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第1章:再会のプレリュード

朝の鐘が遠くから鳴り響くころ、ノエル・フォルティスはいつものように質素な部屋で目を覚ました。薄暗い窓の外からは芸術都市カンタビレの朝霧が見え、街並みをぼんやりと覆っている。部屋の片隅には埃をかぶった古いピアノと、折り畳まれた楽譜が押し込められていたが、彼はそれらから目を背けるように身支度を始める。音楽――それは彼にとって、過去の痛みを呼び起こす記憶の象徴でしかなかった。


ノエルが通うアリオーソ学院は、カンタビレでも有数の名門校だ。音楽と学問の両方に優れたコースが設けられ、多くの生徒がそれぞれの才能を磨いている。その中でもとりわけ人目を引くのは音楽科の学生たちで、オーケストラやソロ演奏、作曲など、あらゆる分野に精通した未来のプロを目指す者ばかり。だがノエルは、音楽一家の出身であるにもかかわらず一般科目を専攻し、あえて音楽から距離を置いていた。


長い廊下を歩きながら、彼は無意識に右耳に触れる。そこにはごく小さなイヤホンのようなものが差し込まれていた。学院の規則で禁止されているわけではないが、珍しいことは珍しい。もちろん、流れているのは音楽ではない。雑音か、あるいはただの耳栓代わり。その理由を尋ねる生徒は少なかったが、ごくまれに尋ねる人がいると、ノエルは「雑音をかき消すため」とだけ答えていた。その雑音というのが実際は何なのか、詳しく語ることは決してない。


今日も朝早くから、音楽棟のほうからは各楽器の調律音や練習の響きが漏れ聞こえてくる。ピアノ、ヴァイオリン、フルート、ホルン――どの音色もカンタビレの街らしい豊かな響きだが、ノエルの胸には何か重苦しいものが落ちるようだった。彼は足早に通り過ぎ、音楽科の建物とは反対側の教室へ向かう。一般科目の教室にはそれほど熱気はなく、ほどほどに勉強をしに来ている生徒が席に着いているだけだ。


机に腰を下ろすと、見慣れた顔の男子学生が声をかけてきた。彼はノエルの数少ないクラスメイトであり、音楽科との温度差を共感してくれる仲間でもある。


「おはよう、ノエル。今日もまた音楽科の連中は朝から盛り上がってるみたいだね。来週には新人演奏会だとかいう話もあるみたいだし、なんだか世間はそっちに集中してる感じだ。」


ノエルは相手の言葉に適当に相槌を打つ。「そうらしいな。興味はないけど。」


正直なところ、彼は学院で開かれるあらゆる音楽イベントを、できるだけ避けたいと考えていた。例えどんなに華やかでも、どんなに絶賛される音色でも、彼の心を苛むのは暗い記憶だけだ。そんな態度に周囲は違和感を覚えるだろうが、もともとノエルの無口で近寄りがたい雰囲気を知るクラスメイトたちからすれば「またか」と思う程度の話だった。


一方、アリオーソ学院の門をくぐったばかりの少女がいた。名はアリア・セレナーデ。留学生としてやってきた彼女は、世にも稀な美しい歌声を持つと噂されており、その噂どおり、見た目からしてどこか浮世離れした雰囲気を醸し出している。長い銀色の髪はふわりと風になびき、瞳は澄んだ水色。学院の掲示板をちらりと見ては、「あ、ここが有名なアリオーソ学院かあ」などと感嘆混じりに呟いていた。


門をくぐる際に耳にしていたのは、音楽棟から聴こえる練習の音色。彼女にとってそれは心が踊る歓迎のファンファーレに等しく、思わず足を止めて聞き入ってしまうほどだった。遠くからヴァイオリンの旋律が伸びやかに響き、続いてピアノの優美なアルペジオが重なる。ひとしきり堪能した後、アリアは歌を口ずさみたい衝動に駆られたが、ここでいきなり歌い始めたら目立ってしまうと思い、こっそり心の中だけでメロディを合わせる。


彼女が留学してきたのは、ただ単に音楽の勉強をしたいからではない。ずっと探し求めていた特別な曲を、「この学院とカンタビレの街なら見つけられるかもしれない」という確信めいた思いがあったからだ。その曲こそ「Song of Undred」。世の中に数多ある曲の中でも異彩を放ち、あまり表立って演奏されることのない謎の鎮魂歌。アリアは古い文献でその存在を知り、「本当は人を救う曲なのではないか」と感じていた。詳細を知りたい――それが彼女を遠い地からここへ駆り立てた理由だった。


