第一幕 警備員 井出アキラの証言
私が”ラジオ男”の噂を耳にしたのはついこの間の出来事だった。
私はとある警備会社に勤務するアルバイト職員で名前は井出アキラという。今の世の中では珍しくない五十代の独身男性だ。
家族は年老いた両親のみ。仲は上手くやっているというところだ。その私が勤務する会社が仕事を受注している中西ビルという建物には妙な事件が度々起こった。
念の為に言っておくがこの時点では大した事件ではない。
ビルに入っている在宅介護を支援する会社の職員が誰もいないはずの空き部屋から人の気配がする、とか誰かに見られているという程度の話だった。
情けない話だが私はこの手の話に滅法弱い。内心、君子危うきに近づかずと嘯いてはいつも通りに気にしないことにした。
私は酷く臆病な人間なのだ。
そういうわけで私はビルに潜む怪人とは無縁な生活を続ける。
やがて中西ビルに珍妙な若者の集団が現れるまで。
「どうも上岸と申します」
突然、私の前に現れた若者は自分の名刺を渡すと丁寧にお辞儀をする。
昔のキムタクのような真ん中分けをした三十歳くらいの細面の男だった。第一印象から言えば大きな瞳と太い眉毛がやたらと気になった。
「これはどうも。私は甲斐田ビル警備という会社の井出という者です」
私も彼の真似をしてお辞儀をする。折角若者の方が丁寧に接してくれているのに年上の私が棒のように突っ立ったままでは悪いような気がしたからである。
くだらない五十男のプライドと笑って欲しい。
「ご丁寧にどうもありがとうごいます、井出さん。出会って間も無く不躾なお話とは思いますが」
上岸は大きな目玉をギョロギョロと動かしながら話を切り出す。
「はあ。何でしょうか?」
「このビルで最近何か変わった事が起こってはいないでしょうか?例えば人が突然消えた、とか」
私は顎に手を当て、記憶の引き出しを探る。残念ながらビルを出入りする人間の中に行方不明者の話は無かった。
「すいません。そういう話はちょっと聞いた事がありませんね」
上岸はギョロ目で私をじっと見つめる。私はこの若者の不興を買ってしまったのではないかと一瞬、委縮してしまった。この上岸という人物には言葉には出来ない迫力があったのだ。
「上司の方から口止めをされているとか、そういうお話ではなく?」
「え、ええ。私も中西ビルに配属されてからそう長いわけではないので…」
実際最後の勤務期間については嘘だった。私が食肉加工会社をリストラされて甲斐田ビル警備に来てから四年、出向先はこの中西ビルである。社内では古参の生社員よりもビルの内情には詳しいつもりだ。
「そうですか、それは残念。実は私共は中西ビルのオーナーからは調査の許可を取ってあるのですがやはりご存知ないのですか?」
私の返事を聞くと上岸は頭を下げて落胆した様子を見せた。だが挙動が些か芝居じみていて彼の真意ではないのは明らかである。私は自然と上岸に対する警戒心を抱いた。
「これは噂程度の話になりますが、深夜にビル内を徘徊する不審者がいるとは聞いています。ビルの風評に関わる御話なのでどうか他言はご容赦ください」
私は努めて真摯に対応する。
「その点はご安心ください。我々もプロのつもりですから」
上岸には目を細めて破顔した。
その後、私は上岸と二、三世間話をしてから別れた。上岸とはそれきり顔を合わせる事は無かったのだがその日を境に次々とビルの中で妙な出来事が頻繁に起こるようになった。
私物の盗難、備品の破損、誰かの悲鳴。私の同僚たちも気味悪がって本社に配置換えを望むようになった。
それからさらに時間が経過してビルのオーナーである中西イチロウから私は呼び出される事になる。この時オーナーは、甲斐田ビル管理には呼び出しがあった事を伝えないようにと念を押してきた。
このオーナーと私は同世代で、たまに両親の介護などについて世間話をするような打ち解けた関係だったので約束を守る事にした。腹の出たハゲ頭の脂ぎった中年男はため息をしながら私を社長室に迎え入れた。彼はビルのオーナーであると同時に中西興産という会社の社長でもあった。
「いやいや困った話だよ、井出君…」
