4. アンナの発狂メーター
ターシャが暴力での邪魔を覚えてから、その許されざる行為は常習化していった。
定期的に行われるダンスの指導で――それでも集団で行われるものだから、人混みにまぎれて私の足を踏むなんて簡単なことだった。特に私は完璧に踊りを習得していたから、講師から目をつけられることもなく、悪く言えば誰も私を気にかけていなかった。だから何度ターシャが邪魔をしに来ても誰かにバレることはなく、そしてその度にアンナが身代わりになってくれた。
ターシャはどんなに暴力で訴えても折れないアンナにいら立ちを隠そうともせず――けれど、こちらからするとターシャの妨害はじわじわと効いてきていた。
だってアンナの真面目モードが切れかけているから――!
「ガートルード様っ……! わたくし、もうっ、ストレスが溜まりすぎてっ……! うぐぁっ!」
学校に来てからまだ1ヶ月しか経っていないのに、アンナは体を震わせ、歯を食いしばりながら私に訴えてきた。まさか暴力を求める禁断症状が発作するなんて……。
「耐えてアンナ! せめて夜まで――ここだと誰かに見られちゃうかもしれないでしょ」
「で、ですが……! あぁぁぁぁぁっ! 狂う! 狂い死んでしまいそうですぅう!」
「あんた、いつも狂ってるじゃない! いい? 今が正常なの、だからしっかりしないさい!」
仕方がないからここはプチ罵倒でやり過ごそう。私も久しぶりの罵倒のせいか言葉のキレがなくなってるように感じるけど、それでも何もしないよりマシなはず。
「こんなのも耐えられないわけ? ふん、失望したわ」
よし、これでアンナの飢えもしのげるはず――。
「うぎゃあああぁぁ! ダメです、私、ガートルード様のそんな優しい表情なんか見たくありませんっ! それはまだデレが来ていないツンデレの顔です!」
「ツン……なんて!? ていうか表情!? わ、私、どんな顔してたっけ……」
しまった。私が心の底から悪役にならないと、この子は全部見破って満足してくれないんだった。とはいえ、ここだと無礼な顔なんてする機会がないし、もうどういう顔で罵倒すればいいのか忘れちゃったよ……。
「ガートルード様、もっとゴミを見る目で! わたくしが雑踏の中押し倒され、人々に踏まれながら『ガートルード様、お助けを!』と申し上げても、ガートルード様は『うわぁ、この女、めちゃくちゃ人に踏まれてやがるよ。そんな汚い手なんか絶対に触りたくねーし。てか、こんなんで転ぶとか使えなさすぎ』とお考えになり、哀れみ1割と軽蔑9割の感情で私を見下ろす際の表情で――!」
余計にわからん! 哀れみ1割軽蔑9割って何!?
もうアンナのことは変態罵倒ソムリエって呼ぶべきかもしれないわ。
怖い。ドン引き超えて普通に怖い。
「ちょっと気持ちつくらせてほしいかな……。急にアンナのこと軽蔑して見るのって難しくて……」
「きぃぃいいいいい! わたくしの発狂メーターが爆発しないうちにお願いします――!」
それもう爆発してるよね。奇声をあげてるところとか。
それでも本人が爆発しないうちにと警告してるってことは、これ以上のとんでもない発作が存在するってことだ。私はなんとしてでもアンナを軽蔑の目で見ないといけない。
手っ取り早くアンナを嫌いになるには……。そうだ、アンナの気持ち悪い部分を思い出そう――っていつもだわこれ!
まずい、アンナの暴走が多すぎて私の気持ち悪いと思う感性が麻痺してる。これだと軽蔑の目で見れない。
となれば、嫌いなやつだと思うしかない。そうだ、ターシャのことを思い出せ。もし私が雑踏に押し倒されたターシャを見て、そして助けを求められたらどんな顔をする。きっとそれが哀れみ1割軽蔑9割の顔だ!
