1. 学校に行こう!
ドベスバルク家の名を知らない者は、おそらくここ周辺の地域にはいないだろう。
私はそれほどまでに有名な家に生まれ、才色兼備が大前提として育てられてきた。たとえ小さな失敗でも、些細な恥でも、それらが全て家名に泥を塗る。だから私はいついかなる時も完璧でいなければならなかった。
――のに。
「ガートルード様! どうか今日もそのお脚でわたくしめのことを踏んでいただきたく――」
「嫌に決まってんでしょーが! そのお願い何日目よ!? ちょっとあんた頭おかしいわよ!」
「はいぃ! アンナは頭がおかしい侍女なんです! だからどうか、狂人にふさわしい罰を――!」
今日も今日とて、私の足の裏を狙う侍女がいた。
アンナは優秀な侍女――の皮を被ったただの変態だ。叱られる、踏まれる、冷たくされる、苦痛という苦痛をアンナは嬉々として受け入れるのだった。むしろ欲しがる。ありえないほど要求する。
でもその前に私、ドベスバルク家の女ですよ? あと数年すれば他のいい家と結婚するような身分ですよ? そんな女が侍女であれ、人を踏むなんて乱暴なことをしたら、一体どんな噂が流れてしまうことやら……。
だからアンナの要求は迷惑で仕方がない。でも私には冷たく突き放すことができない理由がある。
それは私が10歳のころ。まだ物の分別をわきまえていなかった私は、アンナにいろいろな無茶を命令していた。
「ねえアニー、お部屋をもっと広くしてみたいの」
「そう申されましても……わたくし、建築の心得はないので」
「じゃあクローゼットを一回お部屋から出して。あれのせいで部屋が狭く感じる」
アンナは私と2歳しか違わなかった。10歳と12歳――その2歳差に大きな体力差はなかったから、私が動かせないほど大きなクローゼットなんてアンナが動かせるわけがなかった。
それなのに。
「廊下まで……移動させました……! これで、いかがでしょう……!」
アンナは数ミリ、数センチとクローゼットを押すことで私の無茶を叶えたのだった。とてつもなく時間はかかったし、アンナは汗だらだら。当時の私はその後に「満足したわ。じゃあ戻しておいて」と冷たく言って――それでも必死に頑張るアンナを見て笑っていた。
他にも。
「馬ってあまり好きじゃないわ。私よりずっと大きいし、襲われたら大人でも無事じゃ済まないでしょ」
「大丈夫ですよ。ああいうのは調教師が人を襲わないようしつけているので――」
「アニーが馬だったらいいのに。そうよ、そうしましょ。アニー、一回馬になって」
「え……。馬になれ、とは……?」
特別必要でもないけれど、父の趣味で私は馬術を教えられていた。馬術といっても、ただお馬さんにぱっからぱっから乗って「どうだい楽しいだろう」程度のお遊びだったけど。それでも、もし馬が本気で暴れたら人間は絶対に助からないだろうなと子供特有の想像力で考えることは少なくなかった。だから実際に馬が怖いかと聞かれるとほんのちょっとはそんな気持ちもあった。
しかし今回はその気持ちがなかったとしても、確実に馬恐怖症のふりをしていたに違いない。
「そこに伏せて。そしたら私が乗るから」
「はぁ、わかりました」
私は床に両手と両脚をつけたアンナの上に乗って、べしべし体を叩いた。誰にも見つからないように部屋の中だけを意味もなく何十周もさせて、馬の役目を終えたアンナはぜえぜえ息をしていた。
「お楽しみ……いただけましたか……!」
「まあまあね。ま、気が向いたらまたよろしく」
アンナはスマートで優秀な侍女で、表向きの評価は冷静沈着、完全無欠と言われている。それが私の無茶ぶりひとつで血相を変えて必死になるものだからギャップが面白かった。
とはいえ私も成長する。いつしかこの楽しみ方は道徳的によくないものだとわかってきて、アンナに無茶ぶりをしなくなった時。そう、その時にはもう手遅れだった。
「ガートルード樣、最近はわたくしとお戯れになってくれませんね」
「あら。なあにアンナ、遊びたいの?」
この時私は13、アンナは15だった。淑女として行動を改めるお年頃だ。
「差し支えなければ、ぜひ……」
「いいわよ。チェスなんてどう?」
「はい、ぜひ! ついでに勝者が敗者をビンタする特別ルールでやりましょう!」
「は?」
お年頃の私とはいえ、アンナと二人っきりの時は立ち振る舞いもくだけたものになるのだった。ただ、そうだとしても、この日ほど素で困惑し、あり得ないほどひっっっっくい声の「は?」を出すことは後にも先にもないことだろう。率直にアンナの言うことのわけがわからなかった。
「え、何? ビンタ?」
「はい、ビンタです! 頬に思いっきり――」
「いやしないでしょ。な、何? 壊れちゃった?」
「あああああああ! なぜかわたくしのキングが単独で最前線にぃぃぃぃ!」
チェスのルールを知らない人のために解説すると――とにかくキングを取られたら負けということだけ知っておいてほしい。アンナはその守るべきキングをあろうことか単独で前に出した。
「ねえ、絶対にわざと負けようとしてるよね?」
「そんなことはないのですが、そう思えるほどの大敗――これはビンタまっしぐらですね! さあ、一発お願いします! 手形が残るくらいに、さあ!」
キングは1マスずつしか進めない。つまり、キング単独前線上がりは数ターン必要となる。間違えて動かしてしまったなんてのは絶対にない。
わざとだ。誰が見てもわざと。
「待って、あなたちょっと疲れてるのよ。大丈夫? 何かつらいことでもあった?」