中西社長は身体からラーメンのスープとニンニクの臭いを発しながら私に告げた。昨今の社会人としてはかなりアウトな姿だが、同世代の人間としては問題はない。私は彼の愚痴を聞く覚悟で相槌を打つ。
「ウチもバイトが辞退したいとか言ってるよ、社長。私はこういう変な話はアタマから信じない性格だから気にしないけど実際はどうなんだろうね?」
私はポケットに入ったタバコを取り出して火をつける。部屋の入り口には禁煙の張り紙がるのにも関わらすだ。中西社長は人差し指を立て、ニンマリと笑った。私は残りの一本を彼に渡した。
「しかししょっぱい世の中になったねえ。今やこのタバコを吸っているのをみられただけで準犯罪者あつかいだよ。気楽に吸えた昔が懐かしい」
十年も前であれば誰も気にすることは無かったが今はその十年後である。
「それで何か問題があったのかい、社長?」
私はやや性急に話を切り出す。今日は家で両親と一緒に夕飯を食べる約束をしていた為だった。
「実はホラ、例のお化けの話なんだけど現物を見たって人が会社を辞めたいって言ってねえ…」
私は窓の外を何となく眺めた。かつて賑わっていた繁華街も今は廃ビルが増えてどこか霞んで見える。
「このご時世にお化けの噂で辞めたいとはねえ。いやむしろ妥当というもんか」
私自身よく知っているわけではないが妙な出来事はネットで検索すれば事実が浮き彫りになるのが現状というものだ。無論ガセネタや法螺話が引っかかる事もあろうが以前のように政府の流した悪質な情報操作に翻弄される事は無くなった。
「小耳に挟んだ話では早くもネットで話題になっているらしいよ。中西ビルの幽霊ってさ。ははは…、そんなアコギな商売はしてねえってのに」
中西社長は携帯電話を片手に苦笑いをしている。数年前に雇った秘書から最新式のスマートフォンを勧められてからご執心の様子だ。そんなに嫌ならネットの掲示板なんざ覗かなければいいのに。
そこで私は上岸という若者の事をふと思い出す。あのギョロ目の若者は社長に話を通しているような事を言っていたような気がする。私は疑念を払しょくする為に中西社長に上岸の事を聞く事にした。
「社長、そう言えば先週に上岸さんっていう人に色々と聞かれたんだけどよ。あの人、ユーチューバーってヤツじゃないのか?」
「上岸って上岸ダイゴ君のかい?違うよ。あの子は去年までウチの会社で働いていたケイジ君のお兄さんでね」
上岸ケイジ、私の記憶の中にも存在する人物である。確か職安から紹介されて中西興産で働いていた若者だった。兄貴とは真逆の印象を受ける今風の若者だったような気がする。よく考えると彼の姿を見なくなっていたが何かあったのだろうか…。
「社長。上岸君、ケイジ君の方だけどさ。最近彼全然見かけないけど、どうしたの?」
私が上岸ケイジの話をすると中西社長はさらに落ち込んでしまった。これは…何か地雷のようなものを踏んでしまったのか。
「ケイジ君、突然うちの会社を辞めてしまったんだ。それが妙な話でさ、ケイジ君の彼女っていう女の子から会社を辞めるってそれきりさ」
私が知る限りでは上岸ケイジは今風に言うと少しだけ軽い調子の陽キャという若者だったが、仕事に対しては真剣に取り組む好青年だったはずだ。
間違っても会社を辞める時に他人の手を煩わせるような種類の人間ではない。
「あの上岸君がねえ…。それで前に来た上岸君のお兄さんは何て言ってたのさ」
「ああ、ダイゴ君は行方知らずになったケイジ君を探していたみたいなんだ…」
そうか。あの鬼気迫る迫力は必死に肉親を捜していたのが原因だったのか。私は半分残ったタバコを灰皿に押し当てる。
「それは上岸さんに悪い事をしたな。お互い自己紹介もロクにしなかったから包み隠すような物言いをしてしまったんだよ。はあ…」
下手に年齢を重ねると疑い深くなって相手に五回を与える機会が増えるものだ。私は中年男の悪癖に我ながら嫌気がさす。
「でも上岸君のお兄さんが噂を広めた張本人じゃないなら一体誰が不吉な話を広めたんだろうな…」
私は社長室に置いてある冷蔵庫から缶のアイスコーヒーを取り出す。
中西社長の机の上にある貯金箱に百円玉を入れた。
「あらら。別に代金はいいのに…」
「ははは。こうでもしないと無駄遣いが癖になりそうだからね。そうだ、私で良ければ今度怪しい場所を見回っておこうか?」
