『池』
どんな、文学かと心躍らせ、ページをめくれば中から現れたのは絵だった。
ページいっぱいに大きく書かれた丸い線の内側には水を現すような波打った奇怪な模様が描かれ、中央に小さな岩が描かれている。
その岩の上に人が座っていた。
正確に言えば人に見えるシルエットであり、誰かを明確に描いたわけではないのだろう。
私は布団から顔とこの本を出し、正午の日を浴びながら絵をよく観察してみた。
池の周りは何も描かれていない。おそらく地面ということだろう。
肝心の岩にいる人影はまるで人魚のように足を揃えて、上半身を捻って後ろを見ている。髪は長いが、女か男かは分からない。
これ以上の情報はないと次のページをめくった。
『夢追池』
明治以前、この池は実在したと言われている。現在でいうと香山の山頂付近にあったとされ、徳田、という家系が管理していたそうだ。
だが、明治の終わりに訪れた台風によって池は壊滅的な被害を受け、破損。
徳田家も山を下りたらしい。
管理者がいなくなったことで、今ではこの池を見ることは叶わないが、この池の伝承を聞きつけて、探す冒険者はまだいるらしい。
ここからはその伝承についてまとめていこう。
ページをめくる。
なるほど。これはどうやら郷土資料に近いようなものらしい。
それにしても…。
この香山。もしかして、家の裏にあるかおりやまのことだろうか。漢字の表記は知らないがこんな珍しい名前の山は他にないだろう。
加えて、この徳田という性。確か…美波も徳田ではなかっただろうか。
いや、お兄さんが徳田であって、美波は違ったのだったか。離婚したとか、言っていた気もするが、はて、思い出せない。
私は考えることを後にして、文字を読み進めることにした。
これは、恋人に裏切られた女の話だ。
女は親のおらぬ孤児であり、徳田という名家に拾われたものの、手先の凍る過酷な日々を送っていた。そんな女は、徳田によく通っていた福森という男に見初められ、恋人となり徳田の家を出て行ったそうだ。
女は福森に感謝し、生涯をかけて尽くし、愛すると誓い合った仲だったそうな。
初夜も終え、さていよいよ、これからは二人で幸せな日々を過ごすのだと女は台所で漬物を切っていたとき。
居間の方からから、こつん、こつん、と音が聞こえる。
それは、障子に何かがぶつかっている音だった。
女は鳥でも迷い込んだのかと、包丁片手に居間に向かう。
音は次第に強くなり、どすん、どすん、と鳥よりもっと大きい者がぶつかる音になっていった。
女は異様な恐怖に身を固めたが、覚悟を決めて包丁をしっかりと握り居間の襖に手をかける。
いざ、開かんと指に力を込めた時、掠れるような女の声が聞こえてきた。
上擦るように、何度も福森の名を読んで、甘ったるい声で鳴いている。
気づいた時には女の手は真っ赤に染まっていた。
床に横たえた福森、それに絡みつくように恐怖で目を見開いた女が血に濡れている。
女は泣き叫んだ。
福森を抱きしめ、夢だ、これは夢だ、と自分の行為を否定し続けた。
3日も立つと、福森は徐々に異臭を放ち始め、眉目整った好青年は全身が膨れ上がり見るも無残な姿に変貌した。女は、その日のうちに福森に買ってもらった嫁装束を着て家を出た。
女の目的地は、徳田の家が管理する池だった。
それは大層深く、底を覗けば二度と浮きあがてはこれぬ、地獄の井戸だと、福森から聞いていたのだ。
だが、女は死ななかった。
正確に言うと、池に飛び込んだ後、見知らぬ場所にいたのだ。
そこは、池だった。
確かに飛び込んだ池ではあるが、少し違う。女は池の真ん中にある岩の上に座っていた。服は家を出た時と同じ。少しも水に濡れていない。
女はあたりを見渡すが、池の向こう、畔の先には何もなかった。
白い壁とでもいうべきものが周りを囲っている。
『………』
遠くで女を呼ぶ声がする。
振り返ると、福森が立っていた。
こちらにおいでと手招きしている。
女は泣きながら福森へと駆け出した。池の上を軽い足取りで走る。
女は夢だ、と福森に抱き着いて泣き出した。
私はそこで、本を閉じた。
理由は単純だ。
伝記としては悪くないのだが、創作の匂いがきつすぎる。
片手いっぱいはある本の分量にたいして、このペースで物語が続くのは正直、きつい。
読み進めるのは後日にしよう。
私はなんだか眠くなり、そのまま目を閉じた。
目を開けると、私は岩の上に座っている。
足を揃えて、丁寧に手は膝の上。
白い着物が、足の先で風もないのに揺らいでいる。
周りに広がっていたのは静寂と、ガラスのような透き通る”池”だった。
「………は?」




