10. ユスティナ
ハーリフォードの庭には気持ちのいい自然が集まっていた。
たくさんの草花が日光を弱め、清々しい風が吹いている。
走り続ける脚のリズムに合わせて私の肺は呼吸を貪っていた。空気を吸って吐いて、その繰り返し。庭の空気が綺麗なせいか、呼吸は苦しくなっているのに体の中はいきいきとしていた。
もっと吸って、もっと吐いて、そうしてもっと遠くまで走っていける。そんな気がする。
右手にはアンナの手のぬくもりがある。爽やかな風のせいか暖かい体温が際立って感じられた。
草花のアーチを進んでいくと、そこにはベンチがある。一度はそこで一日中休んでみたいと思う場所だったけれど、結局私はそのベンチに座る機会はなかった。普段は忙しいし、穏やかな時間を求めてもターシャが邪魔してくるだろうし。だから今日くらいはと思い立ったが、どうやら今回もそのベンチは座れないらしい。
「こんにちは! はぁ、はぁ……」
ベンチには先客がいたのだ。
そこに座っていたのはいつかの女の子。確か――名前はまだ聞いていなかった気がする。
でも侍女ならわかる。オリビア。いつでも冷たい目をしてる人。
とっさに挨拶をしてしまったが、まだこの子らが敵か味方かはわからないんだった。
でもターシャの取り巻きに参加してないし、信じてもいいかもしれない
「こ、こんにち……」
女の子はぼそぼそと返してくれた。彼女の気質がシャイだからというわけではなく、私たちに引いているような様子だった。
それもそうだ。突然走ってきて、息も絶え絶えで汗が滴っているのに爽やかな笑顔をしちゃってる自暴自棄お嬢様が挨拶してきたんだもの。
でもよかった。悪意がある人じゃないみたいだ。
すると、あの日、この女の子は本当にターシャにいじめられていたんだ。庶民というたったひとつの身分だけで。
「オリビアさん。これ、お話してもいいんでしたっけ……?」
女の子はハッとしたようにそんな確認をオリビアにしていた。
話しちゃいけないって……。私、疫病神みたいな扱いされてる?
「いけませんでした。昨日までは」
「じゃあもういいってことね!」
女の子はベンチから飛び出した。
私に引いていた先程の彼女はどこへ言ったのか、明るくてはきはきとした声が耳に入る。
「えっと、ガートルードさん、だよね? あの日はありがとうございました、助けてくれて」
「いやそんな、あんなのどう考えたってターシャが悪いんだし。しかもさっき一発ぶん殴っちゃった。今更だけどケガはなかった?」
「大丈夫、オリビアさんが全部守ってくれるので! そちらこそ、変なこといっぱい言われてお気の毒というか……」
「てことは、やっぱりあなたは私のことを信じてくれてるのね。ふふ、ありがと」
私が微笑むと女の子も笑ってくれた。
けど、実のところ私には疑問が残っている。さっきの話してもいいかどうかを侍女に尋ねる行為、これがすごく気になる。やっぱり私とは関わらないほうがいいってもうみんなそう思っているのかな。
「オリビアさん、結婚のことは言わなくていいの?」
「ユスティナお嬢様。それはまだ言ってはいけないやつです」
「えっ! でもお話していいってさっき……!」
「それは基本的な会話だけであって、特別な内容は全てが終わってからお話しろと。そう伝えられていますので」
ユスティナ。それが女の子の名前か。
どこかで聞いたことがあるような……。気のせいかな。
「アンナ。ユスティナって子と前に会ったことあるっけ。この学校以外で」
「ないと思いますが……。何か気になることでも?」
「うーん、どこかで名前を聞いたような……」
ユスティナ。ユスティナ……。
思い出せないけど絶対にどこかで……。
「いた! ガートルードはあっちよ!」
記憶の中に潜っていた私は突然の叫び声で現実に戻された。
見れば取り巻きをかき分けてターシャがずんずんと向かってくるではないか。
ていうか、なんだ、割とぴんぴんしてんじゃん。
