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私と彼の英雄は、寝室に用意したテーブルを囲んで座りました。私は熱めに紅茶を淹れ、彼の英雄に差し出しました。彼の英雄は、
有り難う、と言い、カップの縁に口を付けました。途端に、彼の英雄は顔を顰めました。
「香りは悪くないのに、美味しくないですね。しかも熱すぎます」
と、感想を述べました。
「少しの間テラスに寝転がって寝そべっただけで、私は身体の芯まで冷やしましたので、熱い紅茶が良いと思った次第です」
私は彼の英雄の身を案じる素振りをする。実際のところ、その程度で私の体温が下がるように出来ては居ない。しかしいつまで経っても彼の英雄ほど上手くは紅茶を淹れられない。
「確かに、身体は冷えましたが、寒い、とは感じませんでした。別に身体に異常がある訳ではありませんし、五感の感度が落ちている訳ではありません。しかし、五感からもたらされる情報に対して、私自身の情動との結びつけが徐々に弱くなっているように感じます。私があの場所で感じるのは、眺望がとても美しいということ、安堵と、ほんの少し孤独を感じました」
そうですか、と私はすげなく仰っていました。これから行われる治療と、これから彼の英雄に訪れる運命を思うと、テラスで無邪気に美しいものについて私に語り聴かせた姿も、夜空に手を伸ばしていく姿も、胸を締め付けずにはいられない。その全てを無意味にするのだから。
「第六感はどうですか」
「第六感は鋭敏さを増しています。魔力の流れを通して様々な事象を知りますし、声も、より強く、よりはっきりと聞こえます」
と、彼の英雄は目を閉じて答えました。長い睫が微かに震えていました。
「貴女には、その声がどのように聞こえているのですか?」
と私は尋ねました。彼の英雄は、
「世界の滅びに対して唯々哀しんでいます。そして、世界に謝罪を続けています。私にはずっとすすり泣き続けているようにも聞こえます」
私も、哀しみを帯び、すすり泣く存在を近くに感じた事はありました。それは決まって、この世界の不条理、つまり悪に相対する時であり、私が魔法を行使する時で、それが私に強い力を与えてくれる一方で、心に小さな澱を残していく。彼の英雄はかつてその澱を、「カナシミ」と呼びました。
————「カナシミ」を持つ事は、この世界の抱える「悪」に対する価値観を共有していることの証であり、それは魔法使いのみに固有の現象である、とかつて彼の英雄は説明しました。魔法使いは、この世界の抱える「カナシミ」を部分的に引き受けることにより、この世界から大源からこの世界に供給されている膨大な魔力を一部借り受けることが出来る。それが大魔術の定義。
その魔法がこの世界にカナシミをもたらす「悪」を倒すものである限り、そのカナシミが魔法使いを害することはない。でも、カナシミを蓄積し続けると、魔法使いの精神の容量を超え、いずれ魔物を生み出すから、そうなる前に魔法使いは最後の旅に出る————
だから生き延びることが目的なら、魔法を使い過ぎては為らない。「悪」のために魔法を使っても為らない。いかなる魔法使いであろうとも、人の器でこの世界全てのカナシミを背負うことなど決して出来はしないのだから————、と。
では、貴女が旅の中で幾度となく行使した魔法は何なのですか? この世界にカナシミをもたらす「悪」を幾度となく倒す純粋な魔力の奔流は、一体どれだけのカナシミを貴女に残したのですか? この世界の「カナシミ」の声が、常に聞こえている今の貴女は、貴方自身の身体の維持と、精神の維持にどれだけの魔力を必要とし、日々どれだけの新たなカナシミを蓄積させているのですか?
私はこれらの疑問に蓋をしました。返答は解りきっている。
————だから最後の旅に出るの————
彼の英雄はそう答えるに決まっているし、現に、現に幾度となくその話をしました。しかし彼の英雄が自分である内に、自らを滅ぼすか、自らを世界に捧げる為の旅を完遂すると決定してしまいました。その決定は、彼の英雄の弟子も、私も、王女様であろうとも覆すことは出来ませんでした。
ただ当座の問題は、彼の英雄の身体が、旅を完遂させるよりも早く限界を迎える見込みが高いことでした。カナシミを蓄積した彼の英雄の精神が徐々に身体に収まりきらなくなり、身体から解離していこうとする現象————一般的には「死」と呼ばれている現象に他なりませんが、人の死が身体機能の生物学的限界から生じるのに対し、彼の英雄の場合は、カナシミの蓄積と精神の複雑化による身体の機能的性能不足が原因でした。五感の反応に対して、情動が鈍くなるのは、神経系が脳に与える入力信号の強度が相対的に弱いから。反対に第六感が鋭敏になっているのは、世界と彼の英雄の境界が曖昧となり、彼の英雄の身体と精神をこの世界から分離して、維持するために大量の魔力を使うため。
だから彼の英雄が来賓室のテラスからただ情景を目に焼き付け、王都の人々の声に耳を傾け、風を肌で感じ取り、星空に感動することには意味がありました。ついでに、私の淹れたあまり美味しくない紅茶の香りに感想を述べたり、不味い紅茶に口を付けることも、ほとんど同じ目的。五感の反応を改善し、精神と心を彼の英雄の身体に結びつけるための訓練に他ならない。
だから私は、
「いかなる魔法使い、英雄であろうとも、人である性質の上に成立するものです。王宮から脱出した後も、第六感だけでなく、五感からの情報に集中して下さい。人や自然の音に耳を傾け、遠くの空を臨み、風を肌で感じ続けて下さい。例え必要が無くとも、食事は続けた方がよろしいですし、紅茶なりハーブティを淹れてその香りを楽しんで下さい。貴女は、目的を達成するまで死ぬつもりは無いのでしょう」
と、尋ねました。彼の英雄は、ええ、と答えました。
きっと律儀な彼の英雄のことだから、死ぬ最後の瞬間まで、人であろうと努力し、この世界の姿を見続けることでしょう。どれだけ美しいものであろうとも、あるいは汚濁に塗れた世界であろうとも。