に通された。そこにいたのは、ピアノの調律師と会話しているノエルの姿だった。彼は調律師から「少し鍵盤の具合がおかしいが、本番には問題ない範囲」と言われ、険しい顔をしている。


「どうしたの?」

 アリアが声をかけると、ノエルは振り向いて微苦笑を浮かべる。「いや、どうもこのホールのピアノが普段より音が安定しないってさ。でも急に修理はできないから、ある程度は弾き手の腕でカバーしろって言われた。俺にそんな余裕あるかな……。」

 その苦笑いに混ざる焦燥は、彼がギリギリの精神状態にいることを物語っている。アリアはそっと手を伸ばし、「大丈夫、ノエルならできるよ」と小さく励ましてみせる。ノエルは視線をそらしつつも、その言葉にわずかに心を支えられたようだ。


 やがてリディアもフルートケースを抱えて控室に合流する。着替えや化粧といった準備は最低限で済ませ、譜面や楽器の確認を念入りに行うのが彼らのスタイルだった。華やかなドレスやタキシードに身を包む他の出演者とはやや趣が異なるが、いま彼らが優先したいのはステージ衣装よりも演奏の内容、そしてアンドリッドの妨害をどう乗り切るかだ。


「ねえ、みんな不安がってるけど、私たちの出番まであとどれくらいあるの?」

 アリアが尋ねると、リディアがスケジュール表を見て「第一部の途中に組み込まれたから、だいたいあと一時間後くらいかな」と答える。ノエルは「それまで少しピアノを試してくる」と言い、先にステージ裏のリハーサル用ピアノへ足を運んだ。


 ホールの大舞台では、既に開幕のオープニングセレモニーが始まっている。主催者あいさつや特別ゲストの短いスピーチ、それに続く華々しい演奏が次々と披露され、観客は熱気に包まれている。ロビーには出店や各企業のブースが並び、お祭りムードが漂っているが、一方で来場者の中には「最近物騒だから早めに帰るかも」「なんだか息苦しい感じがする」と口にする人もちらほら見られる。


「レクイエムを期待してる観客がいるって、本当なのかな?」

 控室に戻ってきたノエルに、リディアがそんな疑問を投げかける。先日の説明会のスタッフによれば、「Song of Undred」というタイトルから、一部のコアな音楽ファンはダークなレクイエムの再現を期待しているらしいのだ。アリアは苦い顔をして、「確かにネット上でも“呪われた曲が聴けるかも”って話題になってるみたい。私たちは逆行カノンで祝福に変えようとしてるのに、ちょっと複雑だよね……」と漏らす。


「そのギャップが逆に受ければいいけどな。リアルに呪われたら困るけど……。」

 ノエルが自嘲気味に笑うと、リディアは不安げに目を伏せる。そう、呪われたら本当に困るのだ。この大ホールに何千人もの観客がいる。万が一、アンドリッドがここで力を振るえば、音楽祭どころか大パニックになるだろう。


 一時間後、アナウンスが入り、アリアたちの出番が近づいてきた。舞台袖ではオーケストラの壮大な演奏がクライマックスを迎え、観客の拍手と歓声が響く。その音を聞きながら、アリアはごくりと唾を飲み込む。ノエルは鍵盤の前で肩を回し、リディアはフルートのリードをチェックしている。ほどなくしてステージスタッフが「次、お願いします。準備よろしいですか?」と声をかけてきた。


「はい……行きます。」

 アリアは覚悟を決めた表情で短く答える。ノエルやリディアも頷き合い、小さく拳を突き合わせてからステージへ向かう。観客の前でこの曲を披露するのは、本格的には初めてに近い。音楽祭のレクイエム強行から考えればずいぶん遠回りしてきたが、今度こそ全力で祝福の形を導きたいと思っている。――そして、アンドリッドが現れたとしても、諦めない。


 やがてアナウンスが響く。「続いての演奏は、“Undred Re-Birth”の皆さんです。どうぞ拍手でお迎えください!」

 舞台袖のカーテンが上がり、三人がステージ中央へ進むと、大勢の観客が温かい拍手を送ってくれる。だが、その拍手の中にどこかざわついた気配を感じ取るのは気のせいだろうか。「Song of Undred」という名前に惹かれた観客も多いらしく、前方席の一部では興味本位の囁きが聞こえる。「あの呪われた曲をやるんだって?」「本当に大丈夫なのか?」と。


