2. もうすでに不愉快
ハーリフォード。
そこを卒業した女性は一流の花嫁であること間違いなし。もちろん、そう断言できるのはハーリフォードがそれ相応に厳しい場所であるからだ。
卒業まで外を出られない全寮制。人の目がある限り気を抜いてはならない立ち振る舞い。上流階級にしか手が届かないほど莫大な学費。優雅ながらも厳格な雰囲気がただよう校内で、私は侍女を椅子にしていた。
「ああーっ! 座り心地はいかがですかガートルード様ぁ!」
「アンナ、さすがに学校の中でこれはまずいと思うんだけど……」
「あぁぁぁぁ! やはりガートルード様は優しくなられてしまって――わたくし悲しいです! わたくしなんて雑巾で机の隅から隅まで拭かないと目に見えないくらい薄い埃です、ハウスダストです! なのに、なのにぃ……」
「今日はもうおしまい。そろそろ寝ないといけないでしょ?」
明日から本格的に勉強が始まって、私の自由時間は早朝か夜かしかなくなってしまう。それは別に休憩時間が一切ありませんなんてことではないけれど、誰の目もない空間はやっぱり自室しかないだろう。そして自室にいられるのは朝か夜、と。つまりはアンナが日中に暴走したら私の婚約はさようならということだ。
セバス曰く卒業までの3年間、ハーリフォードの教師あるいは生徒としてクリンプトン家の人間が潜入しているとか。だから私たちは学校での成績を完璧にするだけではいけないのだ。学校に潜入し、私たちを監視しているクリンプトン家の誰かを納得させるような立ち振る舞いを日頃からできていなければいけない。
「いい? 明日から我慢の3年間よ。常識的に考えてお淑やかなお嬢様は侍女のことを踏まないの」
「そうですか。なら罵倒は――」
「しない」
「ご命令は――!?」
「たまにあるかもしれないけど、侍女に頼りっぱなしだと自立できない女だと思われるでしょ」
セバス曰く侍女の振る舞いもクリンプトン家に見られているとか。というかむしろ、そこまで確認するためにアンナ同伴という条件なんだろう。
いい機会だし、この3年でアンナにはM気質を治してもらいましょう。我慢できなくて大暴走するんじゃないかと不安な反面、私以外の目が3年間ずっとある環境なら以前のアンナに戻れるだろうという期待が少し。
「私、あなたの優秀さには期待してるんだから。ちょっと気持ち悪いのをどうにかするだけでいいの。よろしくね」
「気持ち悪い……! くぅぅぅ、ありがとうございます!」
「それよそれ。やめてね、マジで」
本当に大丈夫かなあ。
そんなことを考えながら、今の私には眠ることしかできなかった。
「おはよう、ドベスバルクのお嬢様」
朝になって、学校での一日が始まった。
自室で身だしなみを整えたら、朝食から夕食まで指導の時間だ。
もちろんマンツーマンなんてことはなく、私の他にも指導を受ける人たちが大勢いる。朝の挨拶をしてくれたのはそのうちのひとりだった。
「おはようございます。何かご用で……?」
「あらぁ、用がなかったら話しかけちゃいけないの? さすが、名声高いお家のお嬢様は教育の質が違うのね」
その顔には見覚えがあった。
ターシャ・ヴォン・キャヴェンディッシュ。人のことを名声高いお嬢様とか言いつつ、彼女自身も上流階級の身だ。というか、この学校に入れるお金がある時点でほぼ全員そうだろう。
ターシャとは舞踏会で会ったことがある。その時は皮肉を言うわ意地悪をするわで最悪の第一印象だったが、結局今も同じような気持ちになってしまった。
「ドベスバルクはお家の中しか知らない箱入り娘の名家と思っていたけれど、一体どうしたのかしらね。脱・引きこもりキャンペーンでも始めたのかしら」
「ふん。行くわよ、アンナ」
ここでコイツに関わるのは時間の無駄だ。何もなければ反論のひとつやふたつ言ってやりたいけれど、ハーリフォード内にはクリンプトンの関係者が潜入している。私とコイツが口論してる現場なんて見られたら、印象が悪くなってアトラス様との結婚まで遠のいてしまう。
私はターシャの横を進もうとした――。
「へましないで無事に卒業できるといいわね。大切な結婚がかかってるんでしょ」
不敵に笑うターシャ。
私は思わず脚を止めてしまった。
「どうしてあなたがそれを……!」
「さぁ、どうしてでしょう。誰かさんとは違って家族ぐるみで気に入られてるからとか?」
「どういうこと、詳しく説明しなさい!」
「そんな怖い顔しないで。二人で仲良く卒業しましょうね。それじゃ、また後で」
「待って、まだ話が――!」
ターシャは私の呼びかけを無視してどこかへ行ってしまった。
初日の朝から最悪の気分だ。
あの口ぶり、私がここを卒業しないと結婚できないことを知っているようだった。
侍女の振る舞いも見られているのは知ってるのか? 学校内にクリンプトン家が潜入していることは?
とにかく、あのターシャがわざわざ話してきたということは、またきっと意地悪をしてくるに違いない。もうすでに不愉快だし。
「ガートルード様、ご心配なく。わたくしがついておりますので」
「うん……。ありがとう、アンナ」
でも、そのおかげかアンナの気がいつも以上に引き締まっているように感じる。
裏の顔ばかり知る私はこういう時のアンナにびっくりするが、この子の表の顔はやっぱり超優秀な侍女そのものだ。考えてみれば無茶振りをしていた時だって常人離れした体力を発揮していた。重いクローゼットを動かしたり、私を乗せた状態で馬となって動いたり――。教養だってあるし、武術の心得もあるし、顔もいいし、いっそアトラス様との結婚が叶わなかったら結婚したいくらい完璧な人だと思う。
クリンプトン家からすれば実態調査の他にも難易度を上げる意図があって侍女同伴を持ち出したのかもしれないが、正直、本気モードのアンナならば私にとって得しかない。この調子ならば3年間なんて簡単に乗り越えられるはずだ。
私は明るい未来を予想しながら歩を進めた。