這い出た女
森の奥から響いたそれは、人の声とも獣の咆哮ともつかない、耳の奥を掻きむしるような音だった。
颯はゆっくりと顔を上げる。
腕の中で動かない兄を抱きしめたまま、ただ右の森に目を向けた。
「水野」
遠くで黙って目元を覆っている水野に声をかける。
「水野、兄さんを頼む」
反応は無いが、水野ならきっと兄を車に運んでくれるだろう。
自分は上着を兄に着せると血で汚れた兄の顔を拭いた。
「ごめん」
小さく謝って、立ち上がる。
風が止んだ。
森が、不気味なほど静まり返る。
その静寂を破るように、再び声がなった。
「……ぁ……あ……」
湿った声。
喉が潰れた人間が、無理に言葉を出そうとしているような響きだった。
これが、地獄の死者の声なのか。
「…あ…あぁ……ああああぁぁああ!!!!」
大きく声が揺れた。
風も無いのに、木々が大きく撓る。
「颯様……!!」
背後から水野の切羽詰まった声がした。
振り返ると、水野のが今まさに運ばんとしていた、兄・秋葉の体に髪の長い女が巻き付いていた。
「離れろ!!」
大声で叫んで女に向かって石を投げる。
ガツン。
確かに手ごたえはあった。
だが、女はびくりともしない。
「水野!!こっちにこい!!」
あれの近くにいるのは危険だ。
水野にこっちにこい、とジェスチャーするが、腰が抜けてしまったのか彼はしりもちをついたまま動けない。
「は、颯様…!!秋葉様が…!!!」
「分かってる!!!」
女の長い髪が兄の体に纏わりつく。
泥で汚れた髪が血に濡れ、蠢き、兄の体を締め上げてゆく。
「くそっ…!!!」
何か出来ないか。
焦るばかりで、何もできない自分に心底苛立った。
思い切り太ももを殴りつける。
大きな音が響き渡った。
次の瞬間。
女が顔を上げた。
「っ…!!!」
喉の奥から悲鳴が込み上がる。
それは、人間ではなかった。
もちろん、分かり切っていたことだ。
でも、それは確かに人間ではなかった。
鼻はすっぱり切り落とされ、骨と爛れた筋肉がかろうじて鼻であることを知らしめている。
瞳のあった場所はぽっかりと黒い穴が開き、目玉も無いのにこちらをじっと見つめてくる。
骨と骨がぶつかるような鈍い音がして、それが無い歯の音だと気付いたのは、女が顎らしきものをパクパクさせ始めたからだった。
「……っ」
「颯様!!!!」
空気を切り裂くような水野の叫び。
女がこちらに突然、突進してきたのだ!
「っ…!!!」
思わず目を閉じる。
来るべき衝撃に備え、腕で顔を覆った。
ふいに、目を閉じていても眩しいほどの白い光があたりを包み込む。
「……??」
だが、いつまで待っても衝撃も痛みも来ない。
恐る恐る目を開けると、涙で顔をぐしゃぐしゃにした水野が目に入った。
女の姿は…無い。
急いで周囲を見渡したら、兄の遺体も無いことに気が付いた。
「水野!!何があったんだ!!!」
「そ、それが…!!!」
半ば過呼吸になりかけた水野が、恐る恐る口にしたのは、信じられない言葉だった。
「お、女が…!!!」
「あ、秋葉…さ、さまを…!!!その…!!!」
「た、食べて……」
「食べる…??」
水野は、思い出したのかその場にゲェゲェと戻し始めた。
自分はただ、水野の背中を撫でながら、頭を回るのに必死だった。
女が…兄を食べる??
地獄の死者は、兄に対して一体何をしたかったのだろう。
結局、水野が呼んだ医師と応援が到着するまで、自分たちは何もすることが出来なかった。
医師に水野を任せ、自分は応援で来た補助の記録者に、起こったこと全てを語って聞かせる。
最後に、兄の遺体がどこに行ったのか記録しようとしたときに、ふと池の底から耳を切り裂くような叫び声が聞こえてきた。
「……あ、あぁ……あああああああああああああぁぁぁあああ!!!!!!!!!」
颯は池を見る。
誰もが池を見ていた。
医師も、応援も、水野も。
誰もが気づいてしまったのだ。
その声が、秋葉のものであるということに。
「……兄さん……?」
すぐにわかった。
兄の言葉の意味が。
”最後に兄らしいことさせてくれ”
それはつまり。
あの女と共倒れするという意味だったのだ。
あの時、兄が最後に目を閉じたとき、兄はまだ死んでいなかったのだ。
だから、女は我々ではなく、兄を狙った。
弱り切って、抵抗もされない獲物を狙ったのだ。
だが、光の正体が分からない。
自分は兄が倒れていた場所へ向かう。
そこに、小さな石があった。
「これ、は…」
それは砕けた勾玉だった。
白い勾玉は徳田の特に、池を守る人間に送られるお守りだ。
だが、これを持つことを颯は禁止していた。
これには当主や本家筋以外は知らない使い方がある。
これは万が一、姫が見つからなかったとき。
その辺にいる女性を強引に姫にするために必要なものなのだ。
自分の命を引き換えに。
「だから…兄さんは…」
地獄から蘇ったのは、”女”だった。
だから兄は石を使ったのだ。
けれど、池は枯れている。
この穴に落ちてしまえば…地獄まで一直線だ。
「兄さん……」
地獄の底から続く悲鳴に、自分はただ、唇を噛み締めて涙を押し殺すことしかできなかった。