私はその場面を想像し、ありのままの表情を浮かべようとして――。
「お願い、もうやめて――!」
と。
私の耳に誰かの悲痛な声が入った。
「アンナ、ごめん! 行こう!」
「は、はい!」
その声は誰かに助けを求めるような声量だったし、そうでなくても声のした場所は近いように感じられた。声はふざけているようには聞こえなかったし、明らかに緊急事態だ。アンナもまだそわそわしているものの、突然のことで自然と真面目モードになってくれた。
声のした方向に向かわない理由はない。
「あなたなんかが私と友達でいるには友達料が必要なの。だからさっさとその侍女をよこしなさいよ」
「それなら友達なんかにならなくていいです! もう構わないで!」
「友達じゃない? そう、じゃあ敵ってことでいいのかしら。庶民ごときがこのターシャ・ヴォン・キャヴェンディッシュ様に逆らって、安心して眠れるなんて思わないことね」
そこには泣く女の子と無表情ながら庇う女性、そしてターシャとその取り巻き連中がいた。
「ちょっと待ちなさい! あなたたち、一体何をしてるの!」
私は状況確認なんてする暇もなく、とりあえず声を出した。
ターシャはそれに気づくと、私を見るなり面倒そうな顔をした。もうその顔だけで腹立たしいことこの上ない。
「ねえ、ガートルード。この子、庶民のくせにこの学校に来たらしいわ。シンデレラにでも憧れて、白馬の王子様と結婚できると思い込んでるんでしょうね」
ターシャは泣き崩れている女の子を指さして言った。
確かに、ここに入るには相当なお金が必要だから庶民がいるのは珍しい。でも、だからって泣かせる口実になるもんか。
「しかも見て、侍女付きよ。実際には正式な侍女なんかじゃなくて、ただの幼馴染みたいだけど。それで生意気だから、許す代わりに友達料をもらってたの」
「いくらするのよ、それって」
「バカね、本当のお金じゃないわ。ふふ、だって庶民から払われるお金なんてたかが知れてるじゃない。その侍女を借りてるの。何してもいいって条件付きで」
私はその侍女を見た。無表情で冷たい目をした女性で――私はその人に見覚えがあった。
あれは確か、ターシャとペアでダンスを踊っていた人だ。彼女はあの現場について強制的に見て見ぬ振りをさせられていたんだ。
「そうだ、ちょうどいいわ。オリビア、このバカ女にお仕置きしてあげなさい」
オリビアと呼ばれて反応したのは、そんな冷たい目の侍女だった。
侍女は私を睨みつけて、ゆっくりと距離を詰めてくる。
「そうね、顔が醜く腫れてしまえばアトラス様も幻滅するかしら。オリビア、そいつの顔を何度も殴るのよ」
「ターシャ……! あなた、一体どこまで私の邪魔をすれば気が済むの――! どうしてこんなことするの!」
「簡単な話よ。アトラス様と結婚するべきはこの私ってこと。でもあなたのせいで彼は私を見てくれない……。だからね、私はあそこの家に言ってやったの。アトラス様の気に入ってる女は学校に行ったことがない――だから、名門であるハーリフォードを卒業すれば認めてあげてもいいんじゃないかって。それで、あなたはここにノコノコやってきた。私の罠だとも知らずにね!」
つまり、ハーリフォードを卒業すれば結婚を認めるという条件そのものがターシャの案で、ターシャは最初からそれを私のことを潰す機会として利用するために提案したという。
「で、でも、なんであなたの案が採用されて――」
「私が正式な花嫁候補だったからよ! クリンプトンに膨大なお金だって払ってる! あそこには家族ぐるみで気に入られてる! なのに、アトラス様がお前みたいなバカ女を選ぶから……!」
アトラス様の花嫁候補は何人もいる。話を聞く限り、ターシャはその中でも最有力候補だったようだ。けれどアトラス様は家のいいつけで選ばれた人よりも私のことを愛してくれている。
私も同じ立場だったら、確かにその人を恨むかもしれない。だけど――。
「だからといって、あなたの悪事が消えることはないわ! 今ここで改心すると誓わないなら、アトラス様にこれまでのことを言いつけるから。もう二度と選んでもらえなくなってもいいの?」
チャンスさえあれば、もっと別のアプローチができるはず。私はそのことをターシャに訴えたかった。
けれどターシャには私の言葉の表面だけが伝わってしまったようで、より一層怒りの色で満ちている。
「オリビア、さっさとそいつを黙らせて――! 大切なお嬢様を蹴飛ばすわよ!」
ターシャはずしずしと泣く女の子に向かい、そのまま女の子を突き飛ばした。本当に蹴飛ばせるぞ――と伝えたいのだろう。女の子のことを軽く踏みつけ、そのままの姿勢を維持した。
そのせいでもあるのだろう。冷たい目の侍女――オリビアはドレスを着ているとは思えないほどの勢いで距離を詰めてきた。そして、私の頭部めがけてハイキックを飛ばしてくる。
「ガートルード様――!」
「え、ちょ……。アンナ……!」
そのキックを受けたのはアンナだった。アンナはまたもや私のことを庇って暴力を受けることに――。
「あっはあああぁぁ! 今の、今のもう一発お願いします――!」
なったんだけど……。
絶叫しながら歓喜するアンナ。
蹴りをもらって倒れるなんてこともなく、少し遠くから見ればガードしたのだと思えるほどだった。
「オリビア、何を遊んでいるの! さっさと腫れのひとつでもつくりなさい!」
ターシャの言葉でオリビアは何回も蹴りを出すようになった。
彼女の足技はとても美しいフォームで、アンナの体からバシバシと痛々しい音が出るほど威力があった。
ように見えるんだけど――。
「あああああ、ガートルード様申し訳ありません! わたくし、もう我慢ができずに――い、いえ! そう、これはただわたくしがグズでノロマで鈍いカメ女であるがために蹴りを避けきれなかっただけのこと! 決してわざと当たりにいってるわけではありませんから!」
なのにうちの侍女ったら、どうしてこんな余裕そうなの!