私は低糖のアイスコーヒーで喉を潤しながら提案をする。上岸君と彼の兄に対して杜撰な対応をしてしまった事に罪悪感を覚えていた。中西社長も私に頼もうと思っていたらしく、話を聞いた途端に明るい表情となる。
「こういう事を恃めるのは井出君ぐらいだからな。よろしく頼むよ」
中西社長は貯金箱をひっくり返して蓋を外し、百円玉を私に返してくれる。そういうつもりで言ったわけではないのだが…。そういうわけで私は中西ビルの探索を任せるのであった。次の日の夕方、私は中西興産の秘書田中ミノリさんからマスターキーを受け取った。
中西ビルでの、私の仕事はほとんど秘書の田中さんか中西社長がビルに残っている間に見回りをしている。よく考えてみると二人がいない時に警備の仕事をするのは初めて出来事だった。
「それでは井出さん、鍵の方は明日社長に直接返却してください。くれぐれも紛失しないようにお願いします」
田中さんは眼鏡の縁を吊り上げながら私に言った。私は相槌を打つと逃げるように社長室から出て行った。田中さんは謹厳実直に仕事をこなす優秀な人間だが、他者の意見を一切聞かない迫力を持った女性で個人的に苦手な人種でもあった。
中西社長曰く「生真面目で自他ともに厳しい性格なので、異性から敬遠されている」との事らしい。鋭利な刃物をイメージさせる美しい容姿だというのにもったいない事だ。私は田中さんがどこかで監視しているのではないかと思い、小走りで警備室に戻った。
その日の夜。私は警備室で中西興産の社員と田中さんを見送る。
私は「みなさん、お気をつけてお帰り下さい」とおざなりの挨拶をしてから早々と巡廻の仕事に入る。 実は今日は城田という若者と一緒に仕事をする予定だったのだが、城田君は実家の両親の調子が良くないという理由で来られなくなってしまったのである。
(まあこれも時代だよな…)
私は両親と仲睦まじく過ごしている自身の境遇を十歳ほど若い城田君に重ねながらしみじみとした気分になった。昨今、囁かれる高齢化社会のあるべき姿とは親の介護を見の上の不遇と受け取るのではなく、互いに理解して苦労を共感する物なのだろう。私と違って城田君には奥さんと子供がいるのだが、独身の私とは違った苦労があるはずだ。等と独り言ちつつ、私は各階を消灯しながら最上階の五階から順にビルの内部を移動した。
そして例の階、二階の左側に通じる扉の前に立つ。ここまでは順調だった。特に変わった様子はない。気を利かせて中西興産の目にまとめてあった可燃ゴミをダストシュートに入れておいたくらいだ。
「ふう…」
私は額に浮いた汗をハンカチで拭う。この汗の原因は残暑のせいだけではない。
今私の脳内では例の怪談の内容が反芻されていたのだ。たしかこういう話だったと思う。夜、ビルの中を歩いているとどこかの部屋から突然話し声が聞こえるらしい。音声が飛んでいるというか、音が割れているというかそんな感じで内容までは聞き取れない。
”ザザザザ…。”
その時私の耳に例の雑音が聞こえてくる。
「ははは…まさかね。そんな都合よく遭遇するわけがない」
私はドアノブを苦笑いをしながら握った。頭ではこの先に立ち入る事は危険だと承知しながら、この先にある本当に怖い物をみたくてしょうがない。
「こんばんわ~」
私は間の抜けた声で部屋の中に入る。私に非は無い。私はビルの持ち主と雇用主の依頼を受けて見回りをしているのだ。最早誰に言いわけしているのかさえわからないが私は私の蛮勇が決して間違ってはいないと自己弁護しながら部屋の中を見渡す。
この部屋は以前会議室として使われていた場所であり、数十人分の机と椅子が学校の教室のように並べてあった。私は部屋の内部に変化が無い事に安堵した。かなり前の話になるが、運送業者と一緒に部屋の中に机と椅子を運び込んだのは私と中西社長だ。
私は部屋の入り口についている照明器具のスイッチを全部押してLED光によって照らし出された少々眩しいくらいの会議室に足を踏み入れた。部屋の中にラジオは…無かった。私はほっとして胸を撫で下ろす心地となる。
真実から遠ざかってしまったが凡人の私にはこれくらいが丁度いいというものだ。これ以上何かあれば私の蚤の心臓などはすぐにでも破裂してしまうだろう。