 ノエルはそんな視線を無視するようにピアノ椅子へ腰を下ろし、譜面を確かめる。リディアは一礼して定位置に立ち、アリアはマイクスタンドの前で深く頭を下げる。拍手が収まると、彼女が静かな声で挨拶をする。


「本日は、“Song of Undred”という古い鎮魂歌を、私たちなりのアレンジでお届けします。レクイエムとしては知られている曲ですが、実は違う可能性を秘めていると信じて……逆行カノンという手法で、新しい光を探そうと試みています。どうか温かく見守ってください。」


 一瞬、場内がざわついた。「レクイエムじゃないのか?」という声もあれば、「逆行カノンって何だ?」という疑問の声もある。しかし、すぐに静寂が訪れ、アリアは大きく息を吸った。背後でノエルが鍵盤に触れ、リディアがフルートを構える。その瞬間、遠くの方でかすかな冷気が流れた気がして、アリアの心が警戒を鳴らす。――アンドリッドが動いているのかもしれない。でも、もう引き返せない。


 ノエルの左手が重々しいコードを響かせ、右手がレクイエムの主要モチーフをゆっくり逆転させながら流し始める。通例なら低い悲しみから始まるはずの旋律が、違う方向へ伸びていくことで、観客は戸惑いと新鮮さを同時に味わう。リディアがフルートでそれを補完し、アリアが母音と簡単なフレーズを掛け合わせて悲しみを薄めるような音を放つ。導入部分は、まだ静かで神秘的な雰囲気を醸し出している。


「……いい感じ。」

 リディアが心の中で小さくつぶやく。過去の練習に比べると、今日はかなりスムーズに流れている。逆行カノンに入り込む前の段取りが上手く運び、少なくとも導入の印象は悪くない。その証拠に、客席からは咳き込む音や、怪訝な囁きがほぼ聞こえず、皆が息をのんで聴き入っているのがわかる。


 だが、ちょうど次のセクションへ入ろうというところで、ノエルが突如鍵盤を弾くのをやめてしまった。理由は簡単だった。会場に不穏な気配が走り、視界の端に黒い影がちらついたのだ。「来たか……!」ノエルがそう心の中で叫ぶと、同時に舞台袖で演奏をサポートしていた他の奏者が急に意識を失って倒れ込むのが見えた。


「ん……あ、ああっ……!」

 その奏者に駆け寄るスタッフの悲鳴が響き、客席の一部も騒然となる。どうやら何か不吉な霧のようなものがステージ上にさっと広がったようで、ライトがぼんやりと歪んで見える。アンドリッドの威力が会場を包んでいるのだろう。観客の間からも「なんだ、この寒気は」「頭が痛い……」という声が上がり始めた。


「曲を止めちゃだめ!」

 アリアがマイクを掴み、ノエルに目配せをする。しかしノエルは鍵盤に指を戻せず、まるで縛られたように苦しげな表情を浮かべる。トラウマのフラッシュバックが起きそうになり、体がこわばるのだ。「くそっ……ここで止まったら、あのときの二の舞だ……。」彼は必死に自身を鼓舞するが、どうにも指が動かない。


 一方、リディアはアリアをフォローしようとフルートを吹き出すが、響きが妙に重く、客席全体に悲痛な波動が伝わっていくように感じられる。「これじゃ逆行が崩れちゃう……!」と焦るが、止まればアンドリッドに完全に飲み込まれてしまうかもしれない。必死の思いで吹き続けるも、耳鳴りのような音が会場を支配していくのを感じる。


「どうしよう……また失敗するの?」

 アリアの脳裏に過去の音楽祭の悪夢が蘇る。大勢の観客を悲しみに巻き込んだあの惨状が再現されるのか。それは絶対に避けたい。彼女はマイクをぎゅっと握りしめ、「祝福の音を……」と呟いて声を振り絞る。しかし口から出るのはか細い喘ぎのような音で、悲壮感を増すだけだ。