きっともう我慢の限界だったのね……。
ごめんなさいアンナ、私があなたの体質をねじ曲げてしまったの。
私のせいで……。うっ、思わず涙が……。
「あれぇ⁉ ガートルード様、どうしてお泣きに⁉ はっ、もしや――ガートルード様も私のことをシバき倒したかったとか――?」
なわけないだろうが。私、あなたの中でどんだけヤバい人物になってるのよ。
いや、ごめん、ちょっと前までそうだったね……。無茶させて、本当にごめんね……。
美人でかわいくて仕事もできていい子なのに――ドMのせいで全部台無し。涙が止まらないっ……!
「あはははは! 見て、あの女! あのガートルードが私の恐ろしさに泣いちゃってるわ! 無様! いい気味よ!」
なわけないだろうが――!
あんたは私なんかよりもアンナのことを見なさいよ。
ほら見て! 笑顔――! わかる? ありえないほど余裕ってことなの。だって笑顔よ、え・が・お――!
ああ、やっぱ見ないで!
侍女がMだなんてバレたら我が家のイメージがガタ落ちになっちゃうんだった。ここはバレないように私も一芝居打っておこう。
「うわあああん! アンナがボコボコにされてるのに、私何もできないわ! もう許してくださいぃぃ――!」
「あっはははは! 仕方ないわね。土下座して懇願したら許してあげても――」
「ガートルード様! 絶対に土下座なんてダメです! だって土下座したらこの至福が終わっちゃ――じゃなくて、あの……とにかくわたくしは大丈夫ですので!」
直立不動でビシバシ蹴られて無事な人間がどこにいるのよ――って、ここにいるけどさ。
とにかく、そろそろアンナが倒れてくれないと不自然すぎる。でもこの調子だとアンナが倒れるのに夜までかかる……。
ここは土下座でもなんでもして、アンナへの攻撃を中止させないと。この子のヤバさが明るみに出るくらいなら何やっても安いもんよ!
「ターシャ。今から土下座するからよく見てなさ――」
「うっかり転んでしまいましたァァァァア! ガートルード様の土下座を邪魔してしまい誠に申し訳ありません! お詫びにわたくしが土下座します、ターシャ様にもわたくしから謝罪させていただきます! どうか土下座するわたくしを土を踏み固めるように足蹴にしてくださいませ――!」
何やってんのよアンナァ――!?
あなた、転んだんじゃなくって自分から地面にひれ伏したのバレバレなんですけど!
しかも倒れた瞬間に土下座の姿勢になったのもおかしいし――見なさい、オリビアの顔を! ドン引きよ!
今あなた、冷たい目で無表情を崩さなかった他の侍女にドン引きされてるのよ!?
「アンナ、やめなさい! ああ、ごめんね、きっとパニックになってるせいで変なことを口走ってるのよね!」
「止めないでくださいガートルード様! 身代わりになるのも侍女の務めです! さらなる責苦を――快感を私にください!」
「いいや、これは私とターシャの因縁だからあなたには何も関係ないの! わかったら立ち上がって3歩下がってなさい!」
「ガートルード様の問題は侍女であるわたくしの問題でもありますから! ガートルード様が蹴られるならばわたくしが蹴られますし、土下座も同様ですのでっ!」
私たちがギャーギャー騒いでいたせいか、遠くから様子を見始める人がでてきた。
それを見てか「運がよかったわね」とだけターシャは残して、取り巻きたちとどこかへ逃げていった。遠くから見ていた人は数こそ多くないものの、さすがのターシャも人の目があるところで悪事は働けないらしい。
本当に運がよかった。もしこれ以上アンナが暴走し続けていたら、裏の顔がバレてしまうところだった。
途端に静かになった空間で私はひとり安堵を感じていた。
アンナはといえば――なんだか残念そうにしていた。おい。