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9. 天国と地獄

 アンナはどうしているだろう。

 うまくできているだろうか。いいや、万が一作戦がうまくいかなくてもいい。あの子が無事なら……。

 無事なら……? 私はどうしてそんなことを考えているんだろう。別に危ないことをさせているわけでもないのに。

 なんだろう。妙に胸騒ぎがする。

 何か嫌なことが起きてしまっているような――。


 私の心はもやもやしていた。

 何をするわけでもなく机に向かい、ただ項垂れて時間の経過を待つ。他にすることもなかったし、何をしたとしても集中できなかったのだ。


 そんな状態で1時間が経った。

 すると、遠くから鳴る足音が耳に入った。急ぎ足で、なんだか私に向かってきている気がした。

 とっさに部屋の扉を見る。その間にも足音は近づいてきて――ついに私が目に入れていた扉が開いた。


「ガートルード様、やりました!」


 それは、つい最近ずっと忘れていた感情だった。

 安堵。心の奥底から重りが取れて、今にも飛び出しそうな――。


「アンナ!」


 いいや、もう飛び出していた。

 私は反射的にアンナへ飛びついて、ただ感情の赴くままに抱きしめ続けていた。

 思わず涙まで溢れて、嬉しいはずなのに顔も頭もぐちゃぐちゃだ。


「本当によかった……! 成果も、あなたの無事も……!」

「お気遣い痛み入ります。でもご覧の通り、わたくしは元気ですので。それどころか、ターシャ様に本気で引かれてしまって役得でした。えへへ――」

「それだから心配だったのよ! あなたのM気質とあの女が噛み合って知らないうちにボコボコにされてたらどうしようって思っちゃって……」

「わたくしはガートルード様のお側にいるのが仕事ですから。大丈夫です、どこにも行ったりしません」


 よかった。

 本当によかった。

 アンナの無事も、作戦の成功も。

 全部がうまくいってくれた。


「もう私、ここ出ていい……?」

「それはもう少々お待ちを。イヴェット様が今回のことを報告し、学校が正式にターシャ様の悪事を確認してからですから」

「じゃあもう少しなのね。これで邪魔もいなくなる。私の噂も……きっと徐々に消えていくでしょう」


 この後のことはどうでもいい。

 とにかく今は嬉しさに浸りたい気分だった。

 ずっとずっと、アンナのことを抱きしめたまま――。






「ごきげんよう、ガートルード」


 にっこり笑うターシャがいた。


 ……って、え?

 なんでコイツがまだいるの。

 しかも殴りたくなるような笑顔付きで。


 それはつい一昨日のこと、私の考えた作戦を忠実に完遂したアンナをずっと抱きしめていた日。あの時、私はてっきりコイツの悪事が暴かれ、ここからいなくなるのだとばかり思っていた。

 だって、今日から私は自分の部屋から出て、また指導を受けるのを許されて……。だから晴れやかな気持ちで久しぶりの校内を歩いていたのに、それでまたコイツと会うって……。


「わ、わたくしは確かにこの目で……」


 アンナも想定外みたいだ。

 私だってアンナの優秀さを疑うつもりはない。でもそしたら、一体コイツはどうしてここに――。


「やっぱりバカな女っていつまでもバカね。何ひとつ学びやしないんだから」

「何……? 一体どういうこと!」

「だからお金よ、お金。あのイヴェットとかいうおばさんは頭がカチカチだったから、もっと上の人に渡しておいたわ。あんたのせいでお小遣いのほとんどを使うはめになったんだから」


 コイツ……!

 何が学びやしない、よ。あんたの方こそ、また懲りずに自分の身分を悪用して……!

 私はもう我慢の限界だった。コイツを一発殴らないと気が済まない。

 ここで問題を起こすわけにはいかない。それはわかってる。でも、私の拳がなんでもいいから殴らせろと震えていた。


「あらぁ? どうしたの、顔が真っ赤よ。ふっ、タコみたい。それにしても滑稽ね。一泡吹かせたみたいな気になってんじゃないわよ、まったく」

「さっさと失せて……。私はもうあんたと関わりたくない。私がここを出れるってことは、そっちが言った嘘は撤回したんでしょ」

「さあ、執行猶予ってところじゃないかしら? でも別に、そのぷるぷるしてる手で罪を重ねるも重ねないもバカなあなたの自由だから」


 明らかにスタンバイしていたのだろう。いつもと変わらぬターシャの取り巻きメンバーが集まってきた。

 なるほど、ターシャは最初から私を挑発するために現れたのか。怒った私がターシャに手を出した瞬間、私は本当に人を殴る危険人物としてここから追放される。私たちがイヴェットさんの前でターシャに嘘をつかせたのと同じように、誰かの前で私に人を殴らせようってことね。


「あんたの考えてることなんてお見通し。私は絶対に手を出したりしないんだから――」

「これを見てもそう言えるかしら?」


 ターシャが長方形に折られた紙を取り出した。私も最近どこかで見たような紙の形……。


「それは手紙……? それがなんだっていうの」

「あなたが引きこもってる間にね、なんとアトラス様から手紙を貰ったのよ。それでそこにね、書いてあったの。『ガートルードなんかといたら家の気品を損なう』ってね」


 ターシャが手紙を落とした。それは私に読んでみろと促しているのだろう。私は是非もなく、ただ受け止めきれないターシャの発言に、頭を真っ白にしながら手紙を拾った。

 そこに書かれてあったのはあの綺麗な字――アトラス様のもので間違いなかった。だけど、ここでも私はその字に見惚れることができなかった。今回はその手紙の内容があまりにも酷かったからだ。