 すると、客席から悲鳴が一気に上がった。ステージに近い座席の人々が立ち上がり、何かを指差している。その先を見ると、黒い影が舞台上にうっすらと顕現しているのだ。人の形をしているようで、その輪郭はもやのように揺らめいている。ある者は「幽霊だ!」と絶叫し、別の者は「呪いだ!」と椅子を倒して逃げ出す。会場は一瞬でパニックに陥り、スタッフが制止を呼びかけるが効果は薄い。


「これが……アンドリッド……。」

 アリアは呆然と立ち尽くす。黒い影は意思を持つかのようにステージを漂い、演奏家の一人が触れた途端、その人は膝をついて悲しみに打ちひしがれた表情でうずくまる。客席のあちこちでも意識を失う者や号泣する者が出て、スタッフが救護班を呼ぶ騒ぎへと発展している。まさに阿鼻叫喚の地獄絵図だ。


 ここで曲を止めれば完全にアンドリッドの勝利となり、このフェス自体が中断されてしまうだろう。しかし、演奏を続けたからといって状況が好転する保証もない。絶望感に飲まれそうになるアリアが、もう一度ノエルを振り返ったとき、目が合う。ノエルは座ったまま鍵盤に手を添え、震える声で叫ぶように言った。


「やめるな、続けろ……! 俺が……俺が、絶対に弾く……!」


 そして次の瞬間、ノエルは大きく息を吸い込み、一気に鍵盤を叩き始める。最初はガタガタとミスタッチが出てしまうが、彼は止まらない。家族を失った夜の記憶がフラッシュバックしてもなお、強引に指を動かし続ける。リディアはそこで再びフルートを合わせ、アリアも震える膝を何とか踏ん張って声を発する。重苦しい中にも希望の糸を繋ごうとする音が、再度会場に流れ出す。


「お願い……この音を消さないで……!」

 アリアは叫ぶように歌う。レクイエムのモチーフを逆行させるだけでは足りないと感じ、本能的に新しいフレーズを挿入しようとする。まだ見ぬ三重和声の完成形を探るように、ノエルのピアノへ声を重ねるが、どうにも空白が残っている。そこに「何か」が必要なのだと痛感する。


「三重和声……最後の一つ……。」

 ノエルが震える声で呟くが、何をすればいいのか分からない。譜面には書き切れない最後のパズルがある。それを解けなければ、アンドリッドに打ち勝つメロディが生まれない。ステージ上では黒い影がさらに濃厚になり、観客の悲哀を一身に集めているようだ。轟音にも似た不気味なハウリングが響きわたり、会場の照明が不安定に点滅する。


「アリア……逃げて……!」

 リディアが息絶え絶えに叫ぶ。黒い影がじわじわとアリアのほうへ近づいてきており、見るからに彼女の歌声を奪おうとしているように見える。実際、アリアの喉は締めつけられるように苦しく、声が出なくなりかけていた。客席からも「やめて!」という悲鳴が飛んでくるが、どうすることもできない。


「……逃げない……やめない……!」

 アリアは涙を流しながらマイクを握り、必死に声を張ろうとするが、かすれるばかりで音程が思うように出ない。そこへ黒い影が触れんとした刹那、ノエルのピアノが一際鋭いコードを響かせた。半ば絶叫のようなタッチで、彼は鍵盤を叩き込み、逆行カノンの進行を無理矢理上昇させる。


「あと一歩……足りないなら、俺が出す……!」

 半狂乱のような声でノエルが叫ぶと、リディアも目を見開き、フルートにありったけの息を込める。しかし、まだ音が繋がらない。逆行メロディに欠けている最終ピースが見つからないまま、混沌が続く。黒い影は嘲笑うかのようにうねり、悲しみを拡散して観客を次々と絶望へ引きずり込む。


 そのとき、アリアの胸を突き抜ける閃光のような思いが走った。――「生贄や代償」が必要だというあのメモ。もしかすると、それは「自分自身が大切にしてきた何かを手放す」ことを示唆しているのではないか? もしレクイエムが逆行カノンに完全な力を得るには、演奏者が悲しみを断ち切る覚悟を示す必要があるのかもしれない。