ところが、最初に顔を合わせたノエルは、その「Song of Undred」を忌み嫌う張本人である。まだ両者は出会っていないが、運命は学院の中で二人を近づけつつあった。


昼前の休み時間、ノエルは廊下の窓辺でぼんやりと外を見ていた。そこには陽の光を受けてきらめく中庭と、音楽科の生徒たちが集まるスペースがある。何人かが楽器を持ち寄って軽くセッションしている様子が目に入るが、ノエルは無関心を装う。ただ、その一角に見慣れない髪色の少女が混じっているのがちらりと視界をかすめた。銀色の髪、透明感のある肌――ここでは珍しい風貌だ。


視線を一瞬向けると、少女と目が合った。アリア・セレナーデ。彼女は笑顔で手を振ってくるが、ノエルは一瞬戸惑ったのち、すぐにそらしてしまう。心当たりはまったくないが、なぜかこちらに手を振られた気がして落ち着かない。すると、アリアは小走りにこちらへ向かってくる。


「ねえ、あなたはこの学院の生徒? 私、今日から編入したアリア・セレナーデって言うの。よろしくね!」


彼女は満面の笑みを浮かべて挨拶をする。その明るさにノエルは気圧されるように言葉を返せず、ただ軽く会釈をしただけだ。しかしアリアは気にせず続ける。


「ごめんね、いきなり知らない人に話しかけて。でも、廊下で立ってるところを見たら、なんとなく声をかけたくなっちゃったの。あなたのお名前は?」


「あ……ノエル。ノエル・フォルティス……だけど。」


妙に言いづらい気持ちになるのは、彼女の瞳があまりにも純粋で、まるでノエルの心の奥を見透かされているような感覚に襲われるからだ。これまで音楽科の生徒たちにしつこく話しかけられたこともあったが、どこか押しつけがましい感じだった。その点、アリアはもっと自然で、まるで子供が新しい友達を探すような無邪気さがある。


「ね、ノエルって音楽科? それとも一般科目のほう? あれ、でもフォルティスって有名な音楽一家の名前じゃ……」


彼女の言葉に、ノエルは肩を強張らせる。案の定、その姓だけで察しがつく人は少なくない。かつてはノエルの両親も著名な音楽家としてカンタビレで活躍していたのだから。だが今はもう、彼には音楽を語る資格も意思もない――そう自らに言い聞かせている。


「俺は一般科目だ。音楽はもうやってない。」


ノエルが素っ気なくそう言い放つと、アリアは少し不思議そうな顔をした。しかし大きく驚くでも、噂のようにしつこく「どうして?」と問い詰めるでもなく、軽く首をかしげた後、にこりと笑う。


「そうなんだ。もったいないけど、まあ人にはいろいろあるよね。実は私、留学生で歌の勉強をしに来たんだけど、ずっと探してる曲があるの。それについて、いろんな情報を集めようと思ってるんだ。」


「探してる曲……?」


ノエルは思わず聞き返す。アリアの言葉の端々に妙な熱がこもっていて、音楽を嫌う自分とはあまりに違う輝きを放っているように感じたからだ。そして同時に、かすかではあるが嫌な胸騒ぎがした。「Song of Undred」――そんな名が頭をかすめる。


だがアリアがそこまで口にする前に、ノエルは「興味ない」と早々に会話を打ち切り、立ち去ろうとする。こんなふうに深入りしてしまうと、どうせ嫌な思いをするだけだ。彼はそう自分に言い聞かせていた。


しかし廊下の曲がり角で、勢いよく走ってきた生徒と衝突し、危うく転倒しかけた。なんとか体勢を立て直すと、そこにいたのはフルートケースを抱えた少女、リディア・ハルモニアだった。彼女こそ、ノエルが数少ない心許せる相手、つまり幼馴染である。


「いったた……ごめん、ノエル、大丈夫? 急いでたから前をよく見てなかった。あら、その子は……」


リディアはノエルとアリアの視線を行き来させて、何か察する。アリアもリディアに興味津々といった様子で、「フルート奏者なんだね!」と声をかけていた。二人は軽く自己紹介を交わす。