 最近ガートルードの嫌な噂ばかり聞くんだ。だから僕はガートルードのことを捨てて、君と一緒に生きることを選ぶよ。でもまずは、ガートルードをどうにかして追い出してほしい。学校から追い出したりできないかな――と。


「これを受け取った時は踊っちゃったわ。すぐに手紙の返事も出したし、この一件が終わったら結婚しましょうなんて言っちゃったり」

「返事を出して、その後は……?」

「返事の返事はまだだけど――でもどうせあなたには関係ないでしょ、哀れな負け犬」

「そんな、私、アトラス様のために……」


 私はその場に膝を突いた。がっくりとうなだれて、小さく肩を震わせる。


「あはははは、怒らせるはずだったのに泣かせちゃったわ! ごめんなさいねえ、でもこれが現実なの。アトラス様に気に入られてるのは私、勝ったのは私。結婚するのは私なんだから!」


 ターシャの高笑いは止まらなかった。


「だいたいね、あんたみたいなチヤホヤされるのに慣れた箱入り娘を見ると虫酸が走るのよ。しかも善人ぶって、しゃくに障るわ。お金も権力も使うためにあるんだから。ま、その結果がこれなんだから、ざまあないわ」

「どの結果がよ――」


 私の中にあるのは怒りじゃなかった。ましてや、泣いているわけでもない。

 私の肩が震えていたのは、笑いを堪えるためだ。


「残念だけどあなたの負けよ、ターシャ。この手紙はね、私がアトラス様に書くようお願いしたものなの」


 それは私が停学中のこと。アトラス様から手紙を受け取り、返事を出すことになった時――。

 私は返事と同時にターシャが調子に乗るような手紙を書くようお願いしたのだった。もしもイヴェットさんの前で嘘をつかせるという第一の作戦が失敗したら、あとは自爆を祈るしかない。だから私は、ターシャが私に対してさらに好戦的になるようにアトラス様の後押しが欲しかったのだ。

 舞い上がって、調子に乗って、好戦的になって、それでボロを出してもらうために。

 つまりこれは第二の作戦のために書いてもらったフェイク。彼の本心なんかではない。


「彼に認められているのは私の方だったみたいね」

「くっ……!」


 ターシャはきつく私を睨んだ。また一泡吹かせることに成功できていい気分だ。

 しかし、アトラス様に認められているから私の勝ち――とはいかない。

 ターシャがお金で自分の無実を買ったのもまた事実だ。ここからいなくならない限り、コイツは私の邪魔を続けるだろう。

 第二の作戦以降のものは考えていない。どうする……?


「あ、そうだわ! あんたの侍女、そいつ超気持ち悪かったんだから! 踏んでくれみたいなこと言ってきて、私の脚を掴んで……。悪霊にでも取り憑かれてるのよ! さっさと成仏してほし――」

「うちの侍女を悪く言ってんじゃねェよ――!」

「あがッ――!」


 ターシャがばたんと倒れた。

 私はそれを見た3秒後にようやく自分の息の荒さに気づく。おまけに右の拳がひりひりする。

 自分が何をしたのか、ようやく気がつく。


 あっ……。

 これはやっちゃったな。ついに殴ってしまった。ターシャの顔面を思いっきりぶん殴っちゃった、うん。

 アンナとの戯れでは絶対に出さないほどの威力――というか、全部感情に任せてやっちゃったから手加減なんて一切なしだ。幸いなことにターシャは重傷ではなさそうだった。痛そうにしているけど、気絶もしていないし脳にダメージもいっていないはず。私に武術の心得がなくてよかった。

 いや、でも問題はそこじゃなくて……。


「いったーい! み、みんな見た!? この女、本当に殴ってきたわ! みんな、拡散して! 今見た事実を誰かに伝えて! ボサッとしてないで、早く!」


 これだ――。

 どうしよう。イヴェットさんはまだこの学校にいるのだろうか。それともお金の力でその職ごと刈り取られたのだろうか。どうあれ、もう学校は私とターシャのいざこざを公平に裁いてはくれない。

 と、すればやることはひとつ。


「逃げるよ、アンナ!」

「は、はいぃ!?」


 証拠隠滅! 現行犯逮捕なんてされるもんですか!

 正直、証拠だのなんだのがなかったってお金パワーで私はここから消される気もする。アンナが腕を引っ張った私に驚いたのはきっとそのせいだ。

 逃げても意味はない。逃げるよりもすることがあるんじゃないか。そう言いたげだ。

 でも私は、アンナを引っ張りながら笑ってみせた。


「一発ぶん殴ったらすっごいすっきりしたわ! えへへっ」

「ガートルード様……。でもこれでは――」

「そうよね、どうしようか……」


 どうせターシャからお金を受け取った偉い人はターシャではなくお金のことしか考えていない。こっちもお金をちらつかせて、この話を平行線にしてしまおうか。そしてそのまま卒業してしまえばこっちの勝ち。

 でも誰に渡せばいいんだろう。ああもう、走ってたらどうでもよくなってきた。

 部屋の外が久しぶりなせいか、嫌いなやつを殴ったせいか、緊急事態のせいか、私はとても気持ちが高ぶっていた。

 とにかくそんな感情のおかげで、私は考えなしに庭へ出てしまった。

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