「代償って、そういうこと……!」

 アリアは声にならない声で呟きながら、覚悟を決めた。これまでの人生、彼女は歌を愛し、その純粋な喜びを糧に生きてきた。もしそれを捨てることで曲が完成し、街の人々を救えるなら――大切なものを諦めることになるが、今この瞬間、それしか道がないように思えた。


「アリア、だめだ、そんなこと……!」

 ノエルが何かを感じ取ったのか、血相を変えて首を振るが、アリアは瞳を閉じてマイクを握りしめる。笑顔を浮かべ、苦しみをこらえながら、最後の高音へ踏み出した。その瞬間、まるで魂を削るように声が震える。口から放たれるのは、レクイエムの悲哀と逆行カノンの希望が融合した刹那の響きだった。観客が一斉に息を呑むのが分かる。


 同時に、黒い影がアリアの身体へ触れようと迫り、視界が真っ暗になりかける。しかし、その拍子に会場全体がぎらりと閃光に包まれ、強烈な音圧が一瞬だけ巻き起こった。まるでレクイエムの負の力と、アリアが放つ祝福の力がぶつかり合ったかのようだ。ノエルは床に手をついて揺れをこらえ、リディアは両耳を塞いで悲鳴を上げる。観客席でも椅子が倒れ、スタッフが飛び交う混乱の渦が巻き起こる。


「やめろぉぉ……!」

 ノエルが叫び声を上げ、ピアノを叩き続ける。アリアの声はかすかに聞こえるが、もう悲痛なうめきに近い。黒い影がアリアの歌声を覆い尽くさんとする中、ノエルの鍵盤だけが逆行メロディを必死につなぎ止めている。――だが、いよいよ限界かと誰もが思ったとき、観客席の一角から別の音が聞こえてきた。


「……?」

 誰かが短く声を出し、次の瞬間、弦の響きがかすかに会場に混ざった。エトワや仲間たちが、客席から必死にバイオリンや他の楽器を持ち込み、逆行メロディを補完しようとしているのだ。警備員に止められそうになりながらも、「協力させて!」と叫びつつ弓を走らせるエトワ。その音が、ノエルのピアノと絡む。さらにチェロやクラリネットの音も続く。


 「……みんな……。」

 アリアの目に涙が浮かぶ。仲間たちが小さな楽団を結成してここまでやってきた、あの努力が今こそ発揮されているのだ。レクイエムが悲しみを増幅しようとするなら、こちらは逆行カノンをさらに強化して祝福を押し出す。黒い影がアリアを飲み込もうとしても、多彩な楽器の音色がそれを阻むかのように会場を包み込む。


 客席からは混乱が続くものの、一部の人々はその音に安らぎを感じ、椅子へ腰を下ろして静かに耳を傾け始める。警備員やスタッフも「何が起きてるんだ?」と呆然としているが、ともかくアンドリッドの暗い波動をかき消すかのようなメロディが徐々に広がっていくのを感じる。


「アリア……行け! 最後まで歌え……!」

 ノエルが涙をにじませ、震える声で叫ぶ。アリアはかすかに微笑み、まだ残っている力を振り絞って歌声を響かせた。するとさっきまで曇っていたホールの照明が、少しずつ明るさを取り戻していく。黒い影はうごめきながらも、その姿をはっきり保てなくなり、会場に張り詰めていた呪いの霧がやや薄れるように見えた。


 とはいえ、完全な逆行カノンはまだ未完成だ。三重和声をどのタイミングで発動させればいいのか、ノエルも迷っていた。試行錯誤の末に見つけたコード進行を今ここで全部使うわけにもいかないし、アリア自身が声を失う危険がある。それでも、このままではアンドリッドを完全に押し返すには至らず、次第に黒い影が再び勢いを増してきた。


「……足りないのか、まだ……!」

 ノエルは声を震わせ、鍵盤を叩く力をさらに込める。指先が擦り切れるような痛みに耐えながら、レクイエムを逆行させる音を必死に重ねるが、圧倒的な悲しみが再び客席を侵蝕しているのを感じる。遠くでうめき声が上がり、何人かが倒れ込む姿が視界に入る。


