8. わたくしを奴隷にしてください!
ターシャとアンナが対面したのはしんと静まりかえった広場だった。ここはターシャがアンナを告発した場所でもあるから、二人にとってはある意味因縁深い場所だ。
実質停学処分にされているガートルードだが、部屋の外に出ることを厳密に禁じられているわけではない。しかし、もちろん胸を張って外を歩こうものなら恥知らずとして心証が悪くなる。すると、その侍女であるアンナも外に出ることはなくなる。隣に控えておくべき侍女が主人を部屋に残して外を出歩くなんて、これまた怪しい動きだと思われるだろう。
そんなわけで二人の対面は秘密裏に行われた。互いに口外なし、付き添う人物もなし。
正真正銘1対1での対面だった。
「急に手紙を寄越してきたと思ったら、あのバカ女じゃなくて驚いたわ。主人と違って、あなたは賢明みたいね」
「いざとなればこれしかないとは思っていました……。でもガートルード様には反対されて――」
「それで二人っきりの交渉になったわけね。まったく、あんなバカ女のもとで働くなんて、あなたもかわいそうな人だこと」
ターシャが一枚の紙切れをアンナにちらつかせる。それはアンナがターシャに向けて出していた手紙だった。
その内容は、今回の件を自分一人の犠牲だけでどうにか丸く収めてほしいというもの。
アンナは優秀で、ガートルードにも気に入られていたため、富裕層からすれば少ないものの財産を持っていた。まずはそれら全てをターシャに譲る。加えて、自身の命も無償でターシャに提供すると提案した。
つまり、ターシャはアンナの財産に加え、彼女にあらゆる労働、義務、権利の剥奪をしてもいいということだ。
「手紙が本当なら、あなたにどんな過酷な仕事を押し付けてもいいみたいだけど。それで後悔はないかしら?」
「もちろん、覚悟しています……」
奴隷の所有は一般的ではないものの認められていた。その実態は奴隷にタダ働きをさせるわけではなく、低所得で労働をさせるものだったが、それでもグレーゾーンな制度だった。だからどの家にしても表向きは奴隷反対を掲げている。もちろん、良心や単純に嘘を貫き通すにはお金がかかるという理由で潔白な貴族も多くいる。
その中でも今回の交渉は特殊だった。奴隷同然の扱いを受けるアンナだが、表向きはアンナとターシャの双方が合意したことによる侍女の移籍。つまり、ガートルードに仕えた時よりもさらに優遇するからうちで仕事をしないかというスカウトである。
当然、ガートルードがそのことを知れば反対するだろうが、アンナの意思によるものという建前によってそれは却下されるだろう。
「アンナ、だったかしら。もし私があなたを奴隷としてもらった後もあのバカ女について話していたら、あなたはどうするつもりだったの? あなたが奴隷になっても、結局私が噂を広めるのをやめなかったら?」
「その時はいくらでも懇願します……。あなた様の気が済むまで、わたくしが謝罪し、尽くし、どうにか納得していただけるまで……」
「へえ……」
二人の話は口約束にすぎなかった。だからアンナが奴隷になった後でターシャが約束を破るかもしれない。
それでもアンナは奴隷になると言うらしい。
「じゃあ今ここでやってみせなさいな。無様に謝って、私を満足させてみなさい。そしたら考えてあげる」
ターシャはニヤリと笑った。
ターシャの当初の目的はガートルードの結婚を妨害することだった。それが今や目の前のシャーデンフロイデに魅入られている。そのせいか、もう相手がアンナであろうとどうでもよくなった。ただ自分が優位であるという状況のみがターシャの全身を震わせ、心の底までもを躍らせた。
「ほら、どうしたの? 体が震えてるわよ?」
室内はとても静かだった。規則として私語厳禁と言われているわけでもなかったが、何せ気品を保たねばならない。この学校の中にうるさく騒ぐ人間などいないのである。それゆえ、アンナとターシャの耳には自分らの声しか入らなかった。そのうえ、ここは人の気配が特に感じられない場所だ。誰かがやって来ようものなら、その声や足音、それどころか、呼吸の音さえ聞こえるかもしれない。
同時にそれは、この場所から音がすれば目立つことも示していた。無論、普通の話し声なんかでは聞き耳を立てられない限りは気づかれないだろう。ただし、それが絶叫ともなればそうはいかない。
「それではターシャ様、不肖わたくしが誠心誠意懇願させていただきます――」
アンナは膝をつき、丁寧に頭を垂れた。彼女の額が静かに床へつく。
そしてアンナは。
すう、と呼吸をしてから自分の額を何度も床で殴打し始めた。
「ぬあぁぁぁぁ!」
全力で床に頭突きをかましながらの絶叫。
さすがのターシャも呆然とする。