「ごめんなさい、私、今日から来たアリア・セレナーデって言います。留学生だけど、よろしくね!」


リディアは笑顔で応じる。「ようこそアリオーソ学院へ。私はリディア・ハルモニア。音楽科でフルートを専攻してる。ここの学院は音楽のレベルが高くて大変だけど、きっと楽しいよ。」


その際、リディアはノエルの存在を気にかけるようにちらりと視線を送る。ノエルは気まずそうにそっぽを向くが、リディアには彼の内面がなんとなく伝わってくるようだ。幼馴染のため、彼が音楽から遠ざかるきっかけとなった惨劇を知っているのは、この学院の中でもほとんどリディアだけと言ってよい。


「ね、リディア。実は私、『Song of Undred』って曲を探してるの。知らない?」


アリアが弾む声で尋ねると、リディアは一瞬言葉を詰まらせた。どう答えるべきか迷うような表情だ。すると、ノエルがアリアの言葉を聞いて明らかに表情を強張らせる。


「なんで、そんな曲……」


口にしてしまった瞬間、ノエルは後悔の念に囚われる。できれば聞き流したかった。しかし、自分にとって「Song of Undred」は切り離すことができない忌まわしい名前。反応せずにいられなかったのだ。


アリアはノエルをまっすぐ見つめながら答える。「古い文献で見たの。『Song of Undred』はレクイエムだって言われてるけど、実はそれだけじゃない、もっと別の意味があるんじゃないかって。人々を浄化する力があるとか、誰かを救う力があるとか、いろいろな伝承があるのに、なぜか本当の姿を知る人が少ないって……」


ノエルは思い切り眉をひそめ、声を荒げる。普段は滅多に感情を表に出さないが、この曲の名前を聞くとどうしても冷静ではいられない。


「救う力? そんなわけない。あれは……あの曲は、ただ人を苦しませるだけの鎮魂歌だ。俺の……家族を……」


その言葉にアリアは目を見張った。彼の家族に何があったのかはわからない。でも、ノエルの表情には相当な苦しみが刻まれていると感じる。思わずアリアは「ごめん、何か言いにくいことを聞いちゃった?」と遠慮がちに問いかける。


ノエルは答えず、足早にその場を離れていく。リディアは困ったようにため息をつき、アリアの肩を軽く叩いた。


「気にしないで。ノエルはああ見えて、もともと音楽の才能があったの。でもある事件で大切な家族を亡くして……それ以来、あの曲をひどく嫌うようになったのよ。」


アリアは悲しそうな面持ちでノエルの背中を見つめる。「そうだったんだ……でも、もし私が本来の『Song of Undred』を見つけて、ちゃんとしたかたちで歌えたら、彼の苦しみを少しでも和らげられるんじゃないかな……そんな気がする。」


リディアは微笑んで答える。「あなたは優しいのね。でも急に踏み込みすぎると、ノエルはますます閉じこもってしまうかも。ゆっくり、気長に接してあげてほしいな。」


そう言いつつも、リディアは心の奥でかすかな期待を抱いていた。ノエルが再び音楽の世界に戻り、あの素晴らしい才能を発揮してくれる日がくるかもしれない――アリアのように輝く存在が現れたのなら、あるいは。


やがて夕方になり、学院では授業を終えた学生たちが思い思いに部活や自主練習へ向かっていた。音楽科の棟からはさらに盛大な楽器の響きが聞こえてくる。ノエルはそんな喧騒を避けるように人気のない中庭を歩いていた。


家路へ急ぎたい気持ちもあるが、どうにも心が落ち着かない。今日耳にした「Song of Undred」の名が頭から離れず、心臓の鼓動を早めている。かつて幼い頃に聴かされたあの鎮魂歌。それが原因で家族を失い、人生が一変してしまった。いや、本当にそれだけが原因だったのか――いくら考えても答えは出ないが、ノエルの中では憎むべき存在であることに変わりはなかった。


道の脇で、ふと足を止める。中庭の中央には大きな噴水があり、水音が規則正しく響いている。音楽ではなく自然の音なのに、どうしてか心が少しだけ落ち着く。ノエルはイヤホンを外し、噴水の音に耳を澄ませる。


すると、どこからか柔らかなフルートの音色が聞こえてきた。優しい風に乗って流れてくるその旋律は、リディアのものだとすぐにわかった。幼いころから何度も耳にしてきた、彼女の練習曲の一端に違いない。