 そこで唐突に舞台が揺れ、異様な鳴動が天井から降ってきた。照明が一つ落下しそうになり、スタッフが絶叫する。「もうやめろ、演奏を止めろ!」という叫びがステージ袖からも聞こえるが、アリアたちは止まれない。止まればすべてが暗闇に沈むだけだと分かっている。


「ノエル……!」

 リディアが叫ぶが、ノエルは応じられない。アリアももう限界だった。声を出すたび、意識が遠のきそうになる。そんなとき、不意にあるイメージが彼女の頭をよぎる。――「もし、本当に『代償』が必要なら、私の声を捧げるしかないのかもしれない」。そう思うと、胸が切り裂かれるような痛みを覚えるが、それでも街を救うために、自分ができることなら何でもやる。


「歌を……失ったら、私は……。」

 アリアは内心で泣き叫びそうになるが、それが自分の使命なら受け入れよう。震える唇で、最後の高音を狙う。レクイエムの動機を逆方向へ繋ぎ、三重和声の鍵盤をノエルと同期させれば、たぶん最後の扉が開く――その確信があった。だが、その先に何が待ち受けるか分からない。


「……やるしかない……!」


 強烈な光がアリアの目の前を走る。観客の悲鳴と泣き声が混在し、黒い影が彼女へ迫る。しかし、アリアは意を決してマイクを離し、素の声で絶唱に挑む。あまりに大きな声が響くため、スピーカーが一瞬ビリビリとノイズを出す。ノエルはその一瞬の隙に、紙に書かれた三重和声の最終コードを全力で押さえる。リディアもフルートでそれを追いかける。客席から加勢するエトワらも必死に音を重ねる。ひとときの合奏が、闇と光の狭間で爆発的にぶつかり合った。


「うわあああぁ……!」

 ノエルの絶叫と共に、舞台全体を衝撃波が走る。客席の多くが顔を伏せ、悲鳴やうめきで混沌とするが、その中心にいるアリアは叫ぶような音を出しながら、消え入りそうな意思を保っていた。黒い影はアリアの足元を飲み込むように覆っているが、完全には浸食できず、激しく揺れている。


 まるで闇と光の綱引きのように、演奏が進むにつれて黒い影が薄れ、観客の呻き声が減っていくのが分かる。一部の人は目を開けて舞台を見つめ始め、椅子から立ち上がる者も出てきた。「なんだ……あの曲……」と囁く声が広がる。アンドリッドの輪郭は崩れかけ、ホール全体から薄紫の霧が抜けていくようだ。


「あと少し……頼む!」

 リディアが泣き声まじりにフルートを奏で、ノエルは震える指でコードを維持する。三重和声の最後の音が揃えば、レクイエムは完全に逆行し、祝福へ転ずるはず。アリアはもう声が枯れそうになりながら、空中をつかむように手を伸ばし、喉の奥から最後のメロディを吐き出した。――音楽祭の時にはなかった圧倒的な力がそこにある。


 その瞬間、会場を覆っていた黒い影がズルズルと崩れ、やがて音もなく消失していく。観客の悲嘆の声も止み、舞台へ注がれる視線は驚きと感嘆に変わりつつあった。「消えた……」「なんだか急に息が楽になった……」という囁きが一斉に起こり、スタッフたちも目を丸くしている。アンドリッドの本体か分身かは不明だが、確実に何かが消えたのだ。


 が、アリアは目を閉じたまま立ち尽くしている。歌い切った代償なのか、声を振り絞りすぎて呼吸がままならない。ノエルが鍵盤から手を離して駆け寄ると、彼女は崩れ落ちそうになり、彼の腕の中でかろうじて意識を保っていた。


「アリア……大丈夫か!?」

 ノエルが声をかけるが、アリアは息が切れ、かすれた声で「う……あ……」と苦しそうにするだけ。どうやら喉に大きな負荷がかかったらしく、一時的に声が出なくなっているようだ。リディアが慌てて水を取りに行き、スタッフも医務室の人を呼ぼうと動く。観客席は呆然としたまま静まり返り、先ほどの混乱が嘘のようだ。