「ターシャ様、この度はお足元の悪い中ご足労いただき誠にありがとうございます。え、晴れてるし室内だから関係ないですって――あぁぁぁぁあ! わたくしってばホントゴミ!」
「いや、ちょっと……。あ、あなた、気でも違ったの……?」
「いいえ、これがわたくしです! ところがどっこいわたくしなのです! 失望いたしましたでしょうか、それとも侮蔑なさりましたか!? あぁ、その目――そう、わたくしが本当に求めていたものですッ! 哀れみ、嫌悪、恐怖……それらが混ざった至高のお顔! わたくしの上質な養分ンンンン!」
「な、何言ってんの……。ちょっと、やめて、止まりなさいよ」
思わず後ずさりするターシャ。しかし、その脚をすかさずアンナが掴む。
「もっと、もっとわたくしに試練をお与えください! もっとわたくしをいたぶって! あ、そういえばターシャ様、ヒールでわたくしのこと踏みましたよねぇえ!」
「だ、だったらなんなの! 来ないで、触らないで!」
「まだまだまだまだまだまだまだまだ、足りないんですぅう! うへへ、本日も素敵なヒールをお召になっている……。そうだぁ……これ、染めませんか? わたくしの血でェ――!」
「いやぁぁぁあ! 誰か、誰か助けてぇぇぇえ!」
あまりの恐怖と気持ち悪さにターシャは耐えきれなくなった。
残念ながら今は取り巻きたちがいない。狂気を帯びたアンナを引き剥がすには助けを呼ぶしかなかった。
「どうしましたか。ミス・ターシャ」
救世主が登場した――ターシャはそう思っただろう。
そして、狡猾なターシャは同時にこうも考えた。
アンナが単身でふらついていることが怪しいと訴えれば、ガートルード側に不信感を与えることができる――と。
その瞬間にターシャは自分に仮面をつけた。被害者としての仮面を。
「た、助けてください! ガートルードの侍女が私に襲いかかってきて……!」
「ターシャ様ぁ! わたくし、もうターシャ様の侍女ですから――だからそんな見捨てないでください! いえ、やっぱり見捨てて! うぇへ、うへへへへ」
「な、なんの話かしら! あなたはガートルードの侍女でしょ! 見捨てるだのなんだのって、めちゃくちゃなこと言わないでほしいわ」
「あれぇ!? さっきからわたくしがターシャ様の配下に加わるから悪意あるガートルード様の虚偽情報を撤回してくれと交渉していたのにぃ!?」
「な、何を言っているの! 聞いてください、イヴェット先生! 私、偶然この方と出会っただけなのに、突然襲われて――」
「偶然、ですか?」
掛かった。
アンナはターシャから言質が欲しかった。それは、彼女が嘘をついている可能性があるというのを示すもの。
だがその内容は簡単だ。ガートルード曰く、公平な見方をしてくれる誰かの前で新しい嘘をつかせればいいと。
「あれれれ! ターシャ様、先程わたくしがお送りした手紙をお持ちになっていましたよね!?」
「え!? な、何よこれ! 知らない! 私、こんなの知らないわ――!」
ターシャは驚くような仕草をしながら持っていた手紙を投げ捨てた。しかし、その後破るべきだったと後悔する。
なぜならイヴェットがすぐにその手紙を拾い上げてしまったからだ。
「ふむ、この手紙によれば――。ミス・ターシャ、あなたはミス・ガートルードが社会的に不利になるようありもしない噂を流し、我が校の一員としてふさわしくないことをしていたことになります。もしも潔白だというのなら、なぜこの時間、この場所にいるのですか? なぜ手紙通り、二人で対面することを承諾したのですか?」
「そ、そんな手紙知りません! それはつい今、この女からいきなり押し付けられて――! きっと紙とペンを隠し持っていて、私がここにいることを確認してから書いたんです――」
「いいえ。これはミス・アンナが私の目の前で書いた、正真正銘、事前に完成していたものです」
その瞬間、ターシャの中で時間が止まった。
もちろん、実際にはそう感じられるだけだ。時間は容赦なく、無慈悲にイヴェットの言葉とともに流れていく。
「私はミス・ガートルードに頼まれ、この手紙の執筆に立ち会いました。そして手紙は私が受け取り、責任を持ってあなたの部屋に届けています。手紙が嘘だというのなら、受け取った時点で馬鹿馬鹿しいと無視するはずです。ですが、あなたはこうしてやってきた」
「チッ……。あなた、あのバカ女とグルだったのね……!」
「いいえ。私はあくまでも中立な立場にいます。ですが、今はもうどちらが噓つきかは確信となってしまいましたね」
イヴェットは丁寧に手紙を折りたたみ、懐へしまった。
「ミス・ターシャ、あなたを退学処分とします。ついてきなさい」
ついにガートルードが逆転できるほど強大な証人、そして物理的な証拠を手に入れた瞬間である。