「リディア……」


ノエルは声に出さずに名前を呟く。リディアは彼のことを昔から知っていて、家族が亡くなったあともずっと気にかけてくれている。だがノエル自身が音楽を捨ててしまったからこそ、彼女との距離も少しずつ開いていった。それでもリディアは、フルートの音色を通じてノエルを見守り続けていたのかもしれない。


風に乗る旋律が途切れると、しばらくしてリディアが噴水のほうへ姿を現した。ノエルが視線を向けると、彼女は少し驚いた表情を浮かべるが、すぐに柔らかな笑みを返す。


「こんなところにいたんだ。今日は早く帰らないの?」


「……なんとなく。音楽棟のほうがうるさいし。」


ノエルが苦笑い交じりに言うと、リディアは「そっか」と相槌を打つ。フルートケースを大事そうに抱えながら、彼の隣に腰を下ろした。


「ねえ、アリアのこと、どう思った?」


不意にリディアが問いかけた。その名を聞いたノエルは、一瞬言葉に詰まりながらも正直に答える。


「……よくわからない。人懐っこいし、変わった子だな。」


リディアはくすっと笑った。「確かに。初対面であんなにフレンドリーなのは珍しいかも。でも悪い子じゃないわ。むしろ凄く真っ直ぐというか、純粋な感じ。話をしてると私まで元気が出る。」


ノエルはそれ以上何も言わない。そう思うのはリディアがもともと優しいからだろうと、勝手に心の中で納得する。それでもアリアが「Song of Undred」を歌いたいなどと言い出さなければ、もっと別のかかわり方ができたかもしれない、とわずかに複雑な気持ちになる。


「でも、アリアは『Song of Undred』を探してるって言ってた。どうしてわざわざそんな曲を……」


リディアは少し表情を曇らせる。「私もまだ詳しくは聞いてないけど、あの曲に特別な力があるって信じてるんじゃないかな。古い文献とかを読み込んで、何か感じるところがあったのかもしれない。」


ノエルは噴水を見つめながら、記憶を手繰り寄せる。幼い頃の断片的な記憶――両親の部屋から聞こえてきた「Song of Undred」の旋律。そのレクイエムが途切れたとき、激しい叫び声や物が壊れる音が重なり、その後に訪れたのは恐ろしい静寂だった。ノエルの家はそこから崩壊していき、両親は帰らぬ人となった。直接的に何が起こったのか、子供だったノエルにはよくわからなかったが、あの忌まわしい曲と「アンドリッド」という名だけが頭にこびりついている。


「アリアは……危険だ。あの曲なんて触れないほうがいい。」


ノエルはリディアのフルートケースを一瞥し、低い声でつぶやく。リディアは複雑そうな顔でノエルを見た。


「分かってる。あなたがその曲を嫌う理由も、少しだけ知ってるつもり。でも、アリアにはアリアの思いがあるはずだし、私たちが一方的に止めるのも……」


そこまで言いかけて、リディアははっとした表情になる。ノエルの眉間には嫌悪と苦痛が混ざったような皺が刻まれていた。彼は無理にリディアを責めるわけでもなく、「もういい、帰る」と言い放ち、その場を立ち去ってしまう。


中庭に取り残されたリディアは、沈んだ気持ちでフルートケースを抱きしめる。ノエルの痛みをわかってあげたい気持ちと、アリアの純粋な熱意を応援したい気持ち――相反する二つの思いに揺れる中、どうすればいいのかまだ答えが見つからない。


やがてあたりが暗くなり始め、街角にはランプが灯されはじめる。カンタビレの夜は音楽が絶えないことで知られている。バーやレストランではジャズやクラシックの生演奏が行われ、通りを歩けばどこからともなくメロディが流れくる。けれどノエルにとって、その華やぎは苛立ちの種でしかない。早足で安宿の一室へ戻り、重い扉を閉めると、部屋に備え付けられた小さなランプだけをつけて深いため息をつく。


「くだらない……」


そう呟きながら、部屋の隅に放置してある古いピアノを一瞥する。鍵盤には薄い埃が積もっており、ずっとまともに手入れされていないことがわかる。ノエルは顔をしかめ、背を向けた。眠ろうとベッドに腰を下ろすが、アリアやリディアの顔が脳裏をよぎり、そして「Song of Undred」の名が耳にこびりついているかのようだ。音楽を捨てたはずなのに、なぜか周囲はその世界へと引き戻そうとするかのように思えてならない。