「それはこちらのセリフですよ! わたくしのことをいじめ倒すガートルード様はどこにいったんですか!? 口を開けば労いばかりで、最近は罵倒のひとつもしてくれない、それに肉体的にも休ませてくるし……。わたくしはもっとあなた様にいじめられたいです! もっと熾烈に、もっと過激に!」
以下省略――今日に至る、と。つまり、アンナがこんなになってしまったのは私の無茶ぶりのせいで、それゆえに突き放したり見捨てたりできない。昔よりも要求が過激になっていたり、私からの責苦じゃないと満足できなくなったり、とにかく昔より変態になったアンナだけど、表向きの評価は全く変わらない。もちろん、私がアンナをいじめていたことを知る人もいない。それだけが唯一の救いだった。
「踏んでください踏んでください踏んでください踏んでください!」
「わかった、わかったわよ! その代わり裸足ね。あなたの服が汚れちゃうから」
「ありがとうございます! ガートルード様の裸足、うへ、うへへへへ」
アンナが欲求不満で暴走するのも嫌だから、仕方なく私は要求を呑んでいた。適当にやっていたらアンナの快感にならないから、私はなるべく本気でいじめる悪役を演じるしかない。あくまでも演技だけど、もしこれが他の人に知られたらどうなることやら。
「あなたのような人間、こうやって足蹴にされるくらいがお似合いよ! せいぜい足ふきマットの代わりくらいにしか使えないんだから!」
ぐりぐり踏んでやると、アンナは身悶えしながら嬉しそうにニヤけていた。
「ありがとうございます、ありがとうございますぅ! はい、足ふきマットです。ちゃんと誠心誠意ガートルード様の足をお綺麗にさせていただきます!」
「はぁ? 綺麗にしてんのはあんたじゃなくてあんたの洋服でしょうが。何思いあがってんのよ。それとも、まだ自分にそんな価値があるとでも?」
「あはああ! すいませんでした、わたくしはゴミですクズですチリです芥です! わたくしとしたことが失念しておりましたぁ!」
人間の尊敬を百回は踏みにじってしまうような発言だが、アンナはとても楽しそうだった。
なんだこれ。私は何をやっているんだ。
私、こんなんで本当にちゃんと結婚できる? というか、アンナはいつまでこの気質のままなの?
もしかして私は一生アンナを踏まないといけないの? さすがに困るんだけど。
「お嬢様、いらっしゃいますか」
コンコン、と私の部屋をノックする音とともに声が聞こえた。
まずい……! いらっしゃるも何も、つい今くそでかい声で侍女のことを罵倒していたんだけど!
万が一ドアの向こうにいる誰かがさっきまでの発言を聞いていたら怪しまれるに違いないし、ここは――。
「い、いるいる、いるわよ! どうぞお入りになって」
「失礼します。おや、どうされました?」
床には倒れこんだアンナ。私はそんなアンナの体を起こすために手を差し伸べているところ――という感じの雰囲気にしておいた。
「ちょっとアンナが転んじゃって。なんかとんでもなく滑る足ふきマットを踏んでね。だから二人で話し合って、次のゴミクズチリ芥に出そうと思ってたところよ。ああ、ごみの日ってことね。ごみの日をこう呼ぶのは私たちだけなんだった。うっかりしてたわ。いやいや、なんでもないの、本当に」
「左様ですか。いやはや、お取込み中に申し訳ございません。伝言がございまして」
セーフ! あっぶないわねホントに!
部屋に来たのがセバスチャンでよかったわ。セバス、もう70くらいのおじいちゃんだもんね。多分ボケも進んでることでしょう。ナイスボケ!
「アトラス様からです」
「彼から? まさか、婚約破棄なんて言わないわよね」
「いえ、そのようなことは……」
「冗談よ。ちょっとブラックすぎたわね」
アトラス・デュ・クリンプトンは私の婚約相手と言っても差し支えのない人だと思う。彼の説明にこれだけ歯切れが悪くなるのは、彼と私の仲のよさとは裏腹に、彼の両親がその結婚に反対していることが原因だった。
クリンプトン家は私たちよりもさらにいい家柄だ。私の他に結婚したい家――つまりアトラス様の花嫁候補なんていくらでもいる。それほど立候補が絶えないのだ。
完全な恋愛結婚なら、私が選ばれるはずなんだけど……。
「確かに婚約破棄ではありません。ですが……結婚するにあたり、ハーリフォードを卒業せねばその資格はないとのことです。アトラス様自身に学歴のこだわりはないようですが、どうやらあちらのご両親が結婚相手としてお認めになる条件としてこれを提案してきたとか」
ハーリフォードといえば国の中でも一番名門の女学校だ。ただ、教えられる内容なんてどうせ礼儀作法とかダンスの仕方とかそんなものだろう。その程度のもの、私はこの家に生まれた時から教え込まれてきた。
「なんで今さら学校なんて……」
「もちろんアトラス様はお嬢様を愛しておられます。ですが、他の花嫁候補はいずれも学校を卒業している者ばかりです。それゆえにクリンプトン家に一番として認められたいのならば名門を卒業する必要があると、そういうことなのでしょう」
「ふん、私を誰だと思ってるの。それくらい首席で出てやるわ」
「ええ。お嬢様ほど聡明な方ならばわけなく卒業できるでしょう。ただ少し厄介でして、今回はお嬢様だけの問題ではなく――」
セバスチャンはアンナに向き直った。
まだ興奮気味のアンナは薄気味悪いニヤけ顔を隠しきれていない。
「アンナ様もご一緒に、とのことです」