「ガートルード、本当にバカな女ね! さっき学校にチクってやったわよ。私が情けをかけて五分五分にしてあげたのに、本当に救えない愚か者なのね。今度こそこの学校から消えなさい!」
「そう、もうここにいられないんだ……。じゃあもう一発あんたを殴ってもいいってことね……!」
「はぁ!? 頭おかしいんじゃないの! ちょっと、やめ――」
「待ってください、ガートルード様」
アンナが私を止めたと、一瞬そう思った。
でも声がアンナのものではなかったし、私の腕をそっと触って落ち着かせたのもやはりアンナではなかった。
アンナの手は温かいけど、この指先は冷たい。その正体はオリビアだった。オリビアが私を止めた。
「あら、オリビア、庶民のくせに気が利くじゃない。今日は別にその小娘を人質にしてるわけでもないのに」
「はい。だから反撃をと思いまして。ユスティナお嬢様は丁重に扱えと言われていますから」
「庶民のくせに何言ってるのよ。しかもわざわざ『お嬢様』とか――あんたら幼馴染なんでしょ? しかもオリビアのほうが年上なのに。ごっこ遊びもここまでくると笑えないわ」
「言い残した言葉はそれだけですか……?」
オリビアが首を回し、屈伸をし、その場で小刻みに跳んだ。明らかに準備運動だ。最大のパフォーマンスを出すための――ターシャに一番完璧な蹴りを放つための!
「待ちなさいよ! こっちはお金も権力もあるのよ! ガートルードはまだ学校を追い出されるだけだけど、庶民なんか私が本気を出せばもっとひどいことに――」
「申し遅れました、私はオリビア。アトラス・デュ・クリンプトン様、及びご領主様より指示を受け、この学校に潜入しております、クリンプトン家のメイドでございます」
「は、はぁ!? どういうこと! ガートルード、あなた何をしたの!」
別に何もしていない。私だって初耳だ。
そうか、クリンプトン家が送った私の監視役はオリビアだったんだ。だからずっと話せなかったのか。
「で、でも、待って! こんなの不当よ! 私、何も悪いことしてないでしょ! そう、全部水に流して五分五分だったところをガートルードが殴ったんだから!」
「五分五分? それはこれを見ても言えますか?」
オリビアの手から折りたたまれた紙が次々と出てきた。とんでもない手品のように見えるけど、本題はそこじゃなかった。
偶然私の足元に落ちた紙を拾ってみると、そこには私の悪評や悪口が乱雑に書かれていた。悪質なのは私に関しても情報が嘘ばかりだということ。知らない人がこれを読めば私の印象はガタ落ちだ。
「これはあなたたちが書いた、ガートルード様をおとしめるための悪質な手紙の一部。匿名で様々な場所に拡散し、ガートルード様を社会的に攻撃しようとしましたね」
「あんた、最初からその手紙を保管するために……!」
「ここにないものはアトラス様もお読みになっています。計五十通でしたね。その結果、あなたは花嫁候補から除外。これ以上あなたがガートルード様を邪魔する必要はないと思いますよ」
「ふ、ふざけんな! こうなったら結婚なんてどうでもいい! 顔に傷でもつけてガートルードも結婚できないように――!」
ターシャは小さなナイフを取り出した。果物用のものだ。恐らくは学校の備品。
力勝負なら私とターシャに大差はないだろう。でも凶器を持たれたら私はどうすることも――。
両手にナイフを握って突進してきたターシャが見えなくなったのはオリビアのドレスが遮ったからだった。スカート部分のひらひらがちょうど私の目線にあって、つまり彼女は自身の脚部が私の目の位置になるほど飛び上がっていたことになる。
なぜそんなアクロバティックな動きを。そんなの簡単なことだ。
オリビアはターシャの首辺りを横から思いっきり蹴ったのである。
横から入った蹴りはそのまま地面に向かって斜線を引くように動き、オリビアは着地した。
「これはユスティナお嬢様を傷つけた分です」
ドレスをぱんぱんと払うオリビアの足元には気絶して伸びあがったターシャが転がっていた。
それから私のほうを見て、やっぱり冷たい目で、でも少し微笑んだような気がした。