翌朝、学院に向かう道すがら、ノエルはやたらと「Song of Undred」という文字列を意識してしまっている自分に気づく。あの曲を知る者が、この学院にどれくらいいるのだろう。ほとんどの人は名前を聞いたことすらないはずなのに、アリアはなぜそこまで執着しているのか。心の奥底で、小さな疑問と不安が渦巻く。


教室に着くと、クラスメイトたちが「あの留学生、アリアだっけ? すごい美人だし、なんかすごい声してるって噂だよ」と盛り上がっていた。普段ならまったく興味を示さないノエルだが、その名前に反応してしまう自分が鬱陶しい。クラスメイトの一人が気を利かせたのか、「ノエルは会ったことある?」などと尋ねてきたが、彼は曖昧に言葉を濁すだけだった。


昼休み、彼は人混みを避けるように学院の裏庭へ足を運ぶ。そこには小さな花壇とベンチがあり、滅多に学生が来ない隠れスポットだ。だが意外にも、先客がいた。それはアリアだった。彼女はベンチに腰掛け、薄い楽譜を眺めている。微風に髪が揺れ、陽光を受けたその姿はどこか幻想的だ。


「……また会ったね。」


アリアは顔を上げ、微笑んだ。ノエルはぎくしゃくとした動きで近づき、「ここ、よく来るのか?」と無意味な質問をする。アリアは首を横に振る。


「ううん、まだここの地理には慣れてないんだけど、落ち着けそうな場所を探してたら、なんとなくここに来ちゃった。ノエルこそ?」


ノエルは視線をそらしながら、「俺も、なんとなく……」とだけ答える。ふと、アリアが見ていた楽譜に目をやると、「Song of Undred」という文字が書かれているのが見えて、心臓がドキリとする。怒りと不快感が込み上げてきそうになるが、同時に好奇心も感じた。


「それ、まさかその曲の譜面か?」


アリアは神妙な面持ちで頷く。「そう。文献から写し取った断片で、完全なものじゃないの。でも私、どうしてもこれを完成させたいんだ。鎮魂歌だけど、本当はもっと違う意味を持ってるはずだから。」


ノエルは眉をひそめる。「違う意味なんてあるものか。あれは、ただの……」


そこまで言いかけたところで、アリアが譜面の一部を指し示す。「見て、ここの音階。普通に読んだら単なるレクイエムの進行なんだけど、もしこれを反転させたらどうなると思う?」


「反転……?」


一瞬、ノエルの頭の中で何かが引っかかる。彼もかつて音楽理論を学んでいた頃、逆行カノンや反行などの技法を知っていた。「Song of Undred」がそこまで高度な作りになっているとは考えにくいが、もし何か仕掛けがあるのなら……という思いが胸をざわつかせる。


アリアは続ける。「もちろん、まだ全部が繋がってるわけじゃないから、憶測の域を出ないけど……私、どうしても確認してみたいの。もし本当に反転で別の曲になるなら、レクイエムじゃない形があるかもしれないって。」


ノエルは顔を強張らせたまま、無理やり視線を引き離すように空を見上げる。言葉にこそしないが、内心は大きく揺れていた。昔の記憶を掘り起こせば、父や母も楽譜を逆さに読んで何かを試していたような気がしなくもない。子供の頃だったため詳しくはわからないが、もしそれが何らかの手掛かりだとすれば、ノエルの家族が残したものにヒントがあるのかもしれない。しかし、それに手を出すのは怖かった。再び悲劇に触れるのではないかという恐れと、音楽への激しい拒絶が、彼の心を縛り続ける。


アリアは意を決したように言う。「私ね、あなたが何を背負ってるのかは全部わからない。でも、あなたがほんの少しでいいから、この譜面を一緒に見てくれたらって思うの。どうしても、完成形を知りたいから。」


ノエルは反射的に首を横に振る。「悪いけど、無理だ。俺は……もう音楽とは関わりたくない。」


アリアは落胆したように目を伏せる。「そっか……ごめんね、無理なこと言って。でも、もし心が変わったら声をかけて。リディアも手伝ってくれるって言ってるし、私はあなたの力が必要だと思う。」


