『池と海』
古い漢字が並んでいる。
なんだか、気疲れしそうだ。
だが、まぁ、これしか読む本もない。
冒頭のことなど、すっかり忘れてしまっていたから、『池』という項目のページにさらっと目を通す。
そうだ。
亭主を殺した女が池に飛び込むと、そこは知らない場所だった。
うん。確かにそんな話だった。
確かに私も、このページを読んでからこの女と同じように夢を見始めた。
もし、この本の先が、私が見るべき夢の続きなのならば。
私は、軽く息を吐いてから続きを読むことにした。
福森に抱き着いて涙を流した女は、その両手をさらに強く自分へと引き寄せた。
どうして。どうして。なんでわたしを裏切ったのか。
殺してしまってごめんなさい。一人にしてしまってごめんなさい。
酷い人。私も酷い人。
女の心はぐちゃぐちゃになっていた。
でも、すぐに考える。
この夢のような池ならば、福森とずっと二人で生きていけるのではないか、と。
女は腕の中で何も言わない福森に一つ青い色を落とす。
そして、池の中に飛び込んだ。
池の水は温かかった。
風呂よりずっと温度は低いが、春の日差しのように心地よい。
透き通る水はどこまでも深く全身を包み込んでまるで、命の温かみを全て洗い流してくれる。
この池は、きっと福森との新たな旅路なのだ。
女は有無も言わない福森を強く強く抱きしめる。
幸せになりましょう。
私は、もう貴方を許しております。
何度も何度も福森に語り掛けているうちに、福森はようやく目を開いた。
そして、女のすぐ耳元で福森が囁く。
『ぼくも、愛してる』
こうして、女は池の中で未来永劫幸せに暮らしたとされている。
この伝承はのちに、池に身を投げると夢が叶うと噂され、数多くの女たちが身投げしたとされている。
徳田の家は何も言わないが、この池には今も数多くの人骨が眠っていることだろう。
伝承によれば、それはそれはとても美しい池だったとされることから、女たちはみな、死への恐怖というものが無かったらしい。どちらかといえば、美しい夢を見られるスクリーンに飛び込む、そんな感覚に近い。
私はそこで、ページを閉じた。
閉じたというよりも、手から本が離れたという表現に近かいだろう。
私は気づけば目を閉じて、ぼんやりと落ちゆく視界の中で、水に落ちる景色を見ていた。