 遠巻きに見ていた人々の中には、涙を流しながら拍手を送る者がちらほら現れる。「すごい……本当に闇が消えた」「なんだったんだ、あの黒い化け物は」「あの子たちが倒してくれたのか?」と色めき立つ声もある。運営側は事情を把握しきれないまま、ステージを中断しようとするが、アンドリッドの消滅を感じてホール内が急速に落ち着きを取り戻しているのも事実だった。


 ノエルはアリアの背中をさすりながら、唇を噛んで堪えていた。彼女が犠牲になる形で曲を完成させてしまったのではないか――そんな思いが頭をよぎる。先ほどの一瞬、アリアは確かに「自分の歌声を捧げてもいい」と覚悟を決めたかのようだった。もし本当に彼女が声を失ったとしたら、何のために祝福を生んだのかと、ノエルの心は千々に乱れる。


「アリア……しっかりしろ……。」

 彼が必死に呼びかけると、アリアはうなずくように微かに首を動かす。瞳には涙が滲んでいるが、意識はあるらしい。ただ、声を出そうとしてもくぐもった息しか出ず、肩で苦しそうに呼吸している。リディアが水を差し出して口元へ持っていくと、アリアは少量を飲み込んで、一瞬だけ目を見開いた。


「こえ……でない……」

 かすかな声でアリアがつぶやく。ノエルは茫然とし、「そんな……」と絶句するが、すぐに「医務室へ行こう!」とリディアと一緒にアリアを支える。メンバーたちも駆け寄り、ステージから彼女を連れ出す。観客はそれを拍手で送りながら、戸惑いと感動の入り混じった表情を浮かべている。なかには「素晴らしかった!」と叫ぶ声もあった。


 こうしてフェスの大舞台での演奏は、半ば強制的に幕を下ろす形となった。アンドリッドの影は消え失せたかに見えるが、多くの観客が衝撃を受け、運営側は混乱しながらステージ進行を修正しようと右往左往している。カンタビレ・グランドフェスの中止を検討するかもしれないが、しばらくは後続の演目が代わりに続行されることになりそうだ。


 舞台袖に運び込まれたアリアは、医師や看護スタッフから診察を受け、しばらくは安静にして喉を回復させるよう言われる。ノエルが焦燥感にかられて「どうなんですか、声は?」と問うが、医師は「炎症がひどいようです。無理に声を出さないほうがいい。もしかすると回復に時間がかかるかもしれないね……」と渋い顔で答えるだけだった。


「アリア……。」

 ノエルはアリアの手を握り、うつむく。彼女は必死に伝えたいことがあるのか、目を潤ませながら何度も唇を動かすが、声帯が痛めつけられて声にはならない。涙が頬を伝い、ノエルの指先を濡らす。リディアもそばで泣きそうな顔になりながら、「でも、生きてる……それだけで十分じゃない?」と精一杯の励ましを送る。


 周囲には拍手や賞賛、あるいは困惑の声が入り乱れているが、そんなことより今はアリアが無事かどうかが最優先だ。ノエルの心には「自分が何かもっとできたはずじゃないか」という後悔が渦巻いている。しかし、現実問題として、彼女と仲間たちがいなければアンドリッドの惨劇はもっと大きなものになっていただろう。


「とにかく今は休ませるしかない。会場を出よう……。」

 リディアがそう提案し、ノエルも同意する。救急担当のスタッフが事情を聞き、車を手配してくれると言うので、アリアはそちらに移動することにした。声を失いかけた彼女が意識を保ったまま歩けるか心配だったが、ノエルやリディアが肩を貸すと、ゆっくりではあるがなんとか廊下を進むことができる。


 ホールを出る際、客席の人々が三人を見つけて自然発生的に拍手を送り、まばらに「ありがとう!」という声が響いた。アンドリッドの影が消えたことで、彼らの演奏が何かを救ったと感じる人もいるのかもしれない。ノエルは複雑な表情でそれに応え、頭を下げる。「ありがとう……でも、これで本当に終わりじゃない」と心の中で呟く。なぜなら、逆行カノンの本当の完成を見たわけではないし、アリアの声を失うリスクという代償が発生しているからだ。


 外に出ると冷たい風が頬を叩き、夜の空には星が瞬いていた。フェスはまだ続いているが、先ほどの騒動で一部の客が退場し、街にも異様な静けさが漂っているようだ。ノエルは震える手でアリアの肩を支え、「ごめん……俺がもっとちゃんと弾けてれば……」と悔やむ。リディアも「私も何もできなかった……」とうつむく。アリアは首を横に振りながらも声が出せず、歯がみするように唇を結んでいる。