そう言い残して、アリアは譜面をまとめて立ち上がる。ベンチを後にするとき、一瞬振り返って微笑みを向けた。その笑顔には、何か儚さと強い意志が同居しているようにも見える。ノエルはその場に残され、胸の奥に重苦しい感情を抱えながら、何も言えずにいた。


やがて日が暮れて、ノエルは少し遅くまで図書室にこもっていた。いつもなら音楽関連の書物は避けるが、どうにも胸騒ぎが止まらない。仕方なく、かつて父と母がよく手にしていた楽譜関連の古書を探してみる。奥の棚を丹念に調べると、埃を被った一冊が目についた。表紙には古めかしい装飾と「Undred」という文字が薄く残っている。


ページをめくると、不気味な挿絵と共に「Song of Undred――レクイエムに隠された逆の調べ」などという記述がちらりと見つかった。だが文字がかすれて読めない部分が多く、必要な手掛かりがほとんど得られない。ノエルはもどかしい思いを抱えつつ、苦い表情を浮かべた。


(こんなもの、知りたくもないのに……)


苛立ちを覚えつつも、本を閉じることができない。嫌悪しているはずの「Song of Undred」から、なぜか目が離せない。胸の奥では、あの日の苦痛や後悔が再び疼き始める。家族を救えなかった自分の弱さ。あの曲の呪縛――どちらも未消化のまま、彼の中で澱のように溜まっていた。


図書室を出ると、廊下はもう人気がない。窓の外を見ると夜の闇が広がっているが、音楽棟からはまだ誰かが練習しているらしく、かすかな楽器の音が途切れ途切れに聞こえてくる。ノエルは眉をひそめ、急いで建物の外へと足を運んだ。


外へ出ると、薄暗い街路灯に照らされて影が伸びる。カンタビレの夜空には小さな星が瞬き、どこか幻想的な空気を漂わせている。ノエルは心を落ち着けようと深呼吸するが、頭の中ではアリアの笑顔と「Song of Undred」の忌まわしい記憶が混ざり合う。いつもなら沈んだ気持ちを抑え込んで終わりにできるのに、今日はそれがうまくいかない。


「……チッ。」


自分でも苛立ちの理由がわからないまま、ノエルは宿へ向かう道を早足で歩く。ガラス張りの店先から漏れるピアノの生演奏が耳に入り、反射的にイヤホンをぐっと押し込む。そうやって音から逃げるしかないのだ――彼はそう思い込んでいる。


部屋に戻っても眠れそうになかった。ノエルは机の上で手持ち無沙汰にしていたが、ふと引き出しから古い写真を取り出す。家族と一緒に写ったもの。幼い頃のノエルが母の膝に座り、父が笑顔でそれを見つめている。背景にはピアノがあった。まるで幸せの象徴のように、母は微笑みながらノエルの小さな手を鍵盤に乗せている。


どうして壊れてしまったのか。いや、あの曲がすべてを壊したんだ――ノエルは無理やりそう結論づけようとするが、心のどこかで別の声がささやく。もし「Song of Undred」が本来祝福の曲だったら? あのとき家族が試そうとしていたのは逆行の譜面、つまり救いの形だったんじゃないか? そういう仮説を思い浮かべてしまうたび、ノエルはかき消すように頭を振る。彼にとっては知りたくない真実の可能性がそこにあるから。


やがて長い夜が過ぎ、次の朝がやってくる。ノエルはいつも以上に目の下にクマを作りながら学院に行くと、すれ違う生徒たちから軽い挨拶を受ける程度で、やはり無言でかわしていく。しかし音楽科の校舎のほうを見ると、何やら多くの学生が集まって騒いでいるようだった。どうやら留学生の少女が模範歌唱を披露しているらしい、という話が耳に入る。言うまでもなく、それはアリアだ。


ノエルは素通りしようとするが、リディアに捕まる。「ちょうどよかった、あっち行ってみない? アリアが学院の先生方に声をかけられて、一曲披露することになったらしいの。」


「興味ない。俺は帰る。」


リディアは軽くため息をつく。「でも、彼女の歌声は本当に素晴らしいの。たぶん、ノエルにも何か響くものがあると思うよ……」


ノエルは言葉に詰まる。リディアはいつも自分の心情を慮ってくれるが、だからといって音楽に引き戻そうとするのはやめてほしいと思う。けれど無下に拒絶しきれないのは、リディアがずっと自分を気にかけてくれていた幼馴染だからだ。


