夢の中
私が夢を見始めた、一年前のこと。
人生というものに辟易し、自堕落になっていた私は、何とかして人間らしい生活を送ろうと思い立ち、始めたバイトは、一か月と持たず、ならばせめてと家事に手をつけたけれど、母親には
「出来損ないは顔を見せるな」
と怒られ、家の隅で毎日布団を被る生活を送っていた。
快晴を体現するほどの、眩しい青が空を覆いしている春の日。
その日は珍しく母親の機嫌がよく、私は古本屋に連れて行ってもらえた。
そこで一冊、私は新しい本を手に入れることになった。
タイトルは名付けて『池』。
古本屋でそれを見かけたとき、これが私の運命の本だとすぐに分かった。
タイトルが見えないほど丁重に包装され、おまけに小さな箱に入れられている。どれほど貴重なものなのだろうか。
だが、最初に手に取ったとき、私がこの本に抱いたのは嫌悪感だった。
”冷たかった”のだ。
本が持つ温度ではない。腹の底から冷えるほどの冷気があった。
こんなもの、誰が買うのだ、と怒りのままに棚に戻して、店内を一周してみる。
欲しい本はいくつかあったが、全て買ってもらうには高すぎる。
仕方なく、最初にあの冷めた本があった棚に戻ってきた。
何度手に取ってもそれは冷たい。
だが、読みたい。
どんな文学だろうか。私は冷たさを忘れ買ってみることにした。
レジに本を持っていくと店員が不思議そうな顔で本を見つめた。
「どうかしましたか?」
と私が聞けば、店員は
「この本…うちの物じゃないかもしれません」
と真剣な顔でいった。
店員曰く、別の店で買い取った品が混ざったのではないか、とのことだった。
30分ほど経った頃だろう。
私の元に店員がやってきた。例の本を手に持って。
「ここいらの店に電話をかけたんですがね。どこもこんな本は知らないって言うんです」
「知らない?それは、つまり…どこも買い取っていないということですか?」
「いや、それが少し違うんですよ。まぁ、とにかくこの本差し上げますから」
店員は半ば強引に私に例の本を押し付けてきた。
野菜を配りにきた近所の主婦に近いが、どこか嫌々回覧板を私に来たお隣さんに近い。
私は、ただで本が貰えた、と浮きだった足で母親のいるであろう八百屋へと向かった。
「お金は?」
母親に本を見せた時の第一声だった。
私は無料で貰ったことを伝えると、鬼が憑いたかのように母親の眉が釣りあがる。
「本当に、貰えたんだ。盗んでないよ」
慌てて弁明するも、母親は不機嫌になって、私を置いて一人で帰ってしまった。
母親と鉢合わせないよう、時間をおいて家の裏口から部屋に戻った。
飛び出そうな心臓を抑えて、手を洗いに行こうと洗面所に向かえば、道すがらにある玄関に目が留まる。母親の靴は無かった。だが、野菜の入った袋が玄関にある。
どうも、一度帰ってきて再び出掛けたようだ。
私は安心して手を洗い、茶を入れた。
母親が怒るので、冷蔵庫の奥に眠っているいつのかわからない古いものを使った。
部屋に戻って、扉を閉めると机に茶を置き、その横に買ってきた古本を置いた。
一口飲んでから、古本に手を伸ばす。
”騙された”
私はすぐに店員の顔を思い浮かべる。頭の中の店員が半笑いで、煙たがるように自分を見ている。
半ば強引に押し付けられた理由が分かった。
この本はタイトルがない。あらすじもない。作者名もない。
どこの誰のかわからない、詠み人知らずの作品。
店員は私に、盗品を押し付けたのだ。
どこの店もこの本を知らなかったのは、誰かの家で盗まれ、この本を古本屋の棚に紛れ込ましたからに違いない。
タイトルも、作者もあらすじもないのは、自己満足のために作られた手記、または日記、伝記に違いないからだ。
腹立たしい。
せっかく、母親と出かけられたというのに。
私は、怒りのままに古本屋へ戻ろうとしたが、ふいに玄関で立ち止まる。
このまま、本を返すには少し惜しいのではないか、と。
それに、よく考えれば私に非はない。
本を買おうと、レジに並ぶ。店員が持って帰ってくれといった。
私はそれに従ったまでだ。
つまり、盗品だと気付いて返しに行くには読んでからでも遅くはない。
茶を飲み切った後、机の上には傷をつけないようタオルを敷いて、その上に包装紙と箱を置いておく。 私は布団の中に潜り込み、本を開いた。