「一度、宿泊先で休もう。明日以降はアンドリッドがどう出てくるかわからないけど、とにかく今はアリアを看護しなきゃ……。」

 リディアが提案し、ノエルも同調して、準備された車へアリアを乗せる。三人はフェス会場を後にするが、その背後ではいまだ拍手やどよめきが続き、運営側が慌ただしく動いている姿が見えた。こうして「Song of Undred」の公演は歪んだ形で開幕し、強制的に幕を下ろしたかに思えた。


 だが、最大の問題はこれで解決したわけではない。アンドリッドの本体を打ち破ったのかどうか、街全体の悲しみが本当に消えたかどうかも不明だ。何よりも、アリアの声が戻らなければ、祝福の歌としての完成に到達できない。絶望に似た空気が三人を包み込み、車の中には重苦しい沈黙だけが流れていた。


(ごめんね、みんな……。私のせいで……。)

 アリアは喉の痛みをこらえながら、心の中で何度も謝る。代償を払ったつもりが、声すらも完全には封じ込めなかったのか――いったい何を、どこで間違えたのか。ノエルのいたわりの目が痛々しくて、思わず顔を伏せてしまう。いま彼に「ありがとう」と言うことさえできないなんて。


 そうして暗い夜を抱え、三人はホテルの一室へ向かう。そこでアリアは医師から処方された薬を飲み、ノエルとリディアが交代で付き添うことになった。長い夜になりそうだ。フェスのステージ上で奇跡に近い光景を目にしながら、その結末は惨敗に近い。アンドリッドの姿こそ消えたが、果たしてこれが本当の終わりなのかは誰にもわからない。


 深夜、ノエルは窓辺に立ち、街のネオンをぼんやりと眺めていた。遠くからパトカーや救急車のサイレンが聞こえる。もしかすると、アンドリッドの爪痕がまだ街のあちこちに残っているのかもしれない。「もしアリアが声を失ったら、祝福の姿はどうなるんだ……」頭が痛くなるほど考えても答えは出ない。しかし、彼女の犠牲を前提にした救いなんて認められないのは確かだ。


「絶対に、こんな終わりじゃ納得できない。生贄にならなくても、歪みを正す方法はあるはずなんだ……。」

 ノエルは拳を握りしめ、かすかに声を漏らす。両親が果たせなかった夢を継ぎ、曲を本当に救う道を見つけるために、もう一度立ち上がらねばならないだろう。そして、アリアの声が戻ることを祈りつつ、新たな方法を探さなければならない。暗い窓の向こうには、夜の冷たい星空が広がっている。


 こうして、カンタビレ・グランドフェスでの「Song of Undred」初披露は歪んだ開幕を迎え、大混乱の末に幕を下ろした。アンドリッドの顕現こそ一時は阻止したものの、アリアが歌声を奪われかけ、完全な逆行カノンの完成にも至らず、大きな宿題を残す形となっている。街の人々は呪いのレクイエムが消えたのかどうか、真実を知らぬまま混乱と安堵が入り混じった夜を過ごすことになるだろう。


 しかし、アリアとノエル、リディアをはじめとする小さな楽団の仲間たちは、まだ諦めてはいない。たとえ生贄や代償といった不吉な文字が踊っていようと、誰も犠牲にならない形で祝福を完成させる道がきっとあると信じている。そのためには、ここで下を向くわけにはいかないのだ。曲の歪みは深く、アンドリッドの力は絶大だが、光は確かに見え隠れしている。


「必ず、またステージに戻るから……。」

 誰にも聞こえないようなか細い声で、アリアはホテルのベッドでそう呟いた。喉が痛み、声が出るかは分からないが、彼女の意思ははっきりしている。次に舞台に立つときは、きっと真の「Song of Undred」を響かせ、悲しみに支配された世界を祝福へ導きたい――その願いだけが、今の絶望を振り払う唯一の光になっていた。会場に漂う余韻が消えぬまま、静かな夜が更けていく。

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