しぶしぶリディアに連れられていくと、そこにはアリアを中心に人だかりができていた。見たところ教員らしき人物も数人いて、アリアが何かの曲を歌おうとしている。その場を見守る学生の中には、明らかに嫉妬めいた視線を向ける者もいるほど、彼女の存在は注目を浴びているようだ。


アリアは周囲の期待を一身に受けながらも、まったく物怖じしていない。深呼吸をしてから、すっと声を放った。透明感のある高音が空気を震わせ、まるで一筋の光のように学院の廊下を満たす。ノエルは思わず耳を塞ぎたくなる衝動に駆られるが、それどころかその声に心が惹きつけられるのを感じてしまう。


「……すごい……」


思わず誰かがつぶやく。アリアの歌には、単なるテクニックや美声というレベルを超えた何かが宿っている。深い感情と優しさ、そして力強い意志。それが旋律とともに周囲の心に染み渡り、聴く者を静かに包み込んでいく。


ノエルでさえ、その響きに惹かれかけた。だが同時に、自分が音楽に触れてはいけないという恐怖感が鋭く胸を刺す。心臓がドクンドクンと鳴り、汗が背中に滲む。アリアの声に浄化されるどころか、むしろ過去の傷をえぐられるような錯覚を覚え、いたたまれなくなって視線を落とす。


歌い終わると、廊下は静寂に包まれ、やがて大きな拍手が沸き起こった。先生たちも口々に感嘆の声を漏らしている。アリアは照れ笑いを浮かべ、頭を下げる。人だかりの中からは「やっぱりすごい」「これで新人演奏会が盛り上がるな」といった声が上がり、本人は苦笑しながら謙遜の言葉を返していた。


そのとき、アリアはちらりとノエルに目をやる。ノエルの姿を見つけたのか、少しだけ戸惑うように表情を動かしてから、控えめに手を振った。ノエルは返事をせず、人混みから離れるように踵を返してしまう。彼の後ろ姿を見たリディアは心配そうに声をかけようとするが、ノエルは振り向かない。


人気のない階段を下りながら、ノエルは胸の奥で複雑な感情をもてあましていた。あのまっすぐな歌声は、確かに多くの人を魅了する力を持っている。にもかかわらず、彼には触れられない領域のように感じるのだ。家族を失ったトラウマから逃れられない自分と、音楽を信じて疑わないアリアやリディア……この先、自分はどこへ向かうのだろう。彼は自問自答しながら、学院の外へ急ぎ足で消えていく。


やがて残されたアリアとリディアは、ひとまず模範歌唱を終えて一息つく。リディアがアリアに声をかける。「お疲れさま、すっごく素敵だったよ。先生方もあんなに感動してたし、これからが楽しみだね。」


アリアは笑顔を返しつつ、ノエルの姿が消えた方向を見やる。「ありがとう。でもノエル、私の歌を聴いてどう思ったかな……まだ嫌われてるのかな。」


「嫌ってるっていうか、音楽そのものを拒絶してる状態なの。彼なりの理由があるから、焦らずいこう。きっとあなたなら、ノエルの心を溶かせるって私は思うよ。」


リディアの言葉に、アリアははにかむように微笑んだ。そして手にした譜面をぎゅっと握りしめる。「私は絶対に『Song of Undred』を見つけて、完成させたい。そのためにはノエルの力が必要だって、なんとなくわかるの。まだうまく言えないけど、あの人となら何かが起こる気がする。」


廊下の先からはまた別の学生たちが演奏の準備をしているらしく、楽器の音が徐々に聞こえてくる。音楽が絶えない学院にあって、アリアの志はますます燃え上がっているようだった。リディアはそんなアリアの横顔を見ながら、ノエルとアリアの運命が交わり、あの鎮魂歌の真実が明かされるときを、静かに予感していた。


こうして、音楽を拒絶する少年と、それを取り戻してほしいと願う少女、そして「Song of Undred」が呼び起こす謎の歪み――幾重にも折り重なる運命が、今まさに動き出そうとしている。ノエルのトラウマは消えることなく、アリアの熱意は高まるばかり。リディアは二人を優しく見守りつつ、自身もフルートを通じて何かできないかと思いを巡らせる。果たしてこの先、彼らの物語はどんな旋律を奏でるのか。誰もまだ、その行く末を知らない。

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