”ぬちゃ…っ”
私は足元に違和感を覚える。散歩をしていた時に犬のアレを踏んでしまった時の感触だ。私はすぐに足元を見た。いつの間にか私の足元に血だまりが出来上がっていた。断言しよう。さっきまで地面は四角に区切られた白い床だった。
「う…。あ、ああ…誰か。誰か救急車を…」
誰かの、男性の、いやいやいやッ‼‼よく知った男の声が聞こえてきた。その男は腹部から大量出血しながら這って移動していたのだ。机の脚を掴んで立ち上がろうとするが、既に体力を使い果たしてしまったのかその場から動けなくなっている。
「城田君⁉しっかりするんだ、城田君ッ‼」
私はこの場に来れなくなったはずの同僚の名を叫びながらうつ伏せになっている男のところまで走って行った。
「城田君ッ‼」
私はうつ伏せになっている中肉中背の男の名前を呼ぶ。肝心の城田は、あまり考えたくない話だが事切れたかのように動かなくなっていた。
(どうする?このまま城田君を放っておくのか⁉いや警察に疑われるのは嫌だし…)
いくつかの逡巡の後、私は城田君の様子を見ることにした。彼は私と違って妻子のある身の上だ。ここで見捨てようものならば私は残りの一生を後悔して過ごすことになるだろう。
「どれどれ。脈拍は…」
私は彼の手を取って血液の流れを調べようとするが、やはり予想通りというか温もりは残っていたが反応は無し。
城田君は死んでいた。
「はあ…。これからどうすればいいんだ。やっぱり帰るべきだったかも…」
この時、私は携帯電話で外部と連絡を取る事よりも別の事について考えていた。そう、あのラジオのノイズだ。
ノイズの発生源となっていたであろうラジオはどこにあるのか。私は城田君に心の中で謝りながら彼の周囲にそれらしき物がないかと探して回る。机の上は当然として(私が立っていたので)、床の上にもラジオは見当たらなかった。そこで私はある考えに辿り着き、うつ伏せになった城田君の遺体を観察する。
「まさか…。そういう事なのか?」
私は城田君の肩を掴み、体を少しだけ起こして下敷きになっていた物を確認する。
ラジオだ。
昔どこにでもあったカセットレコーダー付きのラジオだ。一部、血で汚れていたが先ほどの謎の雑音の発生源はこれに違いない。
私はラジオだけを取り出して城田君の体を丁重に横たえる。後で知った話だがこういう事は素人がやってはいけない行為らしい。無知と刃恐るべきものだ。私はティッシュペーパーでラジオについた血痕を拭き取る。
「あれ?このラジオどこかで見たな…」
私はこのラジオをいつどこで見たかを思い出そうとするが中々、出て来ない。
(どこだったか。…不動産会社。そうだ、確かこのビルに入っていた大沢…)
私は在りし日の大沢社長の姿を思い出していた。大沢ツグオは以前、この中西ビルの三階で不動産会社を経営していた男である。傲岸不遜という言葉がよく似あう正直関わりたくないアクの強い性格の男だった。
このラジオは大沢社長の遺産とも言うべき代物で彼が最後まで肌身離さず持っていた物でもある…。
「ああっ‼そうだ、このラジオは…‼」
ゴッ‼突然、私の視界が歪む。痛い。痛いどころではない。意識を失ってしまえばそのままオダブツになってしまいそうな一撃だった。私は何とか意識を失うまいと近くの机を支えに立ち上がろうとする。襲撃者はトンカチのような鈍器を振り上げてさらに私を殴った。
「ぎゃっ‼…やめてくださいよ」
私は後頭部を手で覆い隠しながら逃げようとする。
ガラガラガラ…ダダンッ‼
何という不運のもとに生まれてしまったのか。私は別の机と椅子に引っかかって転んでしまった。必死だった。その気になれば殺人者の顔を見る事が出来たのかもしれないが、選択肢を一つ間違えれば私は確実に殺される。そういった強迫観念が私の体を衝き動かし、四つん這いになってついには入り口まで到達する。
「…ッ‼」
この時、殺人者が何事かを叫んだかは正直覚えていない。廊下に出た私は口を抑えながら非常口まで逃げて、外側から施錠すると転がるようにして中西ビルを脱出した。
後の事はよく覚えていない。私は意識を絶やさぬように帰宅してそのまま自室のベッドに身を投げ出したらしい。
結局私が目を覚ましたのはその日の